許せないダブルノックアウト
鈴ノ木 鈴ノ子
第1話
誰しもが唐突にそして突然に何かを閃くことがある。無論、それは大抵の結果、いや、90パーセントは悲惨な結果となる。残りの10パーセントは辛うじて成功と思えるものだろう。さて10パーセントの辛うじて成功を論ずるのは面白みがない。
90パーセントの内訳で80パーセントは傷にはならないものとなり、残りの8パーセントは努めて忘れるモノ、で、問題は残った2パーセントの部分である。この2パーセントは大問題だ。
絶対に人生においての傷になる。災厄な記憶は蓋をして思い出さないようにすると決意して、極力、忘れるようにしているが、だいたい、まったく関係ないことをしている最中に思い出して、絶望する。
ただ、絶望するのだ。他の言葉は当てはまらない、絶望、するのだ。
西伊奈命(にしいなみこと)が生きていた中で絶望的な記憶である「同棲している自宅の扉を開けると彼氏が知らない女とヤッていた」を思い出したのは、別れてから5年、仕事にのめり込み、任されプロジェクトがひと段落して、ご褒美と総務課からの有給休暇取得命令と、それに伴う評価を気にする上司からの命令下達によって、貯まるに貯まった預金から豪遊の如き金額を使って、下呂温泉の格式高い宿に泊まり、そして料理に舌鼓を打ちながら味わいつくした直後のことだ。
「はぁ‥‥‥」
言葉で言い表しようのない気持ちになる。
先ほどまでの充実感は消え去って、酷い疲労感と絶望感が全身を支配した。空になった食器類、美味しい料理が乗せられて彩り豊かなそれらの色が朽ち果てて、すべての色が薄墨で塗られ、そう、玄(くろ)で染まった。
「お口に合いませんでしたか?」
下膳に来た綺麗に髪を結い但し和装と正しい仲居の制服に身を包んだ彼女が不安そうに声をかけてきた。
「いえ、美味しかったです、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたので……」
「それでしたら良かった。では、失礼足します」
大きな盆に食器類のすべてを乗せて、うやうやしく頭を下げた仲居が部屋を去る。普段なら気にならないはずの部屋の香りと、そして仲居が纏う香りがとても気になって思わず命は顔を顰めた。その濁り混ざった先の匂いが、あの日の部屋の匂いのように感じられ、気分が更に滅入る。もちろん、そんなことは無いと心の中で抑えてはいるのだけれど、そう抑える分、自らに言い聞かせる分だけ滅入る気持ちに拍車がかかった。
「忘れていたはずなのに……」
そう呟いて彼女は顔を両手で覆い、暫く身を固くして前屈姿勢を取った。胎児の頃の、人間が人間になるためのその姿勢は命にとって昔から自らを落ち着かせるための行為だった。だが、今日の気分は更に落ち込みを見せた。最低男、名前は言いたくないのでそう呼称するが、出会いは大学2年生の貧乏旅行でのバイカーハウスであった。当時、少しのアルバイトと命に甘い祖父母からの支援でちょっとした中型バイクを購入した、夏休みに旅に出てそして知り合ったのが最低男だった。声を掛けたのか、声を掛けられたのかは定かではないが、旅先の話で盛り上がったのは確かだ。そして、夜は酒を酌み交わして、一夜の過ちではないが体を重ねた。これがいけなかった。後々考えればこれが本当の過ち出会っただろう。抱き合って最低男が絶頂する間に命の意識は初めて味わう快楽に落ちて途切れた。相手も果てると満足するかのようにそのまま眠りにつき、翌朝は抱き合った状態で眠っていたのだ。
そして見事に溺れた。
恋は後からやってきて大学を卒業し身を固めようと話をしていた矢先にことが起こった。玄関のドアを開けて室内に入ると異臭がした。背筋が寒くなるほどの異臭、獣臭さと言ってもいいかもしれない。そして、廊下の先、2人の寝室として使っている扉を開くと、最低男の上に女が乗っていて丁度絶頂するところであった。震える女の身体に目を奪われた時、もっとも嫌悪すべきことに気がついた。その女は大学生の時の命に瓜二つであった。まったくの瓜二つではない、でも、それは瓜二つだったのだ。
何も言わずに扉を閉めそのまま自宅を後にした。そのまま大学時代からの友人で、そして、なんでも明け透けなく話すことのできる麻衣子の家に転がり込んだのだった。
「最低だね、いつまでも居ていいから、私が荷物取りに行ってやる」
ボーイッシュな印象が大学から変わることのない麻衣子は、そう憤ってかなりの長い時間、話を聞いてくれ、そして事実荷物を取りに行ってくれたのだった。しばらく麻衣子のお世話になり、やがて再度小さなアパートを借りて住み着いた。ワンルームの小さな部屋に最低男の穢れの付いていないものだけを持ち込んで、新生活を初めて今に至っている。
穢れたものは唯一、命自身だけだった。すべての最低事は最低男が持って行ったからだ。
「クッソ」
右手を伸ばして先ほどまで食卓となっていた机の天板を叩く。激しい音が室内に響き、そして仲居が用意してくれた湯呑が跳ねて転がり机の上に流れ散った。それを見てなおさらに惨めになった。天板に広がった水たまりのようなお茶に嘲笑われたような気がした。浴衣姿のまま財布と鍵だけを持ち部屋を出た。一時もあの部屋に居たくなかった。
「お客様、今、お布団を……」
「お願いします、申し訳ないですが、部屋の片づけもお願いします」
先ほど下膳にきた仲居とすれ違いそう声を掛けられたので、言葉を重ねるように言ってエレベータへと乗り込んだ。そして、最上階のボタンを押した。最上階にはBARがある。そこでカクテルか何かを頼んで飲んでしまおうと安直に考えたのだった。
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