「Who am I」9
時刻は早朝。僕の眠気は既に限界を突破している。部屋に案内されてすぐにソファに倒れ込んだ。
「あー疲れた」
「ごめんなさい。付き合わせてしまいました」
「いいんだよ。僕も本当にイヤなら勝手にどこかに行くから」
なかなか良い部屋だった。二人いても手狭には感じないし、ソファも沈み込むように柔らかい。そしてベッドの足元には、お湯の張られた木桶が置いてある。
「これはなんだろう?」
「何って…… 湯浴みのための桶ですよ。ユウのいた世界には無かったのですか?」
「ああ、そういうことね。僕の国では浴槽にお湯を貯めるのが一般的だったんだ。こんな桶じゃ肩まで浸かれないじゃん」
「なるほど。ここルナリでは庶民はそんなお湯の使い方はしません」
レナはスカーフを外した。彫刻のように整った美貌に視線が吸い込まれる。いつまでも見慣れることはないだろう。
「スカーフをつけてるの、もったいないよ。せっかく可愛いんだから」
レナが呆れたようにじとりと視線を飛ばしてくる。
「お世辞はやめて下さい。指名手配されてる以上、顔を晒すことはできません」
「そうか、残念だ。――先に湯浴みしていいよ。僕は見てるから」
「見ないでください」
「えー」
見たい。見なければいけない。使命感に突き動かされた僕はレナを説き伏せるべく舌を回す。
「じゃあどうしろっていうのさ。レナがお風呂でのんびりしてる間、マッドドクターと狂人とカエルばかりのこの館を一人で散歩してろって言うの? ただでさえ異世界で不安いっぱいなのに……ひどいよ!」
レナは困ったように髪の毛の先をいじり始めた。
「わ、わかりました…… それなら部屋にいてもいいですけど……」
しめしめ。この娘は優しい。弱者を装えばどうとでも丸め込めるのだ。
「…………」
「ほら、早く始めなよ。僕は寝る前はお風呂に入る主義なんだ。レナが終わらないと僕も湯浴みできないからね」
「ユウがお先にどうぞ。私は残り湯で構いません」
「いや、レナが先。僕はレナの垢で汚れたお湯で体を洗いたいんだ」
「変態ですね ……こっちを見ないでくださいよ」
「はいはい」
「ぜったいですよ?」
「分かってるって」
僕はレナに背中を向けた。しかし僕の視線の先には――鏡がある。角度はばっちりだ。レナはしばらく固まったまま微動だにせず焦らしてくる。なんて女だ。
「やっぱり恥ずかしいです…… どうしてもダメですか……?」
「どうしてもダメだ。僕は一人になると死んでしまう」
「そうですか。はあ……」
レナはしばらくの間僕が振り向かないことを確認して、ようやく服を脱ぎ始めた。なにやら複雑な構造の修道服を少しずつ解いていけば雪のように穢れのない肌が晒されていく。
美しい。
僕はその絶景を焼き付けるべく瞬きすら惜しんで目に全神経を注ぎ込んだ。
いよいよ下着姿になったレナ。ごくりと喉が鳴る。その豊満な双丘を拝めると思った瞬間、レナの手が止まった。
何を思ったのか、レナは僕に背中を向けた。そして下着を脱ぐ。
「クソッ!」
「ユウ!? どうしました?」
「目にゴミが入っただけだ。大丈夫。気にしないでくれ」
「そうですか……」
なぜこっちに体を向けてくれないんだ。
僕は鏡の向こうの艶めかしい背中を見つめた。浮き上がった肩甲骨までもが美しい。振り返って直接拝見し、なんならまわり込んで写真に収めたいところだが、悪魔としては約束を破るわけにはいかない。
小さな水音と息遣いだけが部屋を満たす。
ちゃぷちゃぷと布巾を濡らし、体を上から順番に拭いていく。色っぽい。絶対に見てはいけないものを見ている気分だ。
「ねえ、背中を流すの手伝おうか?」
「結構です」
「僕、マッサージ得意なんだけど……」
「結構です」
そっけないレナの態度に少し苛立ちを覚えたので、意地悪を言ってみることにした。
「このあと早速、契約の履行を求めるつもりだから、体は綺麗に洗っておいてね。……まさか悪魔との契約の代償を忘れたとは言わせないよ」
ぴたりと凍り付く。
「……このあと、ですか?」
驚きやら戸惑いやら焦りが混じった声。
「問題あるかな?」
「……いえ、ありません」
「せっかくだし、マッサージしてあげようか?」
「……それはそういう趣向で行うということでしょうか?」
「ハハハ、違うよ。君は揶揄いがいがあるね」
「私には作法がよく分かりません。なので揶揄うのはやめて下さい」
