EP.3
発表会までの二週間近く、僕らは放課後の自主練習を重ね、時にはこのクソ迷惑なテストを考えついた音楽教師からの指導も受けたりしたが、最終的に発表会当日、遙花が歌うことはなかった。
*** ** ***
前日、遙花は少し緊張しているみたいだった。
「明日はいよいよ本番だね! 私、間違えないようにしないと。あの……that was clearly understood……の clearly が上手く発音できないなぁ。クリアーリィ……って」
「エルとアールが混ざってる単語だから、日本人には難しいっぽいよ。エルもアールも舌を丸めるけど、エルは上の
「えー? なにそれ? エル? アール?」
「エルはエルだけど、アールはアーって言って舌を丸めたら、それっぽくなるよ」
「……うぅ、難しい」
「まぁ、いちいち発音に聞き耳たててる奴なんていないだろうから、どうしても言いにくかったら、クレアリーって歌っておけばそれらしく聞こえるよ」
「それらしくって、なにさー」
緊張しながらも、はしゃいでいて、楽しそうで……だから、まさか当日になって来ないとか、僕は信じられなかった。
結局、僕は一人でこの曲を弾いて終わった。
ただの伴奏を弾いただけ。
誰の心にも残らなかっただろう。
僕は別に遙花に怒ったりはしなかった。
理由は知らないけど、突然、学校に来れなくなる日だってあるだろう。
例えば風邪とか、例えば食あたりとか、例えば親が急病とか、例えば……。
放課後、ロッカーから靴を取り出した僕に声をかけてきたのは、遙花の友達の一人であるショートカットの子だった。
「伊月くん、悪いけど……一緒に来てくれない?」
「……どこに?」
「遙花のとこ。病院」
『病院』という単語に、僕の心臓はスッと冷えた。
それは以前にも味わった、なんとも言えず気味悪い、息することすら儘ならなくなるような、不吉な言葉だった。
僕はにわかに浅い呼吸になった。
声が震えそうになるのをこらえて、低く尋ねる。
「S病院?」
「うん。知ってた?」
僕は首を振った。
S病院はこの辺りでは一番大きな総合病院で、この町の人間は、たいがい重い病気になったらそこに行く。
母も、そうだった。
僕とショートカットの子 ――
ゴトゴトと揺れるバスの振動が、忌々しく懐かしい。
母が入院していた頃には、回数券を買って、何度となく着替えやら雑誌やらを届けたものだった。
「私ね、伊月くんと同じピアノ教室なんだよね」
唐突に久瀬さんが言い出した。
僕は鈍い目でチラとだけ見る。
だが久瀬さんは僕の返事も相槌も必要ないらしく、話を続けた。
「同じピアノ教室でもレッスン日とか違うと、全然顔合わすこともないし、知らないだろうけど……ピアノの発表会、あるでしょ? あれって、自分の家族以外でも知り合いを招待できるじゃない? それで私、遙花を招待したの。そうしたら、遙花ってば私より伊月くんに夢中になっちゃって。ドビュッシーの『二つのアラベスク』だったかな? あなたが弾いたあと、思いきって声かけたらしいよ。すごいね、って。感動した、って。でも、伊月くんめっちゃ素っ気なかったんだって。ドン引きされたーって、めっちゃヘコんで、半泣きだったわ」
「…………」
僕はかすかに覚えていた記憶を手繰り寄せた。
そういえば弾き終わってから喉が渇いて、自販機にジュースを買いに行ったら、誰かに声をかけられた気がする。
でも、まさか素人の演奏に『感動しました!』とか言われると思ってないし、びっくりするし、なんか気恥ずかしかったから、相手の顔もまともに見ずに立ち去ったのだと思う。
「その次の年から伊月くんが発表会に出なくなったから、遙花、自分のせいじゃないかって落ち込んだりもしてたよ。そんなこと、ないよね?」
「違うよ……単純に、発表会とかが嫌になっただけで」
僕は唇を噛みしめた。
ピアノの発表会に毎年来てくれていたのは、母だけだった。仕事人間の父は、最初から興味もない。
ドビュッシーの『アラベスク』も、母が好きだからと選んだ曲だった。結局、入院していた母が聴くことはなかったけれど。
もう母が観に来ることもないのなら、発表会に出る意味もない。
誰かが僕の演奏を心待ちにしてくれているとか、考えたこともなかった。
「私、遙花とは中学から一緒になって、同じ合唱部だったんだけど、あの子、中1の三学期に倒れてね。鼻血が止まらなくて……救急車で運ばれて検査したら、白血病だって。それからは面会謝絶で一ヶ月くらい会えなかったけど……きっと、すごく大変だったんだと思う。髪長かったのに、ばっさり切って。二年になって、二学期からまた戻ってきたの。時々検査入院とかしてたけど、ほとんど私たちと変わらないくらい元気で、もう治ったって、ほとんど治ったんだって思ってたのに……」
久瀬さんはいったん言葉を切ると、ギュッと膝の上で固めた両手をより強く握りしめた。
「発表会の前に、また数値が悪くなってたんだって。また入院しなきゃいけないかもしれない、って。そうしたらもう、一緒に卒業とか無理かもしれない、って……もう……もう、無理かも……って」
掠れた声で言ってから、久瀬さんはしゃくり上げた嗚咽をのみ込んだ。
「なんで……」
僕は誰にともなくつぶやいた。
「……なんで僕と組むとか、言い出したんだ……」
思い出作りをするなら、久瀬さん達とするべきだった。
僕なんかよりも。
僕は遙花のことをそんなに知らない。
いや、知っていると思っている幼稚園の頃だって、小学生の時だって、僕はそんなに遙花のことをわかってない。
ただ可愛い女の子だった……その程度の思い出しかない。
今も大して変わらない。
僕は、無力で、いつも、誰の、何の、力にも、なれない。…………
うなだれる僕の背中を、久瀬さんが思いきりビンタした。
「ふざけんなッ! ここまで言ってもわからないとか、あんた鈍感すぎでしょ! それともワザと?!」
怒鳴り声に乗客達がざわつく。
そのタイミングで、ビーッとバスの乗降ベルが鳴った。
病院前だ。
僕と久瀬さんはあわてて降りた。
「先、行って。E棟の5階。私、遙花のお母さんに電話しておくから」
涙でボロボロの顔を隠したいのだろう。久瀬さんはうつむいたまま病院に向かって指をさす。
僕は頷くと、久しぶりに病院の中に入っていった。
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