「Who am I」11
レナは屋敷の裏庭にいた。溝に向かってしゃがみ込んでいる。その背中は小さく震えていた。近づかなくたって分かる。嘔吐しているのだ。
「大丈夫?」
「ユウ……」
振り返った顔は青白い。嘔吐といっても腹の中はほとんど空なのだ。胃液ばかりを吐き出す苦しいものだろう。
「心配はいりません」
「そういうわけにもいかないよ。人は食べなきゃ死ぬんだぜ」
「……食べなければ死ねるなら、食べたくはありません。目を瞑るたびに殺した人々の顔が浮かんできます。呪いの叫びが聞こえてきます。もういっそ……」
赤い瞳が一瞬だけ翳る。レナは大きくため息を吐いた。
「今のは忘れてください。私の中に獣がいる限り、私は不死です。死ぬことはできないし、死ぬわけにもいかない」
「そうだね。不死ってのも大変そうだ」
立ち上がった。目が合う。その紅玉から弱さは消えて鋼のように冷たく硬い意志がある。
「聖書原典十三章を探さなければ」
レナの求めるもの、聖書原典十三章。
「手がかりはあるの?」
「ないわけではありません。おそらく……魔女が持っているのでしょう」
魔女。この一日で何度も耳にした単語だ。左の上腕の傷が疼いた。
〈黒幕は魔女〉
〈黒幕は魔女〉
〈黒幕は魔女〉
「魔女って何さ」
「人智を超えた魔術を操り、精霊と悪魔を従え、世界を思うままに変革する存在。しかしそんなおとぎ話の魔女は実在しません。この街にいるのは、聖書原典の術を悪用して病をばらまき、魔女の名を騙り人々を惑わす悪党です」
「魔女、記憶を失う抜魂病、聖書原典十三章か……」
「あの抜魂病という病は自然のものではありません。十三章に記された儀式の産物という推測は外れていないでしょう」
悪い魔女が、不気味な魔導書で、呪いの病をまきちらしている。童話みたいな使い古された筋書きだな。
「ふーん。それでそいつはどこにいるの?」
「それは……」
レナは返答に窮した。
「分かりません」
「じゃあ探さないとね。あの塔でその"偽魔女"に捕まっていたんでしょ? 顔とか見てないの?」
首を横に振った。
「魔女とは会っていません。私が捕らえられたのは――大通りですれ違う人みなに魔女の居場所を尋ねたからです」
それは何というか、すごく――
「豪快な手段に頼ったね」
レナは何も顧みずに行動してしまう時があるらしい。なんとなくイメージはできる。
「他にどうしたらいいか分からなかったのです。すぐに魔女の手下がやってきて失敗に終わりましたが…… しかし、今はある方法を思いついています。自警団と教会に協力を頼みましょう」
「自警団と教会?」
自警団は犬のおまわりさんであるムムが所属する組織で、教会はレナを指名手配しているクソ野郎どもだ。自警団と仲良くするのは結構だが、教会と協力なんてできるだろうか。
「難しいでしょうが、やるしかありません。この街ルナリで魔女を追っているのはこの二組織だけです。顔を隠していればスカーフをはぎ取られることもないですし」
うーん、なんでもいいか。レナに手を出すようであれば皆殺しにすればいい。いや、殺すのはダメなんだった。まあうまいことやろう。
「それじゃあムムに会いにいく?」
「いえ、実はヴァイさんとキケロさんは自警団員所属らしいのです。二人に話を聞いてみましょう」
▼△▼
キケロの部屋の扉は壊れたままだ。
「俺はもうこの布団の中から出ない!」
彼は自室でシーツを被り籠城作戦を決行していた。その頼りない守りを引き剥がそうとしているのは姉であるヴァイ。
「おい! 思い出すんだ! お前はそんな弱虫じゃない! 強気で自信に溢れて堂々とした男だ!」
「分かんないって! 無理なもんは無理!」
「チッ。記憶を失ってもその口癖は変わらないのか? 逃げることばかり覚えて―― 自警団の次期総長としての自覚を持つんだ」
「自警団が何か知らないけど、総長なんて俺には無理だ!」
賑やかな姉弟だ。仲が良くて素晴らしい。
「そればっかり…… いいか、お前は弱虫じゃない。女の子とうまく喋れなくて私に泣きついてきたりもしないし、小さいことですぐにお腹が痛くなったりもしない!」
「なんの話だよ!」
「この記憶喪失をきっかけにして、お前は変わるんだよ! 私が改造してやる!」
「いやだいやだ!」
なんと可哀想なキケロ。記憶を失っただけでなく、今度はマッドな姉に性格を書き換えられようとしている。
僕は咳払いをした。
「ごほん」
ヴァイが振り返って僕らに気付く。
「おっと失礼。見苦しいところを見せてしまったな。――何か用があったか?」
「実は僕たちは魔女を探しているんだ。君たち自警団員なら何か知ってるじゃないかと思って」
ヴァイは困ったように眉を寄せて頭を掻いた。
「私は自警団員といっても名義を入れているだけで実際には何も活動していないからな…… たまに団員をおもちゃにしているだけで」
「それは……楽しそうだね……」
