「Who am I」2


「さて、散歩でもいくか」


 ここは間違いなく異世界だ。なぜか僕はそれを確信していた。日本では見られない珍しいものがたくさん見れるに違いない。エルフとかケモミミとかビキニアーマーとか。夢が膨らむぜ。


 立ち上がって、鉄格子を両手でつかみ、思い切り左右に引っ張る。太い鉄棒は針金みたいにあっけなく形を歪めた。


 大人一人がなんとか通れるくらいの隙間、僕はそこを通って檻の中から抜け出す。


 ここは監獄のような場所らしい。檻がたくさん並んでいてどれも空っぽだ。


 冷たい石の通路を裸足でペタペタと、目的地も定めず適当に歩き出した。


 誰もいない。音もしない。


 無機質な石と鉄だけの空間に飽き飽きしながら進み、通路の最奥に至る。そこで僕は見つけてしまった。




 鉄格子の向こうに――乙女がいる。


 黒を基調としたシスター服は煤けてところどころ破れていた。長いスカートは大きく裂け、生まれたスリットから艶めかしい純白の太ももが覗いている。


 彼女は膝立ちで目を瞑り、両手を前で組んでいた。


 祈っているのだ。疎い僕にだって分かる。


 その姿勢を見ただけで厳かな気持ちになり、肌がゾクゾクとして超自然的何かを感じてしまう。


 この祈りを遮ってはいけない。そう思うといつの間にか僕の呼吸は止まっていた。


 しかし、すぐに我慢できなくなって、僕はふっと息を吐き出す。


 その音で乙女は目を開いた。


 赤い瞳。


 暗闇の中にあって燦然と輝く紅。太陽のようにそれそのものが光を発している。鮮やかな血の色でもあった。内に秘めた凶暴性を暴かれるような恐ろしい煌めき。透き通る眼差しが僕を捉え、桃色の小ぶりな唇が開かれる。


