Chapter 1

「Who am I」1


「退屈だ……」


 いつも通りの帰り道。

 ふと呟きが漏れる。


 俺は退屈していた。普通の人生、代わり映えしない日常。それはこれからも続いていく。簡単に想像できる未来だ。


 別に絶望しているわけではない。

 親友はいないが、友人はいる。

 親密ではないが、家族もいる。

 のめり込んではいないが、趣味もある。


 ただ漫然と生きているだけ。

 このまま生きて、最期を迎えるときに「いい人生だった」と言えるだろうか。


 ボタンを一つはずして首元を緩めた。


「異世界にでも召喚されないかな」


 暗い道には誰もおらず、独り言は黒いコンクリートが吸い込んでいく。


 しかし口に出してみて思ったが、やっぱり異世界なんてゴメンだ。

 俺にもこの社会で役割があるのだ。換えが効かない人材ではないが、俺が消えれば困る人もいる。


 どうせなら美少女が空から降ってくる方が―― いやいや。首を振ってしょうもない妄想を振り払う。


「……はやく寝よ」


 今日も現代社会の荒波に揉まれて疲労困憊だ。暖かいベッドが俺を癒してくれる。


 家までもう少し。


 鞄からポータブルオーディオプレイヤーを取り出す。長く愛用して塗装も剥げかけてしまっていた。


 令和のこの時代に二十世紀のガジェットと有線ヘッドホンを使っているのには理由がある。インターネットにもレコード屋にも無い曲が、父から貰ったこの小さな金属片の中に眠っているのだ。

 ヘッドホンをつけ、再生ボタンを押し、本体は胸ポケットに入れる。


 愛してやまないイントロが鳴り始めた。これを聞いている間は煩わしいすべてを忘れられる。


 ボーカルが息を吸い込む音が聞こえて、いよいよイントロが終わろうとして――


 その瞬間。


 足元が光り輝いた。


「なッ――」


 いつも通りだった地面から突然に、象徴文字と幾何学模様で構成された魔法陣が現れた。


 鼓動するように明滅して輝きは増し、視界を塗りつぶしていく。


 悲鳴を上げることさえできないまま、俺は白い光に飲みこまれた。




▼△▼



 