清拭を終えたレナが修道服を身につけていく。手慣れた動きだ。至極のサービスタイムはあっという間に終了した。
そして振り返り、鏡越しの僕とばっちり目が合う。
「あの、見てましたか?」
「見てないよ」
「それは無理があります。嘘はよくありません。見てましたよね?」
「ちょっとだけ見てた」
レナは形のいい眉を歪めた。唇を突き出したり腕を持ち上げたり、精一杯怒りを表現しているようだが……小動物のようにしか見えない。
「ハハハ、可愛い」
「私は怒っています」
「怒ることに慣れてないんだね」
そして大きなため息を一つ。
「お待たせしました。私の残り湯で申し訳ありませんが……」
「うん」
「それじゃあ、私は部屋から出ておきます。少ししたら戻ってきますので、ノックをしたら返事をください」
「いや、いて欲しいな。一人になると死ぬって言ったでしょ。話し相手になってよ」
「えぇ」
「いいでしょ。僕は別に見られても怒らないよ。心が広いからね」
「私の心が狭いみたいな言い方しないでください。……一人きりになるのが怖いのなら一緒にいさせていただきます」
「よろしく」
正直に言えば布で拭くだけでは満足できない。肩までお湯に浸かって手足を伸ばしたいのだが……今日一日くらいは我慢しよう。明日は絶対に風呂を見つける。
僕がシャツを脱ぎ去ってすぐ、レナが驚きの声をあげた。
「ユウ!? 傷だらけじゃないですか!? いつの間にこんなことに?」
生傷と古傷、そして刻み込まれた十二の助言によって僕の体はズタボロだ。なぜか痛みは全くないので気にしていなかったが。
「ずっとこうだよ。あの塔で目を覚ました時から」
「暗くて気付きませんでした…… 言って下さい!」
その声はさきほどよりもずっと激しい怒気を孕んでいた。こんな声も出せるのかと少しだけ驚く。
「ごめんね。痛くはないから忘れてた」
「でも……血がまだ出てますよ。忘れるなんてわけわかんないです。――すぐに癒します」
ページを捲る音が聞こえた。
「『我が命の灯をこの者に分け与えたまえ』」
体温が数度上がったような感覚に包まれる。日光を浴びているときのような心地よさ。紫色に腫れていた無数の傷跡が塞がっていく。何度見ても不思議な術だ。
「この癒しの術ってさ、なんか不穏な詠唱をしてるけど、レナの寿命を削ってるわけではないよね?」
「違いますよ。神の御言葉を再現しているだけです」
「良かった。心配だったんだよね」
「私の方が心配です。こんな酷い傷…… 拷問の跡みたい......」
「なんなんだろうね」
召喚の際についたものなのだろうか。世界を渡る際に傷ついてしまったとか? 誰が刻んだのか不明な助言も併せて、よく分からない。だけどどうでもいい。
「……傷が治りません。おかしいです」
「ああ……」
意味をなさない雑多な傷は全て消え去った。しかし十二の助言はいっさい変化していない。
「これはただの傷じゃないから。メッセージなんだ。残ってていい」
「どういうことですか。――いえ、聞かないでおきます。悪魔の秘密を暴くべきじゃないでしょう……」
別に秘密でもなんでもないのだが、レナは何やら深読みをして質問をやめてしまった。
そのまま黙って布巾を手に取り、背中を擦ってくれる。手の届かない場所にこびりついた血や汚れが剥がれていく。
「傷は放置すると、化膿したり病気になったりするんです。だからすぐに治さないといけません」
「うん」
「今後はすぐに私に伝えてください。たとえ痛みがなくてもです」
「うん」
「……本当にわかってますか?」
「分かってるよ。怪我したらすぐにレナに言う」
ゴシゴシ背中を洗う力が強くなる。
「終わりました。他の場所の傷もよく洗って汚れを落としてください。傷を開かないように優しくですよ」
「ところで、前も洗ってくれない? とくにパンパンに腫れ上がってるところがあるんだけど……」
ふえっという奇妙な鳴き声がした。
「そ、それは…… いったい……」
僕のしょうもないセクハラにレナはあたふたして、言葉に詰まっているようである。楽しすぎる。やみつきになってしまいそうだ。
「いやなの?」
「い、いやです……」
「いやか……」
そこははにかみながら「い、いいよ……」って言うところだろ。
「もしそれが契約に基づく代償の支払いというのであれば、私は頑張ります……」
