10.新兵いびり
・ ・ ・ ・ ・
休暇まで、あとほんの少し。ほとんどの周辺部隊員は、すこぶる機嫌がよかった。……だから僕も皆も、油断してしまったのだと思う。
新兵イスラが、
戦線から宿舎に戻って沐浴中、洗い場個室の中で汚水をぶっかけられたと言う。仕切りの上から自分の使った砂水をかけてきたやつが誰なのか、もちろん新兵イスラは見なかったし、その辺にいたはずの僕らにもわからなかった。立て続けに二回やられ、それでイスラが僕に打ち明けて発覚したのである。
「べつに平気です。どうせ洗い直せるんだし」
そう
「次から沐浴行く時は、皆でかたまろうか」
「連れお小水のようやな! 連れ沐浴かえ~」
むだにお上品な言葉遣いにて、サミが鼻を鳴らす。しかし休暇滞在先に連れて行ってもらえる手前か、“甘やかすなや”とは言わなかった。
入営したばかりの頃は僕もいびりを受けたし、サミも手酷くいじめられた(らしい、本人談)。所属隊の中で、ではない。番が離れて戦線でも一緒になることの少ない、あまりつながりのない隊の人間が、そういうことをするらしかった。
数年前、ホノボ兄弟は二人そろって
定年間近と見られる予備役主任は、ふんふんと話を聞いた。新兵イスラが体調不良を訴えていないかどうか、僕に
「わかりました。上に報告しておきます」
しかつめらしい態度で言われて、それでおしまいである。
「……」
ぱたん、と事務所の扉を閉めて、外に出た。
≪俺らに出来んのはこんだけや。ほんまに同じこと繰り返してばっかり、って気がすんな……。お前が来た時もこうやったし、その昔俺が入営したての頃も似たような目に遭った。そのたび隊長と副隊長が、上に報告しに行って……≫
裏手の荒野を通って第七宿舎に戻る途中、クスボ前隊長の言っていた言葉をそのまま、サミに話した。
「それでもなーんも、変わらへんのやね。つまり、
「まあ、
こういういびりはしょっちゅうあるが、長続きはしない。それに陰湿ではあるけれど、除隊を考えるほどの深刻な損害を伴ういじめでもなかった。
まあ、それは道理でもある。お互い正規理術士なのだし、いびってきた者にいびられた側が本気で対峙して理術のかけ合い大喧嘩という事態になれば、これは軍規律違反でどっちも厳罰必至だ。
理術士は、
あの巨大な海竜あいてでは勢いを削ぐくらいにしかならなくても、正規理術士の攻撃は種類属性が何であれ、人ひとり以上の生命を絶つ殺傷力を持っている。
理論上では、ごく一般的な実力水準の正規理術士が“春雷”を放った場合、密集対象で二十人から三十人程度を一撃で殺傷できるのだそうだ。ぞっとする。
理術士隊を有さない対抗集団にとっては、大きな脅威だ。というか話にも勝負にもならない。
この軍事的優位性をもって、ティルムンはアイレー大陸における不動の権威をとどろかしている。さらには国家間での戦争を放棄して、永世中立の立場を宣言してもいる。
“白き沙漠”の東方、イリー都市国家群はティルムンからの植民が源となった国々ではあるけれど、そのどこにも政治・軍事的な干渉を行わない。≪東側世界≫がその内側でどうこねくり回されようとも助けはしないし、どちらかの敵味方にまわることもないのだ。
……とまぁ、そんな仰々しい権威の裏付けになっている我々ティルムン軍、理術士隊ではあるけれど。実際の戦線に立っている兵士の間では、こんな
一日戦線に配備されて詠唱しまくった後では、いびる側に精力的な暴力を続ける気力もなくなるのをいいことに、制度は動かない。小さな訴えは受理されても、改善にはつながらない。
逃れられない日々の繰り返しの中で、病んだ誰かが誰かを傷つけ、病ませてゆく。あとはもう所属部隊単位で何とかするしか手立てはなかった。
「モモ君はさぁ、どんな風にいびられたん?」
「……」
見下ろしてくる変人の表情に悪意はなく、僕も別に感傷なんかもたない。ずいぶん昔の話だ。
その人は、めちゃくちゃ
≪きたない≫
その人がいきなりぼそりと、言葉をふっかけてくる。ひょっとしたら、“かくれみの”の小術か何かを使っていたのかもしれない。僕が一人でいるところを狙いすましたかのように、後ろから言ってくるのだ。
初めはびっくりして、僕は反射的にすいませんと謝ってしまった。けれど軍規律に従って僕はきっちり沐浴しているのだし、何がどうして汚いのかと不安になった。
そして二度三度とすれ違いざま、上から同じ言葉をふっかけられる。
五度目だったか、……目線を落として黙ってすれ違うべきところで、僕ははっきり顔を上げた。その人は足を止め、僕を真正面から見すえた。僕は一人で向こうも一人、小備蓄庫の裏には他の人の姿はなかった。
僕は何か言い返すつもりなんてなかったし、にらみつけたわけでもない。そもそも平和太平な僕の顔では、にらんでも効果なんてない。ただ聞かなければと思った、どうしてそんなこと言うのですかと。
≪きたないやつらよ。
その人はふうっと笑って、……おっそろしく冷たい笑い方で僕を見下ろしてから、くるりときびすを返して行ってしまったのだ。僕は身震いをし、その晩ようやく当時の隊長に打ち明けた。
あまり間を置かず、その人は昇進して指揮部へ行ってしまったらしい。いったん中将以上になると、戦線の理術士たちの目に触れること自体が少なくなる。だからもう約十年、僕はその人を見かけてもいない。
「けーッッ。貴族のやなとこ、煮詰めたようなやつやな! 笑いながら
長い鼻にしわを寄せて、サミがうなった。
「どこぞで見かけたら、うちに言いよしモモ君。それこそサミがうす笑い浮かべて、びりびり雷落としたるよって……ひひひ」
「本気の表情で言うんじゃないよ、気色わるい」
たしなめたけれど、実はこれに関して僕はサミに助けられてもいた。
この一件以降、僕は貴族出自の理術士に苦手意識を持ってしまって、なるべく関わらないように、視界に入れないようにしていたのだ。しかし第六十八隊を追い出され(?)我が隊にやってきた変人があまりに変人であるゆえ、全貴族が恐ろしいものではない、と思えた。荒療治というやつ。……いや、サミは別の意味で恐ろしいやつではあるけれど。とりあえず変人は第六十三隊のものを
「……にしても、この時期でちょっと助かった、と思った方がいいのかな。僕らはじきに休暇だし、その間にいびり相手がイスラへのやっかみを忘れてくれるかもしれないよ」
「ああ、そうやねぇ。もうすぐ休暇や……むふッ」
サミが生あたたかい表情で天を振り仰いだ。
灰青色の空、変わり映えのない重たい空が微妙に明るく見えるということは、やっぱり僕も帰郷を楽しみにしているのかもしれない。
その後、新兵イスラに目だったいびりは降りかかってこなかった。僕ら第六十三隊は、無事に休暇入りを迎える。
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