■4章/9
数瞬か、数秒か……私の感覚では数十分。沈黙を破ったのは、はあ、と雨姫様がこぼしたため息だった。
無礼を承知で表現するなら、少々どころか、かなりわざとらしい。
「私は雨姫で、貴女はただの夜伽」
「感情には関係ありません」
「私たち、女同士だけど」
「国の法にも、氏族の掟にも、同性の恋を禁じるものはありません」
「……名前。神殿で口にするなと言わなかったかしら」
「ティルダード様にはもうバレていますので。……それも申し訳ありませんでした」
全く、とルフ様は微笑む。
「返事は保留とします」
「はい」
「お帰り、シャイラ」
「……ただいま戻りました」
かっ、と響く足音。立ち上がり、相対する。
ティルダード様が、変わらぬ表情で私とルフ様を見つめていた。
「儀式を中止してください」
「できない。既に
「私もアヤンさんも、生贄などには……」
「私だ」
「……は?」
ティルダード様の言葉に、咄嗟に疑問の声を上げた。だが、回り続ける思考はその言葉の意味を捉えていた。
生贄候補である私とアヤンさん無しで開かれていた儀式。別の生贄が、既に用意されていたとしたら。
「貴方が死んだら、誰が神殿を率いるというの、ティルダード」
「神殿の長など、誰でもできる」
「義兄と呼んだのは昔の名残。貴方が死んでも、私は泣かないわ」
「試してみる価値はあるだろう。元々、死に損なった身だ。君の姉の時に」
義兄。姉。つまり……雨姫様の姉の、配偶者?
「ティルダードは先代の雨姫――私の姉の夜伽役で、夫よ」
「まさか……先代の時も、儀式を」
「十年前にね」
十年前?
あの、母が死んだ旱魃の時に……今と同じ、雨姫の涙を流させようとする儀式があったのか。
「当時……生贄の候補は二人いた。一人は私。一人は、その前年に生まれた雨姫の子だ」
「子供……? っ、まさか」
先代の雨姫とティルダード様が夫婦で、子を成して――今、ティルダード様が生きてここにいるのなら。
そう思った私に、しかし、ティルダード様は首を横に振る……どこか、重たい仕草で。
「当然、子を殺すわけにはいかない。私は夜伽役として、その務めを受け入れた。だが……」
「……姉様は、儀式の前夜に自分の子を殺したの。その後、子を失ったことに耐えきれず、自らも命を絶った」
「そん、な」
「姉さまは弱かったのよ。子供と、ティルダード。どちらを喪っても、生きていけないと分かっていた……」
言葉がない。私たちが無邪気に信じていた雨姫という存在が血まみれであることを、受け入れたくなかった。
自分が生贄であることで頭がいっぱいだったが、考えてみれば当然のことだ。歴代の雨姫が旱魃を救うたびに、大切な誰かが死んでいる。
「本来ならば十年前に死んでいた身だ。君が泣かなくとも、俺は構わない。その時はシャイラ殿とアヤン殿に死んでもらうだけだ」
ティルダード様が手を振るうと、祭壇を取り囲んでいた〈水守り〉の戦士たちが詰め寄ってくる。
咄嗟にルフ様を庇うように抱く。
「シャイラ。私はいいから、逃――」
「逃げません。離しません。……耳を貸してください」
あの埃くさい倉庫の中で、私はアヤンさんに言った。雨は、どうにかします、と。その時は確信がなかったけれど、ひとつだけ考えていたことがあった。
「始まりは、疑問でした」
幼い頃、雨姫の伝承を母から聞いた時には何とも思わなかった。けれど母を喪い、孤児院で弟に語り聞かせる時にふと思ったのだ。
その疑問は蕾のまま頭の片隅に残り続け、たった今――雨姫様が私やアヤンさんのことを気遣ってくれていたと知って、物語として綻んだ。
「雨姫……初代の雨姫は、なぜ
初代の雨姫は、兄を亡くして、泣くことすら堪えていた。
兄を奪った砂漠を、癒すことのできない渇きを、苦しみ続けた飢えを、憎まなかったのか?
それらをもたらした精霊を、なぜ許せたのか?
母を失った直後の私には、無理だった。十年経ってなお渇きは消えはしない。ルフ様に手をあげてしまうほどに、
「雨姫が精霊に祈ったのは、雨ではなかった」
伝承に曰く。妹は、まず涙を止めてくれと精霊に願った。兄のくれた水を無駄にしないために、と。
精霊は泣くことを許し、そして妹は雨姫になった。
そこにある感情は何だ?
諦めか。
絶望か。
ティルダード様が言うように、真の悲しみ、なのか?
それとも――
「いいですか。真の悲しみが雨を呼ぶなどというのは、間違いです」
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