■断章


 白い寝所に、ため息の音が響いた。

 床に刻まれた溝をさらさらと流れる水は、ため息の音まではかき消さない。


 ため息の主……今代の雨姫、ルフは寝台の上で本の頁をめくった。天候学の本ではなく、各地の伝承を集めた本、〈談集かたりしゅう〉だ。

 視線は本へと落としたまま、傍に控えた侍女に声をかける。


「ナーディヤ」

「はい」

「…………ティルダードから何か連絡は来ていない?」

「先ほども申し上げた通り、特に何もございません」

「そう」


 しばしの無言。頁をめくる音だけが、寝所に響く。

 次に言葉を発したのはナーディヤだった。


「雨姫様。何か気になっていることがあるようでしたら、尋ねて参りますが」

「要らないわ」

「かしこまりました」

「……私が何を気にしていると思っているの」

「差し出がましいことを申し上げました」

「言いなさい」

「シャイラ様のことかと」

「…………」


 無言こそが答えだった。

 シャイラは隠し部屋から出た後、私室にも寄らず神殿を出たらしい。


 アヤンはシャイラのことを一度二度ルフに尋ねたが、それ以降は特に何も言わず過ごしている。

 『秘密』を知られたことについて、ティルダードに報告はしていない。いないが、シャイラの行動から勘づいてはいるだろう。


 ルフはもう一度ため息をこぼした。今度の吐息には、安堵の色があった。


(……彼女が離れていったなら、ちょうどいい状況だわ。彼女の……安全のために)


 もちろん『秘密』を打ち明けたのは予定外の出来事だ。だが、そろそろシャイラを遠ざける必要があったのは確かだった。

 アヤンはまだ距離がある。適切な距離を保とうとする努力が感じられていた。シャイラは、……そうではなかった。だから、ルフにとってこの状況は好都合だと考えていた。


 その知らせが舞い込むまでは。


『雨姫様』

「……入りなさい、ティルダード」


 重い扉が開き、ティルダードが寝所に入る。後ろには護衛の戦士を控えさせていたが、戦士は扉の外で待機した。

 白を基調とした服を身に着けた神官長は、同じように白を纏った雨姫の足元に跪く。


天幕の下にカナ・ハイヤ、ご報告がございます」


 『天幕の下に』は、余人を介さず秘密を伝えたいという表現だ。


「小娘を相手に大げさなこと。ナーディヤ、下がりなさい」

「……かしこまりました」


 頭を下げ寝室を出る侍女を見送り、扉が閉じられた瞬間にティルダードが告げる。


「各地の神殿からの報告を取りまとめました。乾季が厳しく、国内の主要な井戸は半数が涸れました。残った半数のうちの半分も、来週には尽きる目算です。水場リュサラの水は、概ね十の内の四ほど」

「言いたいようだから聞いてあげる。……どのくらい、死ぬ?」

「この先一度も雨が降らなければ、十人に五人、と推測しています」

「……そう」


 ルフの唇が、吐息交じりに辛うじて声を紡ぐ。神官長の常と変わらない冷静な表情に、追い詰められるような感覚をルフは覚えていた。錯覚と断じることもできない。


(この男には、雨姫わたしを責める権利があるのだから)


 心の声が聞こえたわけではなかろうが。ティルダードは数瞬の沈黙の後、居住まいを正して告げた。


「精霊の加護篤き雨姫へ、神官の束ねたるティルダードが奏上する」

「……聞こう」

「儀式を執り行い、民に雨をもたらしたまえ」


 びくりと、ルフの小さな身体が震えた。

 押し隠せないほどの、動揺の証だ。


「儀式は……、……未熟な私には、まだ、無理よ」

「それでも、執り行っていただく。――貴女の夜伽役は確保してあります」

「っ、ティルダード!」


 もはや結論は出たとばかり、ティルダードは立ち上がってルフへと背を向けた。一度も立ち止まることなく寝所を出ていく。


「待ちなさい……待って――義兄にいさま!」


 ルフの叫びは、重い扉に遮られて届くことはなかった。 


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