「ん? 興味があるか?」
「ないです」
「そうか、残念だ。……魔女を探していたといえばまさにコイツだ」
ヴァイはシーツに包まったままのキケロの白い頭部を引っ叩いた。
「こいつは魔女を見つけたかもしれないと言って出て行ったきり帰ってこず、数日経った昨夜に路上で見つかったんだ」
それは、何か重要な情報を知ってしまい魔女に記憶を奪われたようにしか思えない。
「キケロ、思い出すんだ」
「無理だよ…… 頭の中が空っぽなんだ……」
「使えないなあ。――ヴァイ、カエルにしちゃいなよ」
「やめてくれえェ!」
「ハハ」
ケロケロ、ゲコゲコ、クワックワッという鳴き声がどこかから聞こえてくる。あの二足歩行するカエルいったいどこに潜んでいるのか……
キケロは情けない声を出してシーツの中でますます小さくなった。ヴァイが諦めたように息を吐いて僕とレナに体を向ける。
「……魔女を探したいなら教会に出向くといい。今の自警団は実質壊滅状態だ。市民議会もな。みな抜魂病にやられてしまった」
「教会かあ」
「ああ、奴らは魔女狩りを大喜びで行っている。私のところにも真っ先にやってきたが、お小遣いを渡せば帰ってくれた。まあ魔女狩りという名の集金行為だな……」
悪質すぎるだろ。これだから宗教団体は嫌いなんだ。
ヴァイは邪悪な笑みを浮かべてとんがり帽子をくいっと上げた。
「渡した金貨はメッキ品だし、素晴らしい薬剤を塗っておいた。連中は原因不明のかゆみに悩まされているだろう。それはそれとして……魔女を見つけてどうするつもりだ」
「ぶっ殺すんだよ」
レナが僕の横腹をつねった。
「違います。病をばらまくのをやめさせて、治療法を教えてもらいます」
「そんなに上手くいくだろうか。相手は魔女を名乗る傲慢不遜な人間だぞ。お話で済むなんて、楽観的としか思えないが」
「それでもそうするしかありません」
「……まあ好きにするといい。私は私の――薬師のやり方で解決策を探るよ。研究室にいるから、何か困り事があれば訪ねてくれ」
「ありがとうございます」
ヴァイは去り際にキケロを睨みつけた。
「キケロ、今日は見逃してやるが……明日もこうだとは思うなよ。いつまでも引きこもるようであればケロロちゃん一家をこの部屋に突撃させるからな」
「やめてください!」
ヴァイは壊れた扉をまたぎ、足早に廊下の奥へ消えていく。
ケロロちゃん一家とはあのカエルのことだろうか。ぜひ話してみたい。まったく奇妙な生命体なのだ。
足音が完全に聞こえなくなるのを待ってキケロが顔を出す。
「殺されるかと思った……」
「ははは、殺されるわけないだろ。実の姉だぜ」
「そうかもしれないけど、俺には分からないんだよ。あんたらと話している方がよっぽど落ち着く。一方的に知られているっていうのはなんか――怖いんだ」
亀のようにシーツから首だけ伸ばしている滑稽なキケロの顔はひどく真面目だ。
「さっきは屋敷から連れ出してくれなんて言ったけど……やっぱり俺はこの部屋から出たくない。何と言われても出ないつもりだ。お姉ちゃんにやんわりと伝えてくれないか」
「やだよ。自分で言いな」
「無理だよ。何されるか想像もできない…… 部屋の外に一歩出れば死ぬ気がするんだ……」
「大袈裟だなあ。……まあ気持ちは少し分かるよ。僕もしばらく引きこもっていた時期がある。人の目が恐ろしくてね。でも一度外に出てみれば意外となんともないものさ」
「…………」
机の上には食べ終わった食事の跡があった。汁物、コップ、そして果実の皮。
「クレタの料理は美味しかったかな?」
「え? ああ。やっぱり家族なのかもな。なんだか不思議と懐かしい味だった」
「ならそう伝えてあげれば、クレタは喜ぶだろう。彼女は君のことをすごく気にかけているから」
「……そうだな。次にご飯を持ってきてくれたときに言ってみる」
「うん。まあ、お大事に。早く記憶を取り戻せることを祈ってるよ。――行こうか」
レナを連れて部屋を出る。
教会へ行かなければ。
うざったい僧侶どもと手を組み、魔女を見つけ出して聖書原典十三章を奪い取るのだ。
また傷がじくじくと熱を持って存在を主張し始めた。肌に刻みこまれた二つの文字列だ。
〈魔女を殺せ〉
〈取り戻せ〉
〈魔女を殺せ〉
〈取り戻せ〉
〈魔女を殺せ〉
〈取り戻せ〉
魔女と会えばすべてが分かるだろう。悪魔的直感が僕を急き立てる。
「教会に向かうのは――今からでいいかな?」
「はい。出発しましょう。善は急げ、です」
レナはスカーフを巻いて顔を隠した。冷徹な双眸が僕を貫き、その虹彩の深淵に吸い寄せられる。
「一応念押しをしておきますが……何があっても殺しはなしでお願いします」
「分かってるって。半殺しでとどめるようにするよ」
「……まあいいでしょう。私が癒せますから」
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