「Who am I」5

 聖書。


 話をまとめれば、それは書写できる魔導書のようなものらしい。そのオリジナルが聖書原典。神によって直接書かれたとか。この世界にはその聖書原典の写本がそれはもうたくさんあって、生活に深く根ざしている。水道の代わりであり、ライターの代わりであり、絆創膏の代わりである。


 聖書は全十二章で構成されている。しかしオリジナルである聖書原典には「隠された十三番目の章があるのではないか」と噂されていて、レナはその都市伝説を信じているわけだ。いわく、ある時代の教皇の不手際によって十三章はバラバラに切り売りされ、世界中に散らばってしまった、らしい。


 それが失われし聖書原典十三章。


 そのうちの一ページがこの街にあるとかないとか。


 だけど僕は話半分で聞いている。地球でもよくあった与太話かもしれない。


 ぐるぐるぐるぐる、レナと話しながら長い螺旋階段を下っていく。


 途中にはたくさんの牢があったが、そのどれにも人はいなかった。この塔にいたのは僕とレナとゴリウスの三人だけのようだ。


 倉庫みたいな場所を見つけたので、僕はそこで粗末な服とマントを手に入れていた。ようやく半裸ではなくなったというわけ。


「お腹減ったな、何か食べに行こうよ」


「……もう夜遅いです。まともな店は閉まっているでしょう」


 手すりに体重を預けながらダラダラ下る僕、きれいな姿勢と早いペースで下っていくレナ。


「あの、気を悪くしないで欲しいのですが、……食事は人間のものでいいのでしょうか?」


「いいや? 新鮮な血と臓物。それも人のね」


「……血は私があげられますけど……臓物は……」


「冗談さ。人間用でいいよ。大盛りでデザートつきだと嬉しいな。僕はグルメだから」


 異世界の料理を片っ端から食い漁ってやる。僕はきっとそのために召喚されたのだ。


「そんなにお金を持っていないので……」


「そう。まあなんとかなるさ」


 口ぶりからするに奢ってくれるらしい。まあ僕を養うのは契約者の義務といえるだろう。


「いざとなれば皿洗いでも何でもしよう。こう見えて家庭的なタイプでね」


「はあ……」


 そうこうしているうちに僕たちは塔の最下層、地上部へとたどり着いた。


 なにもない空間だ。ただ大きな木製の扉だけがある。


 僕は何も考えずにそれを押し開けて、扉の向こうをチラリとのぞき――すぐに閉めた。


 そしてレナと目を合わせる。


「これまずいかも……」


「どうしました?」


「人がたくさんいるんだ。完全武装でイカれた目つきの人たちが」


 きれいな顔が青ざめる。


 ドンドンドン、と扉が激しく叩かれた。なんか怒ってそうだな。怒りを物にぶつける人間のことは嫌いだ。


「出口はここしかないみたいだけど。飛び降りるのを除けば」


「――話をするしかありません。心を込めて接すれば分かり合えるはずです」


「そうかなあ……」


 僕の主はなんて純粋でのんきなのだろうか。血を吸おうとする蚊とだって話し合いを試みそう。


「まあ、ここは任せてくれ。僕が話をしてみる」


 レナを死角に下がらせて、扉を蹴り開く。


 そこには騎士たちがいた。輝く銀の鎧が整然と並んでいる。合わせて三十に近い鎧武者が石像のように直立不動でいる姿は、前に立つだけで相当な圧迫感を押し付けてきた。威風堂々としたその様子は、自分たちこそが権力の執行者であり正義の代弁者であると雄弁に語っている。


