「Who am I」4

 彼女を引っ張り上げたあと、疲れて座り込む僕。


 少し離れてレナも腰を下ろしている。


「彼は……どうなりました?」


「死んだよ」


「……さっきのはあなたが?」


「うん」


「……そうですか」


 レナは手を組んで目を閉じた。まさか祈っているのだろうか? あんな男のために?


「あいつのために祈りを捧げる必要なんてないと思うけど」


「……どんな悪人でも、どんな善人でも、私はその魂の平穏を祈ります」


「ふーん」


 僕には理解できない考え方だった。


 どうしても救いようがない人間っていうのは存在する。それもけっこうたくさん。


「優しいんだね。僕には真似できそうにない」


 彼を殺したいと思ったら、止まることはできなかった。良識やら理性やらが一切消え去っていた。それは悪魔になったからだろうか。


「……彼もかつては無垢な赤子だったのです。そして幼年期で何かを学び、少年期で何かに成り、そして今に至る。その過程を想像すれば、もしかしたらああなるのも避けようがなかったのかもしれません」


「……そんなのいちいち考えてたら疲れない?」


「他の生き方は――もう分かりません。それにこれは優しさではなく、自分のために祈っているようなものです」


 レナは祈りを終えた。膝を抱えて体操座りをして、背中を丸めて体を小さくする。祈りの最中は聖女もかくやという荘厳さだったのに、こうなると気弱な女の子にしか見えない。


 突然湧き上がった好奇心によって、僕は秘密を告白することにした。これを言ったらどんな反応をするのか見たくなってしまったのだ。


「ねえ。僕は――悪魔なんだ」


「……は?」


「こことは違う世界からやってきた。腕力は化け物じみていて、不思議な能力もあるし、たぶん衝動を抑えることができない。……さっそく一人殺した。これからもたくさん殺すことになる気がしている」


「…………」


「こんな僕にも優しくしてくれるの?」


 レナの赤く輝く瞳がまっすぐ僕を貫く。


 見つめられるとなんだか心を見透かされているような気分になる。少し苦手だ。


「……あなたは人間のように見えます。もっと人間らしくない人間もいますし、私も人を殺したことはある。確かに常人離れした力ですが、配慮や気遣いの心も持ち合わせている。異界人は悪魔とよばれますが…………自分に貼られたラベルに負けないで」


 自分に貼られたラベル。僕はいつの間にかラベルを貼られていたのだろうか。


 誰に? 体に刻まれた言葉によって。


 僕は悪魔なのだろうか。人間なのだろうか。


 それはきっと――これから決まるのだ。


「でもそれを聞いて納得しました。あなたはあまりにも……変わっている」


「君の方が変わってるよ」


「……ユウ。あなたは今誰かと契約しているのですか?」


「さあ。多分いないと思うけど」


 いるのだろうか。分からない。


 どこかに僕を召喚した人間がいるのではないだろうか。それか神様にでも召喚されたのか。


 だがどうでもいい。用があるならそちらから出向いてこい。今はそういう気分だった。


「これもきっと運命なのでしょう。……もしお暇であれば、私に力を貸してくれませんか」


「……力を?」


「私はこの街であるものを探しています。この世界で人類の宝とされる聖書原典、その失われた十三章を。しかし行き詰まっていて、一人ではどうにもできそうにありません。人を巻き込むつもりはありませんでしたが、あなたなら……」


