■2章/6


 市場の夜は、昼とは異なる趣で賑やかだった。


 酒場通りを中心に、かがり火が多く焚かれて、日は落ちているのに夕方のように明るい。買った者、売った者、いずれもが快哉を叫んで杯を交わす。

 普段は日没のヒュールで露店は引き上げてしまうし、女ひとりで酒場に行く用事もないから、私にとっても新鮮だ。


 そこかしこから楽器や歌声が聞こえてくる。よく通る女の歌と、騒ぎ立てる酒飲みたちの声。調子はずれの、野太い歌声。騒がしくも楽しげな空気の中を少し歩いて、目的地にたどり着いた。


「〈銀白砂糖〉劇団の公演です」


 市場の片隅にある広場が幕で区切られ、多くのかがり火で彩られている。幕をくぐれば、一段高い舞台を観客が囲んでいた。

 舞台の中央にはまだ誰もいない。舞台の奥に楽器を持った人たちが何人かいて、穏やかな音楽を鳴らしている。


「少し端の方へ行きましょう」

「ええ」


 雨姫様の顔を知っている人はいないと思うが、念のため。視界に入りにくい位置に寄っておく。

 音楽の様子が変わり、徐々に拍子が早くなってきた。その音が最高潮に達した瞬間――


「わ」


 漏れた声は、誰のものだったか。雨姫様だったようにも思うし、私も声を出していたと思う。観客の多くが声を上げていた。

 舞台に突然舞い降りた、美しい女性。艶やかな赤髪を長く伸ばし、ひらりと靡く布を従えて、舞台の上を跳ねた。


 褐色の肌をほとんど露わに、舞姫は踊る。拍子に合わせて跳ねては回り、腕を振るえば色鮮やかな布が動きを追う。まるで美しい影のようだ。

 かと思えば突然緩やかな動きになり、美しさを見せつけるように身を揺らす。白い、透けた布を中心とした衣装は、夕闇に映える。輝いて見えるのは金か銀の粉を撒いているのか。同性の私ですら息を呑んでしまうほどの色香に、思わず雨姫様の様子を伺う。


「…………」


 雨姫様の白い頬が、かがり火の色合いを考慮しても、紅潮して見えた。口元が少しだけ緩んで、舞姫の踊りに見惚れている。

 恋はできない。雨姫様はそう言った。理由は結局わからないままで、聞けていない。最初の夜の冷たい笑みを思い出すと、聞くのがはばかられたのだ。


 でも、きっと。

 彼女が恋をしたら、こういう表情をするのだろうか、と想った。


「――!」


 声が重なり音となる。舞姫が煽るように腕を振ったのだ。彼女が手振りで楽器を演奏している人たちに何かを伝えると、音楽の調子がまた変わった。今度は楽しげな、それこそ酒場で聞くような陽気な音。舞姫が頭上で手を打ち合わせるのに合わせて、観客たちも手拍子を打つ。

 拍子に合わせ、否、拍子と音楽を先導して、踊り子が跳ねる。跳ぶ。躍動する。風の精霊ジンが実際に見えたら、こんな感じだろうか。


「綺麗……」

「……はい」


 雨姫様の呟きに、こくと頷く。

 踊り子が魅力的な笑顔を観客へ向ける。物語の踊り子が、衣装係へと向けた笑顔も、あのように輝いていたのだろうか。

 あとはただただ、踊りに視線と心を奪われていた。



 公演自体は小一時間といったところか。

 激しい踊り、穏やかな踊り、誘うように艶やかな踊り、複数の踊り手が並ぶ目まぐるしくも美しい踊り……夢のような時間はすぐに過ぎ去ってしまった。


 幕の外に出るよう促され、観客たちが心ここに在らずな様子で帰路に着く。

 私たちも通りを出て、帰りの馬車に向かった。


「……すごかったわね」

「はい……。私も小さな頃見たことがありましたが、その時よりもずっと、……すごかったです。どうやって表現すればいいのか……」

「宴で踊るのはあたしの国でも変わらないが。芸として仕上げるとああなるとは、見事だったね」


 三者三様の感想を交わしながら、薄暗い道を歩く。かがり火も減ってきていて、夜通し盛り上がるお店以外は、街は眠りにつく時間だ。

 アヤンさんが舞台の余韻に浸りながらも、視線をさりげなく巡らせて周囲を見ていることに気付く。私が市場でわたわたしていた間も、きっとこうして守ってくれていたのだろう。


 ふと、歩く足を緩める。


「……シャイラ?」

「お嬢様、……楽しかった、でしょうか?」


 その問いは――夜伽役として役に立っていたい、という理由だけではなかった。

 知りたかったのだ。神殿から十年出ていなかったという少女が、私の物語をきっかけに、私と共に遊びにでかけて、楽しいと思ってくれたのか。

 震える声の問いに、果たして、雨姫様は小さく頷いた。


「ええ。とても」

「……っ、では……。一つ……褒美を、いただけませんか?」

「褒美?」

「くく。やるじゃないか、シャイラ? ……では、あたしは少し離れていようか」


 アヤンさんは愉快そうに笑って、馬車の方向へ離れていく。暗い道に二人きり、砂を踏む音をわずかに響かせて、雨姫様と向かいあう。激しい踊りを見ている時のように、心臓がとくんと高鳴った。

 雨姫様は……普段通りの表情に、少しだけ楽しそうな色を浮かべて、私を見つめている。


「何が欲しいの?」

「……はい」


 息を吸う。吐く。吸う。


。……教えていただけませんか」


 雨姫様の小さな体が少し震えたように見えた。瞳が地面を向く。唇が何かを言おうとして開き、そして閉じた。

 何らかの事情があるのだろう、駄目で元々である。断られるだろうと思っての問いだ。けれど……はっきりと断られるまで撤回しない程度には、本気の問いだった。


 数秒……数十秒。


「ルフ」

「……え?」

「ルフ。それが、私の名前」


 雨姫様――いえ。ルフ様は静かに、名を告げた。


「ルフ……さま」

「そう。この名を口外することを禁じます。一人の時であっても、決して口にせず、紙にも記さないこと。特に神殿の中では。いいわね」


 そう告げるルフ様の表情は苦しげで、何というか、今まさに後悔し続けているような印象を受ける。嫌、ではなく、言ってしまった、のような。

 やはり、何かの事情があって名を秘しているのだろう。ある種のまじないにおいては、名前が重要になることもあると聞く。精霊の加護を受ける雨姫ともなれば、その名自体に力があってもおかしくない。


「わかりました。決して口外しないと精霊に誓います。……ただ、その、ええと」

「……何?」

「神殿の中でも……となると、お呼びする機会が、全くないのですが……」

「それでいいの。貴女はあくまでただの夜伽役。友人ではないのだから」

「はい……」

「…………」

「…………」

「……、わかった。私が良いと言った時だけは呼んでいいから」

「ありがとうございます!」


 何やらため息をつかせてしまったが、名を呼ぶ機会を与えられた喜びは抑えきれなかった。実際にはその機会が来なかったとしても、満足だ。


「これからも。夜伽役として、誠心誠意お仕えいたします、…………」

「……はぁ……。……いいわよ」

「ルフ様」


 万感の思いを込めて呼んだ名は、どこか甘い響きがした。

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