■風と、恋する乙女には敵わない

「整理……、整理しましょう」


 時間を稼ぐような心地で声を絞り出す。アヤンさんは小さく頷いた。


「儀式は明日。私たちは、捕まれば明日には……殺される」

「雨姫があたしたちのことを憎からず想ってくれているなら、それで雨が降るというわけだ」

「……死にたくは、ありませんし。雨姫様を、そんな理由で泣かせたくありません」

「全く同感だ。戦士が女を泣かせるのは矜持に反する」


 頷きかけて、胸がずくりと疼いた。


(……?)


 何だろう。何かが引っ掛かった。胸を締め付けるような、名前のつけにくい感情だった。

 胸に手を触れて、今は忘れろと言い聞かせる。


「幸い、ナーディヤのおかげで距離は稼げた。追手はかかっているだろうが、砂漠であろうとあたしのショールガに追いつける馬はいない」

「そう……ですね。神殿の方も、乾季で人手は足りないはず。理由も理由ですし、そう大々的には動けないでしょう」


 砂漠は広大だ。街を出てしまえば、しばらくは逃げられるはずだ。


「でも……」

「……君は躊躇うと思っていたよ」


 何故か苦笑された。


「慎重さ、思慮深さは君の美徳だ、シャイラ。だがあたしは死ぬわけにはいかない」

「アヤンさん……」

「戦士になり、群れを守る。ショールガと一緒に、東の果てまで駆ける。どちらの夢も、生きてこそだ。ついでに叔父をぶん殴らないといけなくなったし」


 軽い口調で話してくれているのは、きっと私への気遣いだった。夢。夢か。夢というほどのことではないけれど、私だってしたいことはあるし、死にたくはない。弟が立派な戦士になって独り立ちするまでは見守りたいし、読んでみたい古典や楽しみにしている作家の新作もたくさんある。


 何よりも――死ぬかもしれないと思っただけで、十年前のことを思い出す。水を得られなかった時のこと。動かなくなる母。渇いて張り付いたような口と喉。

 こくりと喉を鳴らす。もう二度と、あんな思いはしたくない。


「戦士は草原で出会った旅人を大切にする。精霊がもたらす縁だからだ。君が望むなら狼珂国まで連れていってもいい。ショールガは強い馬だし、あたしも漣沙国の案内人がいれば助かるからね」

「……ありがとうございます」


 頭を深く下げる。

 床を見つめて、自分の胸の内に答えを探す。黒くて重くて靄のような感情をかき分ける。


「……」

「……死にたくないなら、選択肢はないと思うけれど?」


 わかっている。死にたくない。でも、逃げ出したくもない。逃げてはならないという思いが、胸の奥にわだかまっていた。

 慎重に、精密に。ゆっくりとその思いを掘り出して、言葉にしていく。


「もし、私が逃げ出したら……」


 儀式は中断されるだろう。生贄がいないのだから。

 だが――中断されたままでいるかは、わからない。


 今年の乾季はもはや旱魃ザリチェと呼べるほどの厳しさだ。ティルダード様が儀式を行わなければならないと決意したなら、延期はしてもすぐに執り行われるだろう。

 生贄は誰でもいいわけではないはずだ。雨姫様と親しい人でなければならない。ナーディヤさんを生贄にしてしまうだろうか。


 あるいは今年は諦めたとしても、また新たな夜伽役があてがわれるかもしれない。


「……私は、逃げない」

「――正気か?」

「……う」


 正気かと問われ、思わず声が漏れた。この先には見てはいけない感情ものがあると直感する。それでも……向き合わなければならなかった。向き合わずに、生命惜しさに逃げ出せば、必ず後悔するとわかっていたから。


「私は……雨姫様を……泣かせたくない」


 それは本音だ。夜伽として泣かせておいて何を、と自分でも思うが。それでも、物語を聞いて涙するのと、親しい人を喪って泣くのでは訳が違う。


「泣いてほしくない」


 けれど、本音にはまだ底があった。

 見たくない、どろどろした底が。


、泣いてほしくない」


 ああ、なんて浅ましい。


「私以外の人間を想って泣いている雨姫様は、見たくない」


 愛と呼ぶには浅ましく、恋と呼ぶには暗すぎる。

 けれど、それが偽らざる本音だった。

 他人についての物語ウソばかり語ってきた私の、自分自身の想いだった。薄暗い、埃だらけの倉庫の片隅で口にするのは相応しいかもしれない、正気ではない……本当の想い。


「ふっ……」


 口を挟まないでいてくれたアヤンさんが、噴き出す。抑えた吐息は、すぐに弾けるような笑い声に変わった。


「ふふ、あはははははっ! っひい……」


 笑いすぎでは?