「こんにちは、騎士サマがた。どんな御用で?」


 先頭の一際金ピカの騎士、胸にたくさんバッジをつけた女性の騎士がずいっと進み出た。


「この塔にかのを囚えたという通報を受けた。引き渡しを願おう」


「魔女? 魔女って何?」


「は? 噂を知らないのか?」


「この街には来たばかりで……」


「……魔女はこの街に呪病をばらまいている異端者だ。速やかな逮捕のため、市民には教会騎士に協力する義務がある」


「教会騎士ねえ……」


 宗教に良いイメージはない。だいたい詐欺かカルトだろ。


「魔女なんていないけど」


 僕は悪魔だ。そしてレナはシスター。ゴリウスは……ただの見張りだ。


「……問答は不要だ。押し入らせてもらう。邪魔するなら殺す」


「待ってください」


 隠れていたレナが僕の横に飛び出してきた。唇を強く噛みしめるその顔には緊張と焦燥が浮き出ている。


 レナを見て女騎士は血相を変えた。


「紅眼の女…… キサマだなッ!」


 女騎士は声を荒らげた。しかし罵声に対してレナは毅然とした態度を崩さない。


「私は魔女ではありません。――通報は本物の魔女による策略です。私に罪をなすりつけようという魂胆でしょう」


 へえ、そうなんだ。


 てことは、僕を召喚したのもその魔女・・ってことだろうか。むさ苦しい男じゃなくてよかったぜ。


 魔女。その単語を聞いてから傷が疼く。


<黒幕は魔女>

<黒幕は魔女>


 ということらしい。


「魔女、会ってみたいなあ」


「少し静かにしていてください」


「ごめんなさい」


 女騎士は苛立ちを隠さずに足を踏み鳴らし、剣を引き抜いた。後ろに率いる騎士十数名もそれに続く。刃と鞘が擦れる音が混じり合い巨大に響いた。


「女、その顔には見覚えがあるぞ…… 手配書の似顔絵によく似ているッ!」


 僕はぎょっとしてレナの顔を窺った。彼女は恐ろしいほどの無表情だ。手配書って、指名手配されているってことじゃないよね。


「…….....」


「レナ・ヨハルネス。罪状は……殺人、窃盗、放火、虚飾、強姦、神への侮辱、神聖物の冒涜、3級以下の罪数多」


「わお。世紀の悪党だね」


「……九割嘘です」


 一割ホントなんだ……


「まだあったな。異端信仰、都市への破壊行為、それから――悪魔との密通」


 おいおい。悪魔との密通って。僕は両手を挙げた。


「僕とレナはまだ清い関係だよ」


「お前はさっきから訳のわからぬことばかり、黙っていろ!」


 女騎士は剣を僕らに突き付けた。鋭い切っ先がキラリと輝く。合わせて背後の騎士たちも剣を掲げる。剣の山のような威容に僕は息を呑んだ。


「魔女の疑いで貴様を逮捕する。大人しく指示に従え! ――抵抗すれば、この場で殺す」


 レナの珠のような赤い瞳が揺れる。


「申し訳ありませんが、従うことはできません」


「ならば死ね!」


 どうやら僕のご主人様は大罪人と扱われているらしい。


 まあ、悪魔の契約者にはふさわしいな。




▼△▼




「レナ、望みを言うんだ」


 僕は美しい横顔に語りかけた。


「どうせ冤罪なんだろう。冤罪っていうのは最も許されざる行いの一つだ」


 公権力による人権の侵害。それはあってはならないことだ。人が人を裁くからそんなことが起こる。


「君が望むなら……」


 耳元に囁く。


「皆殺しにしたっていい」


 そうするべきだ、そうしたらすっきりするだろう。僕の心の中に住む悪魔らしい悪魔と天使らしい悪魔は手を取り合ってそう叫んでいた。


「……だめです。誰も殺さず、ここから逃げる。これが私の望みです」


「そう言うと思ったよ」


 それは殺すよりもずっと難しいことだ。だがお望みであれば、やってみせようじゃないか。


「たった二人きりでどうにかできると思っているのか? バカどもめ」


 女騎士が剣を軽く振った。騎士たちが前に歩み出て僕たちを取り囲み、剣が構えられる。


「剣を抜いた以上、僕は公平に接することになる」


 僕の言葉に返答はない。


 迫りくる死の予感。


 しかしニ度も無様をさらすつもりはない。彼らの剣はスローモーションのようで、浮かぶ刃紋まで見て取れた。


「朽ちよ」


 唱えれば、右腕は黒い蜘蛛の図柄で覆い尽くされる。米粒ほどに小さなそれらが動き回るそれは嫌悪感を感じてもいいはずが、僕は可愛らしくさえ思っていた。


 順番に、迫りくる冷たい鋼にそっと触れる。一瞬の接触の間に蜘蛛が剣先へと飛び移った。浸食は瞬きのうちに終わる。鋼はサラサラと砂のように崩れ、風がすべてをさらっていった。


