「Who am I」6

「ざまあみろ魔女め! 神よご覧ください! 私はやりました!」


 女騎士は立ち上がり、恍惚として叫んでいる。


 僕は怒りで震えていた。仇を取らねば。


 レナの腹と背中からあふれ出る血はとどまることをしらず、地面を赤く染め、血だまりを作った。人体を流れる血とはこんなにも多いのか。


「…………」


 血だまりは広がり続ける。


 ……あまりに多すぎやしないか。


 血の色が変わった。絵の具に黒を混ぜたように、一気に黒ずんで濁っていく。


 レナの死体がピクリと動いた。


 そして僕は、信じがたいものを目にした。


 その肉体がドロドロと溶けていく。あっという間に人の死体とはいえない何かに変わった。作りかけの泥人形に墨をぶっかけたみたいな気色の悪さ。シスター服は沈み込むように消えて、人型の液体だけが残る。


「なんだよこれ……」


 僕は距離を取ったが、女騎士は天を見上げているせいで死体に訪れた変化に気づいていないようだった。


「悪魔を従える魔女の討伐、この功績があれば…… 主よ、感謝いたします! 私の信仰の道はこれからも果てしなく続くでしょう!」


 そして僕は、再び信じがたいものを目にした。


「やっば……」


 レナの死体から生まれた液体が膨らんでいく。


 生物の成長を倍速にして見ているような感覚。四肢が伸びていき、頭が膨らみ、毛が生えていく。


 それは獣だった。


 見上げるほどに大きな黒い獣。


 狼に似ていた。毛並みは艶やかに黒く、口元は獅子のよう。頭には三つの角が生えていた。


 その目が開かれる。血のように赤い瞳。射すくめられた僕は動くことはできない。他の騎士たちも同様に凍り付いている。


 存在としての格が圧倒的に違う。全身の細胞が震えあがってバラバラな方向に逃げ出そうとしていた。


 ――growrrrrrrrrrrrr


 低い唸り声が響く。


 女騎士はそこでようやく背後の危険に気が付いた。


「いったいな――」


 グシャリ。バギャリ。鉄が割れる甲高い音がして、骨が砕ける鈍い音がした。


 女騎士は獣に頭から丸かじりにされていた。足だけがだらんと垂れ下がっているが、すぐにそこも口内へ引き込まれていく。獣が咀嚼するたび、どこか小気味いい音を奏でた。


 その口の端から血が垂れて地面にぽたりと落ち、舌がしずくを舐めとる。黒い毛に覆われた喉が動いた。


 どうやら食事は終わったらしい。


 僕の小さな肝は震えあがっているが、勇気を出し、一縷の望みをかけて獣に近づいた。


「なあ、レナ、言葉は分かるのかな?」


 巨大な獣を見上げるようにすれば、目が合った。


「狼人間だってことを教えておいてくれればよかったのに…… これ、いつになったら元の体に戻るの? 元の体の方が好きなんだけど……これじゃあどこのお店にも入れないぜ」


 獣が顎を開く。真っ赤な口内の中に、工業設備のように大きく鋭い歯牙がある。


 熱い息が顔にかかった。そして上あごと下あごが――閉じられる。


 僕の鼻先寸前で歯と歯が衝突して、鼓膜を突き破るような鋭い音が空気を切り裂いた。


 なんとか躱せてよかったが……


「僕は食べ物じゃないんだけど……君に言うことになるとは思っていなかったよ」


 反抗する小さな生命体に対して、黒い獣は怒りという感情すら抱いていないようだった。


 僕を無視して飛び越え、より多くの餌、つまり騎士たちの方へ。


 ――gyarurrrrrrrrrrrrrrrr


 そこでようやく彼らの金縛りが解けた。


「撤退しろ!」


「神よ、お助け――」


 それは大殺戮だった。惨すぎて直視しがたい。目を細めてぼんやりした視界で状況を捉えようとしたが、グロテスクな効果音が耳から僕の精神を削っていった。


 爪で裂き、牙で貫き、足でついでに踏みつぶされる。騎士たちは羽虫のように死んでいく。


 彼らは追いやられるようにして塔の中へ逃げ込んだ。巨大な獣はそこには入ってこれないと考えたのだろう。騎士たちは次々に塔の入り口へと飛び込んでいき、獣は群れから逃げ遅れた人間を殺す。


「おい、もう扉を閉めろ!」


 逃げこんだ騎士が叫んだ。


「待ってくれ!」


 足を引きずる騎士が手を伸ばす。


「助けてくれ! 俺も中に入れてくれ!」


「無理だ!」


 扉はぴしゃりと閉められた。逃げ遅れた騎士の後ろには、すぐに巨大な獣が迫っている。


 グシャリ。


 そうして獣は塔と向かい合い、前足を無造作に扉へとたたきつける。扉は木っ端みじんに吹き飛んだ。


「うそだろッ!」


 建物の中でさえ安全地帯ではないのだ。


 獣はジェンガで遊ぶかのように塔の外壁を叩き、体当たりをする。一撃ごとに塔は揺れ、たったの数度で崩壊が始まった。降り注ぐ瓦礫には屈強な騎士たちも堪えられず、決死の覚悟で扉から飛び出してくる。