「ふーん」


 僕の脳裏に電流が走る。最高のアイデアを思いついてしまった。


 そして僕は一度思いついてやりたくなった衝動を抑えられそうにない。一向に姿を見せない召喚者なんて気にかける必要はないのだ。


「いいよ。よく分かんないけど」


 右前腕の傷が疼いている。下手くそで歪んだ文字で「ケイヤクスルナ」とあった。


<契約するな>

<契約するな>

<契約するな>


 誰かの助言だ。


 でも止められない。


「君に力を貸すよ。契約だ。今から君の使い魔になる。なんでも言いつけてくれ」


「……ありがとうございます」


 レナは特に嬉しくもなさそうな顔で感謝を述べる。僕はちょっと苛ついた。


「君のために――地震を起こそう。津波で世界を飲みこもう。七つある月すべてをもぎ取ってみせよう。この世で最上の快楽を与えてあげよう」


 あふれるように出てきたのは悪魔的な口説き文句。


 しかしレナは喜んではいないようだ。これでオちないとは……なかなか自制心が強い。


「地震も津波も、月も快楽も要りません。ただ探し物を見つけたいのです」


「分かった。だけど、もちろんタダじゃない」


「……はい。私に支払えるものであればなんでもお渡しします。死後の魂でも、生き血でも、あるいは心臓でも。……人に迷惑をかけないものでお願いします」


 生き血、心臓、死後の魂。並んだ単語に僕は舌舐めずりをしていた。どれも格別だろう。


 そして我に返る。


 血と心臓を美味しそうと思うなんて、すっかり悪魔になってしまったらしい。それじゃあゴリウスと同類だ。


「そんな血なまぐさいものはいらない。僕が要求するのは――えっちなことだ」


「えっち……なこと……」


 レナは何の話か分からないとばかりに困惑しながら口に出し、そして言葉の意味を気付いて頬をほのかに赤く染めた。


「わ、わかりました…… それが望みなのであれば……」


 我ながらなんと浅ましく恥ずかしい要求であろうか。だがこれも悪魔になったせいだ。


「それで契約ってどうすればいいの?」


「……知らないんですか?」


 頷いた。だって僕は何も教えてもらっていない。頭の中に知識が埋め込まれているなんてこともない。


「私も詳しくはありませんが、血の交換、陣の上での宣誓、あるいは、その……性的接触によってなされるという記述が聖書にあります」


 血の交換。陣の上での宣誓。あるいは性的接触。


「どれがいい?」


「……どれでも構いません」


「じゃあ性的接触だね」


 僕は無理やりことに及ぶつもりはない。


 いや、契約なので別に無理やりではないのだが、少なくとも僕たちはまだ出会ってすぐだ。


 しかし「どれでもいい」と言われれば、我慢するつもりもなかった。狩りをするネコ科のハンターの如く、静かにレナの体に迫り彼女を押し倒す。


「う……」


 声にならない息が漏れていた。


 触れ合う体から怯えと緊張が伝わってくる。赤い瞳は横に逸らされていて、視線は合わない。


 僕はそっとレナの頬を撫でて唇を近づけていく。


 そして触れ合った。心の中で念じる。「契約よ、なれ」と。


 その瞬間、僕たちは確かに主従になった。精神的繋がりが生まれたのだ。不思議な感覚だった。


 彼女の唇はもちもちとして柔らかく、ぷるぷると瑞々しかった。離すのを名残惜しく思いながら距離を取る。


「っぷはあぁ……」


 レナは息を止めていたに違いなかった。キスを終えた瞬間、水から上がったように空気を吸い込む。


「どう?」


 契約が成立したことを感じ取れている?


 そういう意味での質問だった。


 でも彼女は別の意味で受け取ったらしい。


「……想像よりは悪くなかった、です……」


 可愛い。きっとお世辞だろうが。


「そのぅ…… 恥ずかしながら私は未熟なもので…… ご配慮を頂けると……」


 え? 


 この場で最後までやってしまうつもりなのか?


 こんな星空の下、石の上で?


 異世界の女の子は大胆だなあ。僕はそんなつもりはなかったのだが。


 だが据え膳食わぬはなんとやら。男として応じぬわけにはいくまい。


 僕はその肢体を舐め回すように鑑賞した。


 胸は全体のバランスを崩すほどではないが、それでも大きいと断言できるほどに大きく、神懸かり的な美しさを誇っている。


 これがかの黄金比に違いないと確信した。体を隠すような修道着にも関わらず女性的曲線美が各所より仄かに香っている。


「きれいだ」


 心の声を抑えることはできない。


「あの……」


 食い入るように見つめる僕の視線に対して、彼女は腕で胸を隠すようにした。しかしその仕草さえも誘っているようにしか思えない。


「………………」


 恥じ入るように目をぎゅっと閉じた。眉が寄っている。一瞬目蓋が開いて視線が交わった。しかしすぐに閉じられる。


 今度は形のいい唇が少しだけ開いて何かを話そうとし、結局何も発さないまま閉じられた。


「………………」


「じゃあまずは……」


 僕の中で衝動が爆発しようとしている。


 この女をこのままめちゃくちゃになるまで犯せ。七日七夜そうし続けろ。それが悪魔のやり方だ。魂が叫んでいた。


 それと同時に左前腕の傷が疼き、語りかけてくる。


<衝動を抑えろ>

<衝動を抑えろ>

<衝動を抑えろ>


 一つはすでに破ってしまっているが、僕はなるべくこの十二の助言に従うつもりだった。見慣れた日本語の文字というだけで信頼に値した。


 耐えるのだ。線を踏み越えてはいけない。


 唇を強く噛んで、嵐のような衝動が治まるのを待つ。


 ここでレナを思うままに抱けば、僕はきっと最悪の悪魔に堕ちてしまう。その未来が見える。


 耐えなければ。


 目を開いたレナが何を思ったのか、石床についている僕の手にその手を重ねた。ひやりとして冷たい。しかし芯は温かい。


「ユウ……」


「…………」


 チッ。この女、煽ってんのか?


 こっちが必死に我慢しようとしているというのに。


 僕はレナの美しすぎる顔から視線を外した。


 そのおっぱいを見つめる。自然と視線が吸い込まれてしまったのだ。


 おっぱいは――だめだ。


 傷がじくじくと熱を持って主張する。


<衝動を抑えろ>

<衝動を抑えろ>

<衝動を抑えろ>


 僕はこのメッセージを信用している。道標はこれだけなのだ。従わなければいけない。


 犯せ!