「ッ――! なんだこれは!」


「魔女の妖術だ! 気をつけろ!」


 武器を失った騎士たちは及び腰で後退しようとし、距離を詰める僕に対応できていない。正面の一人に追いすがり、右手で首をつかむ。


「朽ちよ」


 鎧は砂となって消え去り、怯えた顔と浅黒い素肌がさらされた。そこに左手で触れる。


「枯れよ」


 それもまた呪いの言葉。


 左腕に入れ墨のようなヘビの紋様が浮かび上がり、肌の上を這いまわる。二次元の存在でしかないはずのそれは、僕の指先から男の首へと絡みついた。


 変化は急激だった。


「ぁぁ……」


 血の気が失せ、唇が紫色に変わっていく。髪の毛に白いものが混じり、しわが増え頬肉がたるむ。まるで十年も年老いたかのようだ。彼は倒れ伏せ、石の床の上で浅い呼吸を繰り返している。ヘビはいつの間にか消え失せていた。


 奇妙な沈黙が場を支配した。誰もが目の前で起きたことを現実だと受け止められていないようだ。


 右手は朽ちさせ、左手は枯れさせる。きっとこれが僕の悪魔としての権能だ。まだ一部にすぎないが。


「海外ではこういう気まずい瞬間を『天使が通った』というらしいけど……ざんねん、悪魔でした。デビルジョーク! ハハハ」


 バサリとマントを翻してみる。


「――ッ!?」


 女騎士が剣を振り上げた。――面白くなかったらしい。


「ころせッ!! 教会の威信にかけてッ!」


 怒号に合わせて無手の騎士は倒れた彼を引きずりながら後退し、新手の騎士が前に進みでてくる。


 僕はそれを黙って見守った。


「ユウ……」


 レナは心配そうな顔で胸の前で手を組んでいる。


「うーん。いや、めんどうだなと思ってね」


 負ける気はしないが、こんなに大勢いると時間がかかって面倒くさい。


 しょうがない。


 腕の傷、「力を乱用するな」という文字列が熱を持ってずきりと痛む。


<力を乱用するな>

<力を乱用するな>

<力を乱用するな>


 しかし無視だ。これは乱用ではない。用法用量を遵守した正しい使い方であろう。


 右腕に力を込める。


 すぐに半透明な腕が虚空より現れ出た。さきほどよりはずっと小さいが、それでも巨人の腕と形容して申し分ない大きさだ。


 ぐっと拳を握りこむ。合わせて巨人の拳も固く握りこまれた。大型トラックにも劣らない質量の剛腕が、解放されるのをいまかいまかと待っている。透き通る薄水色の腕に血管が浮き出た。


「死なないように――歯を食いしばってくれ」


 狙うのは耳障りな女騎士だ。彼女は目を見開いたまま固まっている。


 腰をひねって、全力で腕を振りぬいた。


 なんとか進路から逃げ出そうとする騎士たちをなぎ倒しながら、巨腕はまっすぐ進む。


 真正面からとらえた。落雷のような音が響く。


 女騎士はボールのように弾き飛ばされ、土の上を数度バウンドし、塔を囲む石の塀にぶつかって止まった。鎧は大きく陥没して原型をとどめておらず、塀は粉々に砕けてしまった。パラパラと土埃が舞う。 