 しかし獣はそこで待ち構えていた。


 グシャリ。カバリ。バキャリ。


「やっぱり皆殺しというわけだ……」


 どういうわけか見逃されている僕は、その血生臭い光景を見物することを許されていた。


 悪魔はお口に合わないのだろうか。


 狩りは続く。


 たったの数十秒で、この場に動くものはいなくなった。残されたのは僕と獣だけ。獣はのそのそと僕に近づいて来た。


「ずいぶん派手にやったね」


 威圧的な赤い瞳を睨み返す。


「それでこそ悪魔の契約者に相応しいというものだ」


 こうなったのはもちろん僕の権能なんかではない。レナがもともと持つ特性によるものだ。


 獣の吐く息で前髪がなびく。


 食べるつもりなのだろうか。この獣が本気になれば僕に抗う力はない。


 短い異世界生活だったぜ……


 可愛いケモミミも異世界の珍味も味わっていないまま死ぬのは少し残念だが、まあ人生うまくいかないことは多いものだ。


「人間もときには食べられる側にまわることだってある。世界はいつだって公平だ」


 そういうことだ。


 僕は死を覚悟した。目を瞑って、受け入れる。


「…………」


 しかしどれだけ待っても、痛みも何も訪れなかった。目蓋を持ち上げる。


 赤い瞳孔と視線が交わった。そして瞳がどろりと溶け出し――黒い獣は急に縮んでいく。ほんの一瞬の間に獣は消え、黒い液体は人体を構成し、見覚えのある美しい乙女になった。


 レナだ。


 高所から放り出された彼女は裸だった。


 滑らかな銀糸の髪の毛を靡かせながらレナは重力にしたがって落下する。僕は彼女の綺麗な肌を傷つけるべきではないと思って、なんとか抱きとめた。


 軽い。下手に力を込めれば潰してしまいそうなほどに頼りない体。


 そして柔らかく暖かい。


 僕の腕の中で目を閉じている生物は確かにただの女の子だった。裸のままでいさせるのはあまりに目に毒なので、マントでその美しすぎる裸体を隠す。


「はてさて、我が主人よ、僕はいったいどうすれば?」


 血肉と瓦礫の中で僕は途方に暮れた。




▼△▼




 ベッドの横に置いた椅子に座り、レナの寝顔を見守る。静かに寝息を立てる様子をみるかぎり問題はなさそうだ。


 ここは適当に見つけた民家だ。


 僕はレナを抱きかかえたまま異世界の街をあてもなく歩き回り、そこで窓の割れた民家を発見した。中の様子を窺ってみれば人の気配はなく、空き家のようであったのでお邪魔することにしたという次第である。


 部屋のほこりやらなんやらから推察するに、ここしばらく人は生活していなかったらしい。こういうことであれば正義感の強いレナだって許してくれるだろう。


 それにしてもお腹が減った。


 日本での最後の食事からまだ数時間もたっていないはずだ。しかしずいぶんと何も食べてないような気がする。この家にも食べれるものはなかったし……


 退屈だぜ。


 欠伸をしながらぼうっと座る。


 ふと、レナがぱちりと目を覚ました。


 その顔に眠気はなく、まるでスイッチをオンにしただけみたいな覚醒。すぐに体を起こす。透き通る肌はシーツによってのみ隠されていた。


「ここは……?」


「そのへんの民家だよ」


「住人はいなかったのですか?」


「それはもちろん……」


 殺したよ。そう告げてからかうのも面白そうだったが、さすがに辞めておいた。これは今のレナに言うにしてはタチの悪すぎる冗談だ。


「いなかった。ここは空き家だ」


「そうですか……」


「…………」


「……聞かないのですか? 私がどんな存在なのか」


「うーん。興味ないかな。とりあえず、たまに怪物に変身するってことだけ覚えておくよ」


 僕の心の内を占めるのは美味しいご飯、可愛い女の子、珍しいもの、それだけだ。他はすごくどうでもいい。


 レナは長いまつげを伏せた。


「そうですか……」


「あ、できれば僕は食べないでほしいんだ」


「それは難しいかもしれません……」


「そこをなんとか、頼むよ」


「頼まれても私には制御できないので」


 それは困った。どうしよう。


 仮面みたいに固い表情のレナと見つめ合う。


「…………」


「私は、私の中に宿るあの不死のケダモノを殺すために聖書原典十三章を探しています。私は死ぬとああなってしまう。だからユウには私を守ってほしい。そしてもし死んだときは……逃げてください。次も殺さないでいられる保証はありません」


「……要するに守ればいいんだね」


 とてもシンプルじゃないか。可愛いご主人様をお守りする。それだけだ。主の願いは遂行しよう。僕にはそれをするだけの力がある。


 それに僕だって食べられたいわけではない。レナを守るだけでそれが叶うなら嬉しいことだ。


「すいません。こうなる前に話しておくべきでした。落ち着いたら伝えようと思っていたのですが」


「気にしないで。結果オーライだよ」


「ぜんぜんオーライではありません。……原因は私の軽率な行いです。不用意に近づくべきではなかった」


 軽率な行い。それは女騎士を癒して介抱しようとしたことを言っているのだろう。


 おかしな女の子だ。


 僕は少し意地悪を言うことにした。


「もし同じ状況になったとして、次は治療せずに見捨てることができるのかな?」


「……いいえ、次も癒します。今度は不意を突かれて殺されないように、細心の注意を払います。私は癒し手ですから、瀕死の人を放置はできません」


 レナの表情に迷いはない。予想通りの答えだった。


「困ったご主人様だね」


「……すいません」


「いいんだ。謝らないで」


 僕はこの人間の使い魔なのだから。謝罪なんかじゃ財布も腹も股間も膨らまない。まったくもって無価値なものである。


「ご迷惑をお掛けします。……それじゃあ、戻りましょう」


「戻るってどこへ?」


「あの崩れた塔へ。……瓦礫の下にはまだ生き残っている人がいるかもしれません」


「まじで?」


「まじです」


 犯人は現場に戻るってこういうことなのだろうか。まだ血も乾かないうちに、今度は騎士たちを助けに向かつもりらしい。

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