 耐えろ!


 相反する感情二つによって、僕の心は引き裂かれてしまいそうだ。


 ふるふると細かく震えるおっぱいが蠱惑的に僕を誘惑する。服の上からでも弾力と柔性が伝わってくるのだ。


 この二つの肉塊を揉みしだいてしまえ!


 触れてはいけない!


 おっぱいは――だめだ。


 奥歯を割れるほど食いしばり、血涙を流す。


 僕は折衷案を採用することにした。


「……右のおっぱいだけでお願いします」




▼△▼




 後頭部にある柔らかい感触。目の前の豊かな膨らみ。僕を覗き込むようにしているレナの恥ずかしげな表情。それから甘い匂い。


「控えめに言って……最高だ」


 僕の心の中には悪魔らしい悪魔と天使のフリした悪魔がいる。二人は幾度もの熱い議論を重ねた結果、膝枕という結論で合意した。


 膝枕っていうのはこんなに幸福なものなのか。ささくれだった心が和らいでいく。


 僕は目に力を込めた。悪魔の力よ、我に透視能力を与えたまえ。この邪魔なシスター服を透かし、下乳を拝ませたまえ。


「……だめだ……透けない……」


 悪魔の力は万能ではないらしい。


<この世界はくそったれだ>

<この世界はくそったれだ>

<この世界はくそったれだ>


 傷が疼いて、僕を慰めてくれる。激しく同意してくれていた。これを刻んだ誰かとは仲良くなれそう。


「目がバキバキで血走ってますが……大丈夫ですか?」


「好きだ。結婚しよう」


「お断りします。――あの、会話が成立しないんですけど……」


 ついつい本心が漏れてしまった。獣じみた衝動を抑えた代わりに、僕の言語機能は一時的に退化したのだ。


「ごめんね、今のは忘れてくれ。プロポーズにしてもセンスが足りていなかった」


 眉をハの字にするレナ。呼吸を忘れるほど美しい。


「僕のお嫁さんになってください」


「……だめです。私は教えに身を捧げましたので、結婚はできません。……それと言い方を変えればいいという問題でもありません」


「……じゃあ新婚さんプレイしよう」


「それは……ご期待に添えるか分かりませんが……努力します」


 よし。僕は握りこぶしを掲げた。


 率直に言って、僕との契約についてレナは失敗したと言えるだろう。


 僕が力を貸す代わりに、えっちなことをさせてもらう。


 どの程度力を貸すのか? 探し物を見つけるまで? それともほんの少しだけ? えっちなことって何回まで? えっちってどこまでが含まれる? 僕の認識が基準になるのか? それならかなり広くなるけど大丈夫?


 彼女はもっと詳細を詰めるべきだったのだ。


 お約束によれば、隙だらけの契約は悪魔に一方的に有利に働く。主人はどうすることもできない。


 僕は契約の穴をつく気満々でいる。若い女の子に社会の厳しさを教えてあげようじゃないか。


「大事なお話をしてもいいですか?」


 レナが突然切り出してきた。声のトーンがちょっと変わって、真面目な顔だ。


「いいよ」


「これはお願いです。私に力を貸してくれる間は、なるべく人を殺さないでください。……それがたとえ私のためでも」


 なるべく殺さない、か。


 彼女の探し物を見つけるというミッションがどの程度難しいのか検討もつかないが、この塔に囚われていたことを鑑みるに、そう容易くはないだろう。


 人を殺さないなんてヌルい考えでやっていけるのだろうか。


 契約はすでに成った。そしてそんな制約は含まれていないのだ。


 レナの紅の眼光が説くように見つめてくる。


 ――僕はどうにもこの目に弱い。


「分かった。殺しはなしだ」


「ありがとうございます」


 レナは聖書原典の十三章というものを探しているらしい。


 僕はそれがどんなものなのかは知らない。別にどうでもいい。知りたいとも思わない。多分ドラゴンボールかワンピースみたいなものなんじゃないか。


 右太ももの傷、刻まれた文字列が熱をもって痛む。


<lost bible chapter13ヲモトメヨ>

<lost bible chapter13ヲモトメヨ>

<lost bible chapter13ヲモトメヨ>


 つまり、失われし聖書原典十三章を求めよ。


 これを刻んだ誰かの考えが分かる。カタカナで書くのが面倒だったから、ローマ字、それも小文字で刻んだのだろう。


 求めるものは同じだ。


 どうやら我々の出会いは神の手によって必然付けられていたものらしい。いや、大魔王の手と表現しておこうか。


 好奇心に負けた僕は眼前の豊かな膨らみをつついてみた。ふよんと揺れる。


「――ッ!? ユウ!?」


 願わくば、聖書原典十三章が仲良く分け合えるものであらんことを。

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