「あなたはここで何を……?」


「散歩をしてるんだ」


 自分の答えが俗っぽすぎて、居たたまれなくなってしまう。


 乙女は少し考え込むように眉を寄せた。


「なぜ散歩を……?」


「暇だったから」


 懺悔しているような気分になる。散歩なんかしていてごめんなさい。


「私も――連れて行ってください」


 瞳の中で揺るぎない意志の炎が燃え上がっていた。鉄格子の向こうの面持ちがこんなところにはいられないと雄弁に語る。


 それは懇願のはずなのに、命令のようだった。僕のような適当な人間は力強い目つきの前では頷くことしかできなくなる。


 檻の中にいるにも関わらず、彼女は凛として何にも屈していない。ただ行うべきことを行うことを望んでいた。


 こんな目、こんな女、こんな人間は初めてだった。


「分かった。連れていくよ」


 喉と舌と唇が勝手に動いてしまう。


「ありがとうございます」


 乙女は祈りの姿勢を崩して立ち上がった。ぴんと伸びた背筋と揃えられた足先が真面目な性格を予想させる。


「私はレナ。放浪の癒し手です」


 わずかにあどけなさの残る顔立ち。はっとするほど美しいそれを、鋼のような冷たい表情が覆っていた。


 しばし見つめ合い、レナを名乗る乙女はこてんと首を傾ける。


「あなたの名前は?」


「僕は……菅原優人。ユウでいい」


 言ってからようやく後悔がやってきた。これはめんどうなことになったぞ、と。




▽▲▽




 しかし言葉にしたからには実行しなければいけない。


 僕らの間にある鉄格子を掴み、歪ませる。すぐに人が出られるだけの隙間ができた。


 レナはマジックでも見たようにぱちぱちと瞬きを繰り返す。


「今のは……力ずくで曲げたのですか?」


「うん。僕は力持ちなんだ。……まあ細かいことは気にしないで」


「まったく細かくはないですが、そう言うのであれば気にしないことにします」


 誤魔化されてくれた。胸を撫でおろす僕をよそに、レナは首元に巻いていた白いスカーフを外す。


 そして僕に差し出してきた。


「良かったらこれを使ってください」


 どういう意味なのか。


 数秒かかってようやく気付いた。僕は全裸なのだ。しかも女性の前で。恥ずかしさがこみあげてくる。


 このスカーフを腰に巻くなりして秘部を隠せということなのだろうが、それは……


「僕じゃ弁償できないからなあ。洗濯もできないし」


 でも全裸のままでもいられない。


「お金なんていりません。別に汚いとも――思いません。私よりもあなたの方がこれを必要としている、それだけです」


 紅の双眸が僕を射抜いている。


 その暴力的な美しさは、見られるだけでブン殴られているような心地になってしまう。拒否権はなくなった。


「なら借りておく。ありがとう」


「いいえ」


 スカーフを腰に巻いた。これは早急に服を入手する必要があるぜ。


「あ、一応聞くんだけど、君が僕を召喚したわけじゃないよね」


「召喚? 何の話ですか?」


「ううん、分からないならいいんだ」


 まあそうだろう。レナは悪魔をはらう側の人間にしか見えない。


 というか、召喚者はどこにいるんだ。さっさと出てきてくれ。契約の説明とかいろいろあるだろ。


 僕は悪魔。召喚者が恐れるのも当然。鎖で繋いでおけば安全だと思ったのだろうが、それでは甘かったわけだ。悪魔を縛ることなどできはしない。


 もちろん召喚者に仕えるのもやぶさかではないのだが、制服は支給してもらわないと困る。召喚したあと檻の中に放置するのも困る。


 困ることばっかりだ。


 並んで通路を歩くレナにおずおずと問いかける。


「これって脱獄してるんじゃないよね?」


「? 脱獄していますけど」


「そうだよねぇ」


 これはまずい。怒られるぞ。


「脱獄はよくないよ。やめとこうぜ」


「あなたもたった今しているでしょう?」


「僕はしてないよ。鎖で繋がれてたのは飼い犬にチェーンをつけるみたいなもので……」


「鎖云々は知りませんが、つまり、あなたは囚人でもないのに裸で歩き回る変態ということですか?」


 うっ。そんな責める視線で見ないでくれ。


「いいですか。裸で歩き回ってはいけません。いたずらに他者の性欲を刺激し、あるいは不快な思いをさせることになります。しっかり服を着ましょう」


 違うんだ。事情があるんだ。そう弁明したかったが、自分でも状況を理解できていないので謝っておく。


「ごめんなさい」


「次からは気を付けてください」


「はい。――ってそんな話じゃなくて。脱獄はよくないよ。悪いことしたから捕まってるんだろう、罪は償わなくちゃ。とにかく、散歩が終わったら大人しく牢屋に戻ってね」


「確かに私は罪深い人間ですが、この拘束に正当な根拠はありません。逮捕なんかではなく、誘拐です」


「何もやってないってこと?」


「そうです。私は何もやってません」


 レナは鼻に皺を寄せて不満そうに言い放った。


 それがおかしくて笑う。


「ハハ、悪人はみんなそういうんだよ」


 洋画で聞いたことのあるお決まりのセリフだ。実際に聞ける機会がくるとは。


「……私は牢には戻りません。このまま抜け出してみせます。止めないでください」


「ええ……」


 困った。僕じゃ責任取れないよ。

 

 ふと違和感に気づいた。


 待て。


 僕はいったい何語を話している?


 日本語でもない。英語でもない。少しだけ習ったフランス語でもない。


 これはきっとこの異世界の言葉だ。謎の言語を母語のように流暢に使いこなしている。


 不思議だ……


 まあ異世界召喚の標準装備というやつだろう。僕は心のうちに湧いた疑念を丸めて捨てた。


 そして通路の終わりにぶち当たる。終点には上に向かう階段があった。


 僕たちは目を合わせて、黙って上った。


 そこは屋上だった。どうやら塔のような場所にいたらしい。


 強い風が吹いた。階段を登りきると、一気に視界が開ける。日本じゃなかなか見れない満天の星空だ。


 そして――月が七つあった。しかもそれぞれ色や大きさが違う。さすが異世界。


 塔の縁から下をのぞき込んでみた。かなり高い。肝がきゅっと縮む。


 眼下に広がるのは奇妙な街並み。石と煉瓦と木と土をいろいろ織り交ぜた建築が立ち並んでいる。僕の浅はかな知識でいうと、中世ヨーロッパっぽい。


 レナが横に立った。街並みを見下ろす陰のある横顔から感情は読み取れない。


「綺麗な星空だね」


「そうでしょうか。いつもと変わりませんよ」


「まあそうか……」


「外に出るためには、上るのではなく下る必要があるようですね」


「ちょっと。脱獄しようとしないでよ」


「…………」


「僕は止めるからね」


 レナは深々と頭を下げた。額が膝にぶつかりそうなほどだ。僕はそのつむじと睨めっこを強制された。


「どうかお願いします。見逃してください」


「……そんなのしたってダメだよ」


 真摯にお願いしたらなんでも許されるわけじゃない。レナは冤罪だと主張しているけど、真実なんて僕に分かるはずもなかった。


「戻りましょう。そして――私は下に向かいます」


 顔を上げたレナの赤い瞳が僕を貫く。恐ろしいほどに透き通った目。どうか止めないでくれと訴えかけてくる。


 どうやら僕はこの眼差しに弱いらしい。喉は石のように固まって言葉が出なくなってしまった。


「…………」


「…………」


「……私は行きます」


 翻って一歩二歩と離れていく背中。


 どうしようかな。ついていくのも面白そうだが、でもレナは囚人だし、召喚者を裏切ることになるだろうか。


 ていうか寒い。服をくれ。


 ブルリと震える。

 前触れなく、どしんと音がした。


「んああ? おまいら、どうしてここにいるんだ?」


 間延びした声。

 上裸の巨漢がそこにいた。


 背も高いがそれ以上に横幅の大きさが印象的だ。でっぷりと膨らんだ腹の肉がベルトの上に乗っかっている。腰には巨大な斧が二つぶら下がっていた。


 階段に戻ろうとしていたレナと、階段から上がってきた大男。二人は鉢合わせになった。仁王立ちで視線が衝突する。


「だれだおまい?」


 大男は首をひねった。レナは唇を引き結んで黙っている。


 なんか頭悪そうだな。僕の召喚者、こいつじゃないよね? とにかく服の在処は知ってるかも。まあ彼も上裸だけど。ズボンだけでもありがたい。


 僕は間抜けな大男から情報を聞き出すべく、二人の間に躍り出た。

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