■4章/6
ようやく我に返った時、背に毛布が掛けられていることに気付いた。
『雨姫の気持ちなど、わかるものか』
静かな怒りに満ちたティルダード様の言葉が脳裏に反響し、思考するのをずっと邪魔していた。喉の渇きに無意識に唾を飲み込み、かすかな痛みで我に返った。
視線を巡らせると、アヤンさんが部屋中を検めている。
「アヤンさん……、ありがとうございます」
「目が覚めたか。聡明な君でも、何もできなくなるほど衝撃を受ける時があるんだね」
「聡明なんて……貴女は驚かなかったのですか」
「驚いたさ。そういう、どうしようもない心の動きと、身体の動きを切り離せるのが優秀な戦士というものだ。……しかし」
壁をこんこんと叩いていた手を離し、私の傍に来る。床にどっかと腰を下ろし、なぜか愉快そうに私の表情をのぞき込んでくる。痣がある顔は痛々しいはずなのに、彼女の場合は勇ましい美しさを増しているように見えた。
「君が驚いているのは事実ではなく、ティルダードの発言に思える。奴もまた雨姫を大切に思っている……それが裏切られたのが気に食わないか」
「……そう、なのかもしれません」
ティルダード様は雨姫様のことを大切に扱っていたし、逆も然りだと思っていた。嫌うというよりは、くすぶった怒りを露わにした感じだったが……。
「驚きと言えば、君の帰還にも驚いたよ。神殿を出奔したと聞いていたが」
「出奔というか……ええと、はい。色々ありまして、一度離れていて……」
「雨姫と痴話喧嘩して、実家に帰らせて頂きますと啖呵を切ったとか」
「はぇあ!? な、何ですかそれ!?」
「冗談だ」
「…………アヤンさん」
「すまない。場を和ませようと思って。そう睨まないでくれ」
「全くもう……」
おかげで思考の靄は晴れたが、お礼を言う気にはなれなかった。よりによって雨姫様と……痴話喧嘩などと……まだそこまでの関係ではないというのに……。叩いてしまった手のひらを握り締めて、罪悪感に疼く胸を押さえる。
「こほん。……ともあれ、生贄、とはね」
「……はい。ティルダード様が認めた以上、私たちは必ず殺されるということです」
秘密を露わにしたのも、私たちを生かすつもりはないという判断の現れだろう。アヤンさんは脱出の望みを捨てていないようだったが、私の方は諦めてしまっていた。決意でも、知恵でも、もちろん戦いになったとしても、ティルダード様と護衛の戦士には敵わないだろう。
唯一の救いを祈るとすれば。
「……このまま待っていれば、最期に一度くらいは、雨姫様に会う機会を得られるかもしれないことでしょうか」
せめて手を上げてしまったことは謝りたい。もう一度、雨姫様のために物語を語るような機会はないとしても。
私の発言の暗さに当てられたか、アヤンさんも溜息をこぼす。乾季の夜は寒い。毛布を分け合い、寄り添って暖を取る。
「…………」
「…………」
「……アヤンさんは」
「うん?」
「何故、
「ああ。……狼珂国は、いくつかの遊牧民の群れから成る。あたしの父は、群れの長だった。小さい頃に戦で死んで、今は父の弟……あたしの叔父が長をやってるんだが」
狼珂国、東に隣り合う草原と遊牧の国。行ったことはないけれど、人からは何度か聞いたことがある、広い草原を想像する。
草原の中を、馬を駆って駆けるアヤンさんの姿は、ありありと思い浮かべられた。
「あたしは小さい頃から戦士になりたかったし、群れの長にもなりたかった。どちらも男の仕事だと言われたが、バカにしてきた相手は叩きのめした。歴戦の戦士である叔父には勝てなかったけどね。……その叔父が、行けと言ったのさ」
「叔父さま……群れの長の方が?」
「狼珂国とこの漣沙国はいくつかの約定を結んでいる、いわば盟友の国だ。雨姫がもたらす雨の恩恵を受けている部分もある。その縁を結んで来いということだと思っていたが……」
ふ、とアヤンさんが吐息して笑う。苦笑というべき、力のない笑みだった。
「おそらく、叔父はうすうす知っていたんだろう。あたしが生贄にされることも」
「……そんな」
国と国の規模の話になってしまうと、私には実感が持てない。それでも、恵みの雨をもたらす力は、国全体にかかわるほどの重要なものなのだと理解した。
信頼していたであろう親族に、いわば騙されて送り出されたアヤンさんの心中を思うと、言葉に詰まってしまう。
「そんな顔をしてくれるな、シャイラ。長ともなれば、そういう冷徹な判断が必要になる時もある。群れを率いるとはそういうことだ。まあ――」
にやり、と牙をむき出しにするようにアヤンさんは笑う。
「国に帰ったら、落とし前はつけさせるが」
「流石です……」
笑い合ったその時だった。
かたん、と扉の外で小さく物音がした。
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