「さて、次のサンドバッグは誰だろう?」


 指揮官を失い、戦意をくじかれた騎士たちから返事はない。


 彼らのうち数人が悲鳴を上げて逃げ出し、数人は呆然として立ち尽くし、数人はうずくまって祈りを始めた。


 これ以上戦うつもりがないのであれば、それはそれでいい。彼らも上司に逆らえない被害者なのかもしれない。レナの命令だし、見逃してやろう。


「彼女は死んでないといいけど……」


 仰向けで転がっている女騎士を遠目で観察する。わかんないな……


「私が癒します」


「え?」


 それだけ言って、レナはわき目もふらずに飛び出した。騎士たちの群れを縫うように走りながら女騎士のもとへ駆けていく。


「おいおい」


 癒すってなんだよ。


 面白いものがみれる予感がして、僕は慌ててレナの後ろを追った。彼女は無警戒に倒れ伏せた女騎士に近づいていく。


「危ないよ! まだ生きてるかも!」


「生きてる方がいいんですよ!」


 女騎士の兜が引っこ抜かれて白目をむいた女性の顔が露わになる。レナはその口元に耳を近づけた。


「まだ生きてます。でもこのままじゃ…… へこんだ鎧のせいで呼吸が……」


「そうなんだ」


「鎧を外しましょう」


 レナはそう言って煩わしそうにいくつかのベルトやらなんやらを外し、鎧をはぎとった。


 少しだけ女騎士の呼吸が太くなる。それでもヒューヒューと苦しそうだ。肋骨はバキバキに折れ、内臓が傷付いているのは明らかだった。服から血が染み出している。殴った僕が言うのもなんだが痛々しい。


 レナはいたって冷静に女騎士の懐をまさぐり、そのポケットから一冊の本を取り出した。


「あった…… 良かった……」


 擦り切れて垢のついた、小さな本。


 僕は直感で分かった。


 これは聖書だ。もちろん聖書原典ではない。無数にある書写されたうちの一冊。教会騎士が持っているのはなんら不自然ではない。


 慣れた手つきでページをめくっていく。


 聖書は魔導書のようなものらしい。つまり――


「何をするつもり? ネクロマンスとか?」


「……私は癒し手、この人を聖術で癒します」


「ふーん」


 目的のページに達したのか捲る指が止まり、レナは女騎士に手をかざした。桜色の唇から言葉が紡がれる。


「我が命の灯をこの者に分け与えたまえ」


 それは呪文にして祈祷。力ある言葉だ。


 レナの手から柔らかい光があふれ、女騎士を包み込んでいく。そばにいるだけの僕も太陽のような温もりを感じた。


「おお……」


 幻想的な光景に思わず感嘆の息を漏らす。これが異世界の魔法的なナニカなのだろう。興味深い。


「うぅ……」


 くぐもった吐息を漏らしながら、女騎士が目を瞬かせる。意識が戻ったようだ。


「大丈夫ですか? どこかに痛みは?」


「ああ……」


 レナは女騎士の服をまくり上げる。血で汚れているが、傷はおおむね治っているようだった。時間を巻き戻したみたいにつるりとした肌。


「間に合ったみたいですね……」


「治さなくてもよかったのに。高圧的な騎士にはこれくらいがいい薬じゃない? 相手は殺す気だったんだ。お互い様だよ」


「……患者に貴賤も善悪もない。ただ癒すのみ。癒し手が最初に教わることです」


「お人好しだね」


 女騎士は体を起こした。


「助かった……」


 しかしふらついていて、レナにもたれかかる。


「ほんとうに助かったよ……」


「感謝は不要です。これが私の使命ですから」


 女騎士の手にはまだ剣が握られていた。その目に剣呑な光が宿る。悪しきことを考えている人間の眼差しだ。


 首筋がチリチリと炙られるような、嫌な予感。


 僕が止めに入る余裕はなかった。両者の距離はあまりに近すぎたのだ。


 グサリ。


 血濡れた剣先がレナの背中から飛び出してくる。


「あ……れ……」


 唇の端を吊り上げる女騎士。


「異端には死あるのみ。癒してくれて助かった。これで貴様を殺すことができる」


 剣が引き抜かれ、再度刺しこまれる。レナの口の端から血が垂れて、顎を伝い細い首筋まで一条の赤い線を描く。彼女はまだ理解できないという様子で女騎士を見つめていた。


 血で濡れた唇が小さく開かれる。


「ごめんなさい……」


 ほとんど聞こえないくらいの声量だったが、口の形からなんとかそう言ったのが分かった。


 レナの顔から生気が消える。透き通っていた瞳が濁り、顔に影が差した。その体は姿勢を保ち続ける意志と力を失い、ぱたりと地面に倒れる。


 あまりにあっけなく、レナ・ヨハルネスは死んだ。


 だが彼女の物語は続く。

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