■4章/7

 かたん、と扉の外で小さく物音がした。

 一瞬で真剣な表情になったアヤンさんが、静かに腰を浮かせる。私は吐息を乱さないようにぐっと息をつめて硬直するのが精一杯だ。


 緊張の数秒。

 ゆっくりと扉が開き、夜星石のランプの冷たい明かりが部屋を照らす。


「…………誰もいない?」


 ランプだけが床に置かれ、置いた当人はいなくなってしまったらしい。アヤンさんと二人、恐る恐る廊下を覗くと、暗い廊下には見張りなども立っていないようだった。きらりとランプの明かりを照り返す、アヤンさんの剣まで置かれていた。


「一体誰が……?」

「……とにかく抜け出そう。厩舎へ。ショールガが殺されていないといいんだが」


 鞘に巻かれた剣をベルトで手早く腰に留め、アヤンさんが歩き出す。ランプを掴んで、できるだけ足音を抑えて夜の神殿を歩いていく。

 一度だけ見回りの神官をやり過ごす必要があったが、遮られることなく厩舎にたどり着けた。暗い神殿の外れにある厩舎の前には、見覚えのある女性が立っていた。


「ナーディヤさん……」

「お早く」


 彼女が柵をあげ、アヤンさんの馬……ショールガという名前らしい……を出す。アヤンさんが馬の首を撫でる手つきは優しい。


「なぜ君が、手引きを?」

「雨姫様の指示ですか……?」


 訝しげなアヤンさんとすがるような私の問いに、ナーディヤさんは首を横に振る。


「私の独断です。問答の時間はありません、どうか」

「助かった。シャイラ、来い」

「は、はい」


 アヤンさんに手伝ってもらい馬にまたがる。前に座ったアヤンさんの体に腕を回し、しがみついた。駱駝には乗ったことがあるが、馬に乗るのには慣れていないし、人にしがみつくのも不慣れである。恐る恐る抱きついていたら、アヤンさんの真剣な声が降ってきた。


「もっとしっかり掴まれ。落ちるぞ」

「はいっ……」

 少しだけ背後に視線を向ける。こんな時でも、ナーディヤさんのお辞儀は完璧だった。


「落としても拾わないからそのつもりでいたまえ」

「が、がんばりますので、おてやわ――っぎにゃ!」

「あはは、口を閉じていないと舌を噛むぞ!」


 突然走り出した馬のお尻が跳ね上がり、がちっと歯が鳴る。口を引き結び、全力でアヤンさんの背中にしがみついた。腕をお腹に回してぎゅっと抱きつく。神殿の裏口から外へ出て、見慣れた街を風のように駆ける。


 馬の動きに合わせ、アヤンさんの身体に力が走っては抜けるのを感じる。腹筋は硬くしなやかだ。これが馬を巧みに操る狼珂国ロウカの戦士か、と身体が吹っ飛びそうな揺れの中でも感心してしまう。力強く地面を蹴る馬の力を、アヤンさんは制御し引き出していた。


「何処へ逃げる!?」

「東の、街はずれ、へ……!」


 舌を嚙まないように気を付けて、方向を指示した。

 夜明け前の暗い街を駆け抜けて、街外れへと向かう。朝日が昇る前に一仕事済ませてしまいたい人たちがちらほらいる中を駆け抜ける。明け方の停滞した空気を裂いて、風になったようで心地よかった。


「この辺りか?」

「はい、確かもう少し先に……ありました、あれです!」


 馬の歩調が緩む。石畳が砂に埋もれ、建物もちらほらと立っている程度の土地だ。記憶を一生懸命に掘り起こして目的地へたどり着いた。

 石造りの小さな小屋だ。作りは単純だがしっかりした扉が取り付けられている。馬からアヤンさんに下ろしてもらう。しがみついていた身体は強張って疲れ果てていた。


「ショールガ、よくやった。大人しく休んでいるんだよ」


 馬を労うアヤンさんの声は優しい。聞きながら、砂で汚れた扉を開いた。


「けほっ……」


 乾いた砂の匂いで鼻がむずむずする。


「砂と埃がすごいな。シャイラ、ここは?」

「ガーニムさんが使っている倉庫です。かさばる品物を商うことになった時だけ使うので、今は空いているんですが」


 部屋の片隅には丸められた絨毯や空の棚が積んである。埃が積もっていて、一歩歩くたびに舞い上がるが、少なくとも人目は避けられそうだ。外に馬を留めているのも、街外れならそう不自然でもない。

 低い棚の砂埃をできるだけ払い、腰を下ろす。窓がないので、埃っぽさは我慢するしかなさそうだ。


「ふ……ぅ」

「お疲れ様。よく落ちなかった」

「必死でした……連れてきてくださって、ありがとうございます」

「酒を呑み交わす相手がいなくなるのは困るからね。それで……これから、どうする?」


 アヤンさんは壁際の棚に寄りかかり、扉を睨む。

 暗い夜の中、馬を駆けさせた彼女の方が疲れているはずなのに、姿勢を崩さず警戒している。


「これから……」


 私の方は慣れない乗馬の疲れで、頭がうまく働いていない。

 ……いや、違う。考えたくないのだ。


 大きすぎる問題、重すぎる状況。何もできない可能性の方が高いのに、何かをしなければならない。その重さに立ち向かう勇気が足りていない。考えないように、目を背けている自分に気が付いた。

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