■4章/1

 黄玉の月から橄欖石かんらんせきの月を経て、翡翠の月へ移り変わってしばし。あの隠し部屋の夜から、二週間ほど。


 私は、神殿ではなく市場の片隅にある自室で転がっていた。

 神殿に与えられた私室は散らかしっぱなしのまま、夜のうちに神殿を出た。それ以来、神殿には近付いていない。


 雨姫様に対してあれだけのことをしたのだから、戦士がやってきて捕らえられるかもしれないと思っていた。実際は伝言のひとつもなく、日々を過ごしている。

 ガーニムさんは厳しくなる乾季を避けて、親類がいる水場リュサラへ向かった。他にも都市を離れる者は多く、市場の喧騒は半減というところだろうか。


「は……ぁ」


 寝台から身を起こす。古道具屋の仕事も夜伽の仕事もない日々は、油断すると無為に過ぎ去ってしまう。


「今日は……紙を、売りに……行かないと」


 考えの整理に使っていた紙は、神殿の私室に置いておくとすぐに積み上がって邪魔になるので、一旦この部屋に置いてあった。削るとごみが出るので神殿でやるわけにもいかないし。

 渇きのせいか重い身体を引きずって、のっそりと椅子に移る。朽ちかけを安く譲ってもらった写本台に羊皮紙を張り、短剣を当てて羊皮紙に記した文字を削り取り始めた。


「……」


 しゃ、しゃ、と刃を滑らせる。質の良くない羊皮紙はごわごわとしていて刃が引っかかり、力加減や角度を間違えると穴が空いてしまう。そうなるともちろん買い叩かれる。紙屋のドゥリヤさんは恐るべき文字好きであると同時に、容赦のない商売人でもある。

 だから、丁寧に。不器用なりに、時間をかけて。私のぐちゃぐちゃな思考をそのまま書き出したような走り書きを削り取っていく。


「…………砂漠を渡る、恋人」


 恋する男女の文字を見て、最初の夜伽で語った物語を思い出す。それを聞いてくれていた雨姫様の表情も。振り払うように文字を削り取る。


 恋人たちの手紙を運ぶ青年。削る。


 謎を解く賢者と三つ子。削る。


 舞姫と衣装係。削る。


 戦士の少年と、魔女の少女。……削ろうと当てた刃が止まる。


(もし……勝手に、内容を変えなければ)


 あの夜に語ったのは私が勝手に変えてしまった結末だ。魔女の少女は砂漠を出て、砂へと変じてしまう。戦士の少年は助かったが、少女はもういない。

 伝承では、魔女の少女は今までに知り合った人々の助けを得て少年の元に辿り着く。そして、魔女の力は失いながらも少年を助けるのだ。そして末長く共に暮らす。大元は魔術使いや占い師が多いストハ氏族に伝わる伝承で、自身も魔女だという鳴弦ウードのシルナ・ベフ・ストハが編纂した物語のひとつだ。


 鳴弦のシルナが語った通りに、少女が生き残る物語を語ったら、どうなっていただろう。雨姫様は涙を流さず、私は疑念を抱くことなく……あの夜の隠し部屋に至っても、冷静に話し合うことができただろうか?


 頬を叩いた左手の掌を見つめる。


「……ごめんなさい」


 言葉が羊皮紙に溢れた。自分勝手な謝罪の言葉だ。

 二週間経って、燃えるような怒りは流石に収まっていた。後に残ったのは炭のように燻る怒りの残滓と、吐きそうなほどの後悔、そして少女に対する申し訳なさ。


 雨姫様が一人で嘘をついていたはずがない。歴代の雨姫と、恐らくは神官の長たちが偽りの主であり、今代の雨姫様はそれを継いでしまっただけに過ぎない。

 それに、漣沙国レンシャを保つためというのも真実だろう。雨姫の存在ゆえに民は不安少なく暮らすことができ、他国からも一目置かれて多くの人が訪れる。


 理解はしていた。だが、怒りの火は燻ったまま消えない。嘘の末端に置かれた少女が哀れだった。だが、許す感情には至らない。


「……どのみち、もう会うことはないでしょうけれど」


 ため息と共に嘯く。

 真実を知ってしまった私が放置されている理由はわからない。市井の女が何を言っても信じられるわけもない、というところか。それでも神殿に近寄ろうとは思わないし、神殿には流石に入れてはもらえないだろう。


 気を取り直し、短剣を握る。刃を紙に当てて、文字を削る。雨姫様のために思考した跡が消えていく。


(雨姫様の、ために?)


 苦笑する。自嘲の感情を胸に突き刺す。

 アヤンさんと酒を飲み交わした夜までは、そうだったかもしれない。でも、戦士と魔女の結末を変えて語ったのは、明らかに雨姫様のためではなかった。


 私はあの少女を、雨を降らせるだけの存在として扱おうとしたのだ。

 嘘を詰る資格などない。


「……消えて」


 いっそこの数ヶ月の記憶も消えて欲しいと願いながら、短剣を動かし続けた。

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