2.還り来たイスラ
・ ・ ・ ・ ・
「第六十三隊、起床ー」
僕は目を開けた。
間近に迫った重苦しい板張りの天井、それが左からのぼんやり明るい光源に照らされているという、変わり映えのない目覚めの風景で今日が始まる。
みしん、もしん……。その天井、すなわち二段寝台の底部分がきしんで、上の寝床でサミが起きたと知れる。僕も、もそりと上半身を起こした。ふぁっ。
狭っちい
だだっ広い食堂で他の隊と同時に朝食。変わらない。白湯と菜湯と平たい麦ぱん、いつも通り。
「ようし、では本日もゆくぞぅ、皆」
「はい」
「はーい!」
「……はい」
「はい……」
クスボ隊長の言葉にいつも通りの反応をして、第七宿舎の西口を出かける……。ここまでは同じだった。けれど隊長はこの日、全く新しいことを言う。
「俺のお役目、最後の日だ。みんな今まで、おおきにな!」
灰青色の空の下、僕らは≪敵≫に対峙する。
二重塹壕の中には五人一組の隊が八つ、戦線に沿って配備されている。二刻の間、前列・後列の二隊がかりで守備攻撃を担当して、海から来る≪敵≫一体を地上に寄せ付けない。
このなだらかな湾の外に、≪敵≫の侵入はなかった……僕が知る限り、過去十四年間は。
「いざ来たれ 群れなし
「
僕らの番が回ってきた。クスボ隊長の一声に、僕とホノボ兄弟の詠唱が続く。
それぞれ手にした聖樹の杖のこぶこぶ先端が白く光り、そこからあふれる小さな白い粒々が飛び散って、前方にある泡膜の防御壁に溶け込んでいった。
こうして前方の隊が作った巨大な光る泡膜の後ろに、僕らの泡膜が上塗りされていく。
光る防御壁の向こうは、ひたすら海水しぶきだ。波打ち際を越えられない≪敵≫が、力任せの体当たりを繰り返している。その青黒い巨体が時々、飛沫の合間にあらわれる。
「高みより高みよりいざ
僕、モモイガ・モシャボはいま
それらは略して、“海竜”と呼ばれる。
九世紀まえからこの北海岸に出現するようになり、当時周辺に散在していた漁村を壊滅させた。首邑ティルムンから理術士が送られ、これに対抗する。
……けれど火柱と光矢でいくら傷つけ追い払っても、海竜は繰り返し繰り返し、ティルムン北海に出現した。少しずつ数が多くなってゆき、ここ二百年ほどは三・四匹が同時に、毎日現れている。
だからこちらも数を増やした。五人一組の理術士七十隊が、常に北海岸戦線に配備されている。
「サミ、攻撃用意」
「はーい。 ……
ぎゅううううん!
サミがさっと頭上に掲げた杖の先端から、ばら色がかった白い閃光がほとばしって、一直線に前方の海竜へと向かってゆく。
ばちん、と文字通り海竜の頭をぶっ叩いた雷撃は、その周りの宙に散った。
どおーん! 派手なしぶきを上げて、青黒いけものは海中に消える……。でも数分後には息を吹き返して、再び立ち向かってくるのだ。
「いざ来たれ 群れなし
僕らは詠唱をやめない。これを二刻の間繰り返していれば、今日の役目は終わる。後続の隊に引き継いで、休んで、明日また指定された時間にやって来て交代をする、それだけなのだ。
視野の端では、別の海竜が別の隊と押し合いをしている。
この拮抗が破られることはないし、仮に破られた場合どうしたらよいのかは、知らされていない。それは
僕らはそれを知ることなく、定年まで規則正しい詠唱を続けて生きればいいのだと、……この十年間で学んでいた。
数と網目の細かさで対応し続けるティルムン側に、死傷者が出ることはほとんどない。
晩に冷たく日中暑い、常に灰青色の空が広がる北海岸にて、僕らは戦っている。戦っていく……明日もあさっても、その後もずっと。
死んだ後先に未来なんかないのと同じで、僕は明日以降の展望なんか考えたことがなかった。帰営した時に次回分の出撃時刻と配置地点を知らされる、それが僕にとっての未来の全てだ。
・ ・ ・ ・ ・
けれど今日は少しだけ、勝手が違っていた。
帰営して沐浴した後、クスボ隊長は大きな麻袋を背負って去ってゆき、予備役の事務伝令は僕をまっすぐ見て「明朝九ツ、赤の十八地点」と言い渡す。
そう、本日付けで僕が第六十三隊の隊長になったのである。
六十三番の隊室に入った時、サミがぱしんと僕の肩を軽く叩いた。
「がんばれ隊長! モモイ隊長」
おどけた調子で、かなり上の方から言ってくる。ひょろっとでっかい、やしの木みたいなやつなのだ。
「……でもってサミは、副隊長だ」
じとっと見上げながら言ってやると、貴族出自のぼんぼんは長い鼻にぎゅうとしわを寄せた。
「やーだ。
変な男なのである。先端がうずうず巻いた金髪に明るい灰色の目、いかにもの貴族的容貌なのだけど、口を開けば周りの皆が引くことばかり言う。こんな戦線配置の小隊付属をさっさと抜けて、その先の指揮部へ昇進してしまえばいいのに……。そしてそれができるのに、面倒くさいのやーだ!と言って自ら
ホノボ兄弟は下段寝台に腰かけて、
兄のハガティは波うつ明るい褐色髪を頭の後ろで丸め、弟のラガティは短く刈っていた。そして日に
本来、理術士というのは
そんな僕が今後は隊長として、この第六十三隊の指揮をとる……。名誉なのだし、他に選択肢がないこともわかっている。……でもやっぱり、気が重かった。
小さく吐いた溜息を耳ざとく(微妙に先のとがった耳だ)聞きつけて、サミがにやっと笑う。気色わるい。
「大丈夫やってー。それにほれ、じき新兵が来るんやしさあ。そいつにしんどいとこ全部おっつければ、モモ君も楽できるんとちがうかえ?」
「実際に来る前から、いびる気満々でどうすんのッ」
ととん! その時、扉が軽く叩かれた。
「第六十三隊長。新兵が到着しました」
大柄な事務伝令が廊下に立っている。
「あっ、はいっ」
「以降の引き継ぎを願います」
伝令はそれだけ言うと、さっさと行ってしまった。
僕は薄暗い廊下に、取り残されるように立っている小柄な新兵に向き直る。
「入って……」
言いかけて、息をのんだ。
短く切った暗色髪がうねっている。その下にきらっと輝く黒い瞳、そこそこ日に
胸に獅子頭の術士帽をさげ、聖樹の杖を左手に携えている。
「……イスラ……?」
思わず僕は呼びかけた。
十四年前に僕の前から消えてしまった、あの瞬間と同じ格好。
イスラでしかない少年が、そこに立っていた。
彼は真っ黒い双眸をさらに丸く開けて、少し驚いたようなそぶりを見せる。
「はい、そうです。モシャボ隊長?」
けれど彼は、僕をモモイとは呼ばなかった……。
「イニーシュラ・バルボ
略してイスラだった正式個人名も同じ、声も同じ、抑揚も同じ。
イスラだ。イスラ、なのに。
僕を忘れて還り来たイスラは、
「……」
茫然とした僕が一歩あとずさりをしかけた、その瞬間。
がーんっっっ!!
耳
「緊急総配備ーっっっ。奇数隊の全要員、ただちに準備っっ」
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