「いや、すまない。はぁ……ふふっ……シャイラ、君は思索の人だと思っていたが、情熱の人でもあったんだね。実に……愉快だ」

「……返す言葉もありません。我ながら浅ましいと思っています」

「浅ましい? まさか。情が深い、と表現すべきだ」


 ようやく笑いの衝動をおさめたらしいアヤンさんは、反動で脱力したように微笑む。その微笑みが柔らかく、優しくて、彼女の素顔を垣間見たような気がした。


「隣の群れの戦士から、こんな言葉を聞いたことがある。『風と、恋する乙女には敵わない』。さてシャイラ、恋する乙女だと自覚したシャイラ、君は?」

「……神殿に戻ります。儀式を止めさせて、雨は……どうにかします」

「くっ。傍若無人だな。どうにかする手立てはあるのかい? いつぞやに話した通りだ。私たちが仕事を果たさなければ、それは誰かを渇死させるのと同じだ。仕事の内容は少し変わってしまったが」


 アヤンさんの言は、正しい。

 本当に、生贄の儀式によって雨姫様が涙を流し、そして雨を呼ぶのであれば。私一人の生命で数え切れないほどの人を救うことになる。


 逆に言えば、私のわがままで数え切れないほどの人を渇かさせ、飢えさせることにもなる。

 だから私は、背筋を正して答えた。


。私は、私と、雨姫様の方が大切です」

「くっ、くく……全く、わがままで最低の結論だ」


 仰る通り、だった。わがままで最低で、けれど自覚してしまった感情が私を満たしていた。この衝動は止められない。

 アヤンさんが、ご丁寧に指先で私の手を示した。胸に抱き、爪が食い込むほど握り締めて震えている手を。


「傾国の女になるには、まだ経験が足りないようだね」

「武者震いというやつです。――恋って」

「ふむ?」

「もう少し、綺麗で、美しくて、切ないものだと想っていました」

「人に砂漠を渡らせるほどの感情が、たった一人に向くんだから。綺麗なだけではないだろうさ」

「……詩人ですね、アヤンさん」

「雨姫の夜伽だからね」


 ふふ、と微笑み合う。


「私はもう少し休んだら神殿に向かおうと思います。アヤンさんは狼珂国に帰るなら、東のプチャ水場リュサラを経由して……」

「待った」

「……は、はい?」

「君が一人で神殿に行ったところで、門番に捕まってお終いだろう」

「それは……まあ……どうにか……」

「全く、それ以上は卑怯者と謗るぞ。何故あたしに頼らない?」


 アヤンさんは真剣な表情で私を見つめ、睨む。

 言葉に詰まり、視線を落としてまた戻しても、こちらを鋭く見つめているままだ。


「ここまで連れてきてもらって……助けてもらってますから。私のわがままに巻き込むわけには……」

「わがままで儀式を中断させて、国中から恨みを買う立場になるのに?」

「うぐ。そうなん……ですが」


 やっぱり、優しい人だ。私の覚悟を問うてくれている。

 だから……助けて、とか、ありがとう、とか……喉から出かけた本音を飲み込んで、笑ってやった。


「……わかりました。アヤンさんも、どうか協力してください」

「見返りは」

「ありませんよ。

「…………ふ、っくく。嫌な女になったな、シャイラ」

「おかげさまで。お返事は?」

「いいだろう。あたしとショールガの力を貸してやる。全てが上手く行ったら、一生恩を忘れるな」

「もちろんです。良いお酒を奢りましょう」


 立ち上がる。外はうっすらと明るくなり始めていた。夜明けが近い。


 今日も、よく晴れそうだった。

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