「いやいややらせる気分じゃないし、しなくていいよ」
あまりからかいすぎるといつまで経っても眠れそうにないので手早く体を清めていく。傷一つ一つは丁寧になぞるように。退屈な作業をレナの忠告通り丹念に実行し、僕は湯浴みを終えた。
服を着て、広めのベッドに飛び込む。整えられたベッドを乱す瞬間のなんと気持ちいいことだろう。
清潔で肌触りのいいシーツだ。お日様の匂いもする。すぐに眠れそう。
「ほら、レナもおいで。二人でも十分広いよ」
ベッド際に立ち尽くしているレナの手を掴み、シーツの中に引きずりこむ。
「あ、あぁ……」
抵抗はない。子猫みたいな声を出すだけだ。しかし体全体が強張っている。
「リラックスして。別にとって食おうってわけじゃないんだ」
額が触れ合うほど距離が近い。絹ほどに滑らかな銀色の髪の毛を撫でる。その震えと怯えが伝わってきた。鮮やかな紅の瞳は僅かに濡れている。僕は悪魔だが、クズではない。少なくともそうありたいと思っている。
「まだ心の準備ができていないなら……後払いだっていいんだ」
「後払い……ですか?」
吐息が頬にかかってくすぐったい。
「君の願いを叶え終わったあとに契約を履行しようじゃないか」
どんなものにも食べ頃というものがある。そしてレナはまだその時ではない。
「いやなことは後回し。僕の座右の銘さ」
カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が部屋の中を薄く照らしている。レナの銀髪が輝きを宿した。
「私はやるべきことは最初にやる主義です」
「正反対だね。じゃあ、する?」
僕はいつでも準備万端だ。食べ頃でない果実だとしても、口の中で熟しきることもある。
「…………」
頰から顎、そして鎖骨から肩にかけて、美しい曲線を指でなぞる。それだけでレナはびくりと震えた。
「やっぱりしない?」
「…………」
「黙ってたら分からないよ」
傷が疼き始めた。
<衝動を抑えろ>
<衝動を抑えろ>
<衝動を抑えろ>
うっとうしい助言だ。これは衝動的行為ではない。愛だ。僕は愛の使者だ。
「したい、したくない。どっち? 全ては君の思うままさ」
「わたしは……」
レナはそれだけ言って唇を結んだ。答えは出せないらしい。
「優しいんだね。本当はしたくないけれど、はっきり拒絶するのも苦手。そして真面目だ。いつかは起こる事柄を先延ばしにするのも気が引ける」
弱々しく首を横に振った。その仕草が何を意味しているのか、僕には分からない。
「まあ……紳士的悪魔として今は見逃してあげるよ」
いずれレナは僕という悪魔に自らを差し出すことになるだろう。分かるのだ。悪魔的直感が教えてくれる。
レナはほっと息を吐き出す。安堵しているのは間違いなかった。
「ありがとうございます……?」
「どういたしまして」
「それじゃあ私は……床で寝ます」
「なんでだよ」
「未婚の男女は同じベッドで眠るべきではありません」
「じゃあ結婚しよう」
「だめです」
つれないぜ。
レナはシーツをめくって抜け出そうとしていく。だが逃すわけにはいかない。
「ちょっと……ユウ!?」
その腰を掴んで引きずり倒し、背中から抱きしめて拘束する。産毛もない珠のような首筋に顔を埋めれば甘い匂いがした。
「レナには僕のヨギボーになってもらう」
「ヨ、ヨギボウ?」
「抱き枕だよ。僕は抱き枕があるとよく眠れるんだ」
晒されたうなじを見ていると、僕の中で悪魔的ナニカが膨らんでいく。何を考えるでもなく、その首筋に口づけを落とした。そして強く吸い付く。なぜかそれは美味しく感じた。レナの肌がおかしいのか、僕の味覚がおかしいのか。
「ユウ?」
呼びかける声で我に返り、唇を離す。レナの首元には赤いキスマークが残った。
「ご主人様、感じるかな? 魂の繋がりが強くなったのを。これで遠くにいても大丈夫だ」
「え……?」
悪魔としての権能はまだまだ奥が深い。レナが理解する必要はない。僕だって理解していないのだから。
あくびが漏れた。暖かくて柔らかい抱き枕をだきしめながら目を閉じる。にぎにぎ。
「おやすみ」
「おやすみなさい。……お尻を撫でるのだけ、やめてもらってもいいですか?」
「……おやすみ」
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