第2話

 BARには客が少なかった。

 6席のカウンターと4人掛けが2席だけ、バーテンダーのおじさんは来館した際にフロントで受付をしてくれた人であった。4人掛けの席は学生なのか若い男たちがビールジョッキ片手に飲み合い内気な男たちなのかぼそぼそと何かを話し合っていた。数人は命に視線を向けては何か下世話なことを囁いているようでもあった。カウンターには一人だけ、年齢の判断できない中年のような顔の男が1人で飲んでいた。同じ浴衣姿で命には目もくれずに目の前に置かれているウイスキーのロックをじっと眺めて何かを思案しているようでもあった。

「いらっしゃいませ、何になさいますか?」

 男と2席ほど離れたカウンターへと腰を下ろした。おしぼりと水が差し出されて、受付時から後半の語彙だけを変化させた言い回しだった。テープレコーダーのように安定した声色が少しだけ気になった。カクテルを頼もうかとも思ったが、この分であると味は期待できないのかもしれない。しばらく悩んでから、ふっと隣の男が飲んでいたウイスキーのロックにした。

「畏まりました」

 恭しく注文を承ると彼は慣れた手つきでソレを作った。そして目の前に差し出してコースターの上に置くと、そそくさと去るように元の定位置に戻った。室内にはジャズが流れている、だが、この店構えで流れるには少々無理があるように感じた。詳しい訳ではないが、重厚すぎるレパートリーであるような気がした。ときより背中に投げつけらる視線を無視しながら、一口、二口と呑んでは、手の中でグラスを弄んだ。2席となりの男を見ると、彼はじっくりと金色の液体と氷をじっと眺めて物事の本質をじっくりと考えるような苦手だった哲学の教授のような眼差しでグラスを見つめていた。命が飲み終えておかわりを頼んでも、男はグラスに手を付けようとはしなかった。それどころか、もしかするとその男は一口も飲んでいないのかもしれないことに気がついた。おかわりで差し出されたグラスの量と男の目の前にあるグラスの量は変わりがないように思えたのだった。

 中年のような顔つきの男、腕や足はしっかりと筋肉がついているようでがっしりとした体形だった。髪の毛は短く整えられており清潔感がある。顔は昔イケメン今おじさんと例えた感じだろう、見栄えは悪くはない。グラス脇にスマートフォンが置かれていたが、ときより何かを受信しているのか光っては消えてを繰り返していた。

 結局、その男は一口も飲むことは無く、音のしなくなったスマートフォンを持って支払いを済ませると店を去っていった。命はそのまま閉店まで居座って程よい酔いで支払いを済ませると店を出たのだった。時刻は0時を回っていてBARを出てエレベーターホールの先、大型の窓から下呂の街並みが見渡せるところに置かれた椅子に先ほどの男が座って外を眺めている後ろ姿が見えた。

「あの、どうされました?」

「え?」

 思わず声を掛けていた。その後ろ姿がどこかで見た気がして思わず声を掛けてしまったのだった。返事をして振りむいた男の顔に命は驚きを隠せなかった。

 そこにいたのは中年のおじさんではなく若い男であった。肌は年老いておらずしっかりと張りがあった。そして逃避や眉毛なにより鳶色の目は若さをしっかりと宿していた。

「いや、その、ちょっと、なにか悩んでるのかなって……」

 声を掛けたはいいが何を離せばいいのか分からない。BARでの姿を思い出して何か悩んでいるのだろうと口から出まかせのように、言い訳のようなことを聞いてみることにした。

「いやぁ、彼女に浮気されたんです、しかも、ヤッてるところに鉢合わせしちゃって」

「へぇ、話聞くわ、私、経験者だから」

 口をついて出たのはそんな言葉だった。驚くほどにすんなりと口をついて出た言葉と同時に彼の隣に腰かけていた。

「えっと、どちらの経験を……」

 眼を鋭く尖らせて男を睨みつけた。

「アナタと同じ立場、ねぇ、デリカシーないって言われない?」

「すみません、ですよね」

 軽く頭を下げた男の前には見えなかったが小さな机があって缶ビールが二つ置かれていた。

「お詫びに良ければ一本どうぞ」

「いいわ、忘れてあげる」

 差し出されたそれを奪うように受け取って命はプルタブを開くと一口飲む。そして浴衣にあるまじき姿で足を組むと男をジッと見た。

「話してごらんなさいよ、聞いてあげるわ」

 まるで面接官のような言い回しで命はそう言うと、男はちょっとだけ笑った。その笑顔はどことなく悲しそうで、だけれど、嬉しそうであった。

「おとといの事なんですけど……」

 そう言って彼が視線を合わせて口を開いた。

 男が帰宅するとベッドの上で彼女が別の男と寝ていた。しかも、絶頂する瞬間で自分の時よりも気持ちよさそうな声を上げていたところであった。視線が合って部屋に沈黙が流れ、彼はそのまま飛び出してきてここまで彷徨い下呂へとたどり着いていたのだった。

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