■3章/5
「……っ、シャイラ?」
跳ね起きた雨姫様が私の名を呼ぶ。どこか乾いた声は、寝起きだからというだけではないのだろう。視線が動き、無言で立ち尽くす私と、机の上に広げられた本を見比べる。
諦めたように囁いた。
「見たのね」
「…………、はい。雨姫様……これは……」
言葉が見つからない。ただ無様に狼狽えて発した声が何を言いたいのかを、問われた雨姫様の方は正確に理解したらしい。微笑みを浮かべ、頷く。その笑みはどこか冷たい。
「見ての通り。天気についての学術書よ。多くは西方の賢者がまとめたものだけれど、砂漠の国でも参考にはなる」
「あ……そう、そうでは、なく」
「わかってる。聞きたいのは、これでしょう?」
雨姫様の白い指先が、自らの瞳を示す。目尻から頬にかけて指を滑らせて、涙を表現してみせた。
揶揄われているのか。嘲笑されているのか。ふつふつと胸の奥に熱いものが込み上げてくる。苦しくて胸を押さえ、掠れた声を絞り出した。
「あなたは……雨姫様……あなたには……」
止めろ、と誰かが叫んだ気がした。誰かではない、私だ。私の心のどこかが、それを聞いてはいけないと叫ぶ。私の別の部分もまた、今こそ問えと叫ぶ。理性と衝動の天秤は、あっさりと衝動に傾いた。
「あなたには、雨を降らす力など、ないのですか」
「ない。雨姫の涙なんてものは――ただの、嘘よ」
ああ……。あっさりと帰ってきた答えに、私は思わず笑い出しそうだった。体が震え、吐息が揺れる。笑いの発作以外の何物でもなかった。愉快すぎて、涙まで溢れてきた。鼻の奥に痛みの匂いがする。
笑い声のせいか、喉が詰まる感覚を押して、声を絞り出す。
「騙していたのですか。私を。民を」
「そういうことになる、わね。
雨姫様も笑っている。冷たく、人形のように。
「……初代は、おそらく本物よ。けれど代替わりするたびに雨姫の力は弱まっていった。ヒトの側に原因があるのか、精霊が離れていったのか、誰にもわからないけれど。今の雨姫にあるのは、僅かに残された因果だけ――雨が降る前に涙がこぼれる、という程度の」
因果。逆だというのか。涙が雨を降らせるのではなく。自然に降る雨が、涙を呼ぶ。
それなら、夜伽の日を雨姫様から指定されたのは……
「そう。翌日に雨が降りそうな機会を選んで、呼んだの。それ以外の日は悲しい物語は避けさせたり、ね。あなたは強敵だったわ、シャイラ。知っている物語なら耐えられても、全く知らない物語をとても上手に語ってくれるのだもの」
褒められた、らしい。
わからない。本当にこの少女は雨姫様なのだろうか? 悪い妖精が化けて、私を騙そうとしているとか? 胸が苦しいほど鼓動が跳ね回り、頭が内側から叩かれているように痛い。
耳元で囁かれたかのように、母の言葉が鮮烈に蘇った。
『大丈夫。いい子にしていたら、雨姫様が助けてくれるからね』
そう言って、母は死んだ。母が死んで三日後、私と弟が死ぬ直前に雨が降った。
どうして、と思った。どうしてもう少し早く雨を降らせてくれなかったのか。母は雨姫様を信じていたのに。
理不尽な言いがかりだとわかってはいた。孤児院に入り、渇きを感じるたびに思い出す怒りを、仕方ないと宥めてきた。そうしていつの間にか忘れたと思っていた怒りが、十年前の熱さをそのままに噴き出した。
「ふざけないで!」
聞くに耐えない金切り声が、狭い隠し部屋に響いた。視界が涙で歪む。澄ました表情のままの少女へ、感情をぶつけることしかできない。
片手に握ったままだった本を取り落とし、開いた手のひらで少女の頬を打った。
白い頬に、はっきりと紅い痕が刻まれる。
「信じて、いたのに」
涙と、吐き捨てた言葉を残して、私は隠し部屋から逃げ出した。
呼び止める声はなかった。
▼
翌日、雨が降った。
激しい雨は朝から昼頃まで降り続き、乾季に喘ぐ人々を僅かに癒した。
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