 暗い場所にいた。


 寝起きのように頭がぼんやりする。


 目の前には男が立っていた。


 黒い髪に黒い目。印象の薄い顔立ち。運動をしているのか、細身だが筋肉がついている。


 露出している彼の肌には傷跡がいくつもあって、一般日本人である俺の視線はそこに釘付けになった。


 どこかでみたことのある男だ。


『久しぶりだね』


 そしてどこかで聞いたことのある声。


 数秒間見つめてようやく気づいた。


 目の前の男は――俺だ。菅原優人だ。今の俺より少し歳をとっているが、見誤るはずもない。


「お前は――俺なんだな」


 俺は未来の自分と対面していた。ありえない状況なのに疑問を持つことはなく、すんなりと受け入れられる。


『そうだよ。僕は君』


「……”僕"って何だよ。そんな言葉遣い、物心ついた時からずっと"俺"だっただろう」


『しばらく日本語を話してなかったから』


 そいつは陰のある笑みをみせた。俺はこんな笑い方はしない。当然のことだが、数年先の俺は俺の知らない何かを経験してきたのだ。


 未来の自分と向かい合っているというのは妙な感覚だった。その考えが手に取るように分かる。感情が伝わってくるのだ。


「お前は、未来からやってきて、過去を変えにきたってわけか……?」


『いいや。過去を変えたいとは思わない。ただ――話をしにきたんだ。これから君が生きる世界について』


「俺は異世界に行くのか……」


 彼は頷いた。


『僕たちは召喚された。勇者でもなく、魔王でもなく、悪魔として』


 悪魔。イヤな響きだ。何かを悪と断じるのは詭弁者の手口だと思っている。


『僕たちは地球という地獄の、現代日本人という悪魔だ』


 地球は地獄じゃないし、日本人は悪魔ではない。勝手に呼び出しておいて悪魔と決めつけるなんて不条理がすぎる。


「俺は悪魔じゃない」


『この世界では悪魔なんだよ。異界から招かれし、招かれざるもの。異質な存在だ』


 こっちの事情はお構いなし、郷に入れば郷に従えってわけか。


「……悪魔ってなんなんだ」


『悪魔は悪魔さ。ありのままに生きればいい。ただほんの少し自分の心に正直になるだけ。人も悪魔もそう違いはない』


 そう言われても、自分は悪魔だという認識は到底持てそうになかった。


 俺にも彼にも羊の角は生えてないし、肌の色も普通だし、コウモリの翼もない。どこにでもいる人間だ。


『人間は不公平だが、神は公平に救済し、悪魔は公平に滅びをもたらす』


 公平な滅び。その言葉は俺の胸にすとんと落ちる。


「公平でいろ。そういうことだな」


 父がよく言っていた。"常に公平であれ。そうすれば世界もお前に公平でいてくれる"。こうも言っていた。"人を裁くな、法のみがそれを許される"。


 だが日常生活の中で人を裁かずにいるというのはとても難しい。勝手に善悪を決めつけるのが人間だし、そうしないと窒息することになるだろう。


『金持ちと物乞いがいたら、物乞いに同じだけの富を与えるのが神。両者を裸に毟るのが悪魔』


「それは……問題の解決になっていない」


『……世界は残酷なんだ。僕たちは結局この世界でも歯車の一つでしかない。役割があって、それを遂行することを求められる。そして悪魔の役割は問題の解決ではない』


「…………」


『弱い者いじめを見たら、そんなことはやめろと説くのが神だ。悪魔は加害者をもっと酷く虐めて、被害者からは代償を取り立てる。僕が思う悪魔っていうのはこういうものだ』


「……そうはなりたくない。俺は人間だ」


 しがない俺にも人生哲学というものがある。


 誰にも語ったことはないが、未来の自分の前なら素直になれた。彼も同じものを抱えているのだから。


 一つは公平であること。煩わしい人間関係の中で俺はこれだけを指針に生きてきた。

 次に、恩には恩で報いること。受けた恩を忘れるなかれ。社会は恩の貸し借りで回っている。

 最後に博愛であること。まずは受け入れようとしなければいけない。全てはそこから始まる。


 俺は何も言葉にはしなかったが、彼は悟ってくれていた。


『ならあがけばいい。世界を変革することができるのは、外からやってきた僕たちなのかもしれない』


「ああ…… 別に世界を変えたいなんて望まないが…… 悪魔といわれようと俺は俺だ。変わりはしない」


『僕は応援してるよ。……そろそろお別れだ』


 言葉が反響する。睡眠と覚醒の間の一瞬のように意識が薄れていく。彼の姿がぼやけ始めた。


 ほんの短い邂逅だったが、名残惜しい。


「なあ…… 助言をくれないか」


『……今話したことも君は忘れてしまうんだ。でも大丈夫。大事なことは体に刻み込まれてある』


「体に刻み込まれてあるって…… どういう意味だ?」


『そのままの意味さ』


 わけが分からない。それでも彼は説明する気が無いようだった。


『おのずと導かれるはずだ』


 深い水の底から急浮上していくような感覚。肉体を置き去りにして精神が昇っていく。彼は寂しそうな顔で手を振っていた。




▼△▼




 目を覚ました。


 ここは……牢屋の中のようだ。


 体が重い。血液を鉛に変えられているみたいなだるさ。


 僕は冷たい石の上に座り込んでいる。両手と両足は鎖で繋がれていた。目の前には鉄格子があって、檻の中には一人きりだ。


「なんで牢屋に……」


 なんでこんな場所にいるのか。記憶に靄がかかっているようにはっきりとしない。


 足元に突然現れた魔法陣のことを思い出した。異世界、その単語がよぎる。何者かに喚び出されたのだ。


 僕は裸だった。


 そして全身はおびただしい傷跡で覆われている。


 あまりに異常な傷だった。リストカット痕のような小さく細かい傷が肌を覆い尽くし、無事なところはほとんど見当たらない。真新しい傷もあれば古い傷もあった。血は止まっているが、それでも生きていられることに驚くほどだ。


 もちろん心当たりはなかった。僕は軍人でもスパイでもなんでもない、ごく一般的な市民なのだから。


 傷跡をなんとなく眺める。


 不思議なもので、無作為で縦横無尽な赤い線が意味ある形を持っているように見えてきた。例えばそれは、文字のような。


 気付いて僕は唖然とした。これはただの傷ではない。




 言葉だ。文字だ。それも日本語の。


 腹部にはデカデカとした文字列が刻まれていた。きっとナイフでえぐられたのだろう。


 そこにはこうある。


 ダンザイノアクマ。

 すなわち、断罪の悪魔。


 それを目にした瞬間全身の傷が燃え上がるように熱くなり、マグマにも似たエネルギーが腹の中で煮えたぎる。


 強烈な自覚を得た。僕は断罪を司る悪魔なのだ。独断によって罪を裁き罰を与える、不敬なる神業の代行者。


 そして、傷に隠すように刻まれた文字はこの一つだけではない。体を捻りながらいろんな場所を観察して、合計十二のメッセージを見つけた。



1.俺を信じろ

2.断罪の悪魔

3.罪を断て

4.契約するな

5.衝動を抑えろ

6.力は乱用するな

7.黒幕は魔女

8.取り戻せ

9.魔女を殺せ

10.滅び来たれり

11.この世界はくそったれだ

12.lost bible chapter 13を求めよ



 直感が教えてくれる。これは指針であり道標でもある。いわば僕に与えられたチートの一つ。


 一体誰がこれを刻んだのだろう。僕を召喚した人間か、あるいは神か。"俺"とは誰だ?


 理解できるものもある。理解できないものもある。だがいずれ全てを知るだろう。今はただ――受け入れるのみ。


 壁に背中を預けるように座り直す。鎖がじゃらじゃらと音を鳴らした。


 ふと、体を縛りつける枷を邪魔に思う。僕の四肢は鎖で繋がれているのだ。


「鬱陶しいな……」


 苛立ちが加速して一気に憤怒となった。


 なぜ……なぜ僕が縛られなければならない? 僕が何かしたか? 明らかに間違っている。不公平だ。


 左手首の枷を握り込む。


「朽ちてしまえ」


 口をついて言葉が紡がれると、入れ墨のようなクモの紋様が右腕に浮かび上がった。


 百を超える黒い蜘蛛。模様でしかないはずのそれらは忙しなく動いて、指先から枷へと渡っていく。子蜘蛛たちが手枷に噛みついて覆い尽くした。硬く冷たいはずの金属が、砂でできているかのようにサラサラと崩れ始める。


 たった数秒後には石の上にこんもりとした黒い砂の山が出来上がっていた。蜘蛛たちは静かに霧散していく。


 手首をさする。解放感が心地よい。


 よし。これですっきりした。


 ハハハハハ。


「…………」


 我に返る。体の熱が急激に冷めていった。


 砂の山を信じられない思いで見つめる。でもそれは現実としてそこに存在していた。


 突如湧き上がる怒りなんて経験したことがなかった。穏やかな性格を自認していたのだ。


 突然浮かび上がってくる蜘蛛の紋様も、その紋様が動いたことも、枷が壊れたことも、すべて理解しがたい。明らかに人間ができることではないのだ。


 ――僕は明らかに変質している。


 精神も、肉体も、今までの僕と同じものではなかった。少し怖くなる。でも大丈夫だ。本質は変わっていない。僕は僕。


 腹の傷が熱を持って疼いた。文字列が意思を持って自己主張し、語りかけてくる。


<断罪の悪魔>

<裁け。罪を断て。贖いを捧げよ>

<汝は断罪の悪魔。我は断罪の悪魔>


 どうやら僕は悪魔になってしまったらしい。


「まあ……なんでもいいか」

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