■2章/4
十日後。
「わぁ……凄い人。市場にはいつもこんなに人がいるの?」
本当に、市場へと出かけることになりました。
「ぜ、ぜぜ、絶対に離れないでくださいね! 迷子にでもさせたら私、私……」
市場を望む、片隅の空き地。震える声で言い募る。
寝所で話した『舞台と市場を見に行く』という雨姫様の言葉は本気で、私はその準備に奔走することになった。幸いティルダード様の許可はあっさりと得られて――『神殿に縛り付けているわけでもない』とのこと――お忍びの馬車まで貸してくださった。
今日の雨姫様は美しいだけでなく、可愛らしい。いつもの白い衣服ではなく、町娘風の、足元が大きく広がった服だ。胸元から腰に掛けて、赤い文様が縫いこんであるのが目を惹く。髪には葡萄酒色の
「わかっているわ。私も神殿から出たことがないわけじゃないんだから」
「そう、なのですか?」
少しだけほっとする。お忍びでも外に出たことがあるなら安心でき――
「ええ。出るのは十年ぶりだけれど」
言葉をなくし、雨姫様を見つめるしかなかった。多分、ものすごく間の抜けた表情をしていたと思う。
十年。まだ成長途中の少女にとって、神殿から出ない期間の方が長いのではないか。十年前と言えば、母を亡くした私と弟が孤児院に入った頃だ。紆余曲折あってガーニムさんのお店に世話になり、そして雨姫様と出会った十年間を、雨姫となった少女は神殿の中で過ごしたのか。
確か、先代の雨姫であった姉を亡くしたのもその頃だろう。何と言うべきかわからないまま無言でいると、ぽんと背を叩かれる。
「ふふん、君は心配性だね。あたしが見守っているから安心したまえ」
「笑い事じゃないんです! そもそも、何でアヤンさんがここにいるんですか……!」
アヤンさんは
あまつさえ髪布も巻かず、いつもの茶色い髪飾りを前髪に揺らしていた。
「あたしは護衛だ。ほら、剣も持っている」
少し透けた黒の肩掛け布。その下に短剣を吊っているのを見せてくれる。
「ティルダードから声を掛けられてね。無論、雨姫の許可もいただいているが」
「……そ、そうなんですか?」
「ええ。アヤンも夜伽役なのだし、腕前は確かだというから」
「神殿の戦士たちであたしが勝てないのは……ティルダードの護衛くらいだな」
雨姫様が良しとするならば、否やはない。何やら自慢げに短剣を叩くアヤンさんへ、不承不承頷いて見せる。
「ともあれ、行きましょう。雨姫様」
「ええ。……ところで、シャイラ」
「は、はいっ?」
「呼び方。市場の中でもそう呼ぶつもり?」
「あ……」
全く考えていなかった。変装までしているお忍びの雨姫様をそう呼ぶわけにはいかない。
「……雨姫様、お名前を……伺っても、不敬には当たりませんか……?」
恐る恐るの聞き方になったのには理由がある。
「シャイラ。歴代の雨姫の名前を、一人でも知っている?」
……そう。雨姫の名を、民は知らないのだ。
私も幼い頃、母に尋ねたことがある。答えは確か、『雨姫様は雨姫様よ』だった気がする。雨姫は常に一人しか存在せず、過去の雨姫に言及するときは『二代前の』とか『私が子供の頃の』などと表現する。
それで足りていたし、そういうものだと皆認識している。名を問うことが不敬かどうかもわからないくらいに。
「別に、不敬というわけでもないけれど。雨姫は、雨姫である、っていうのが神官の決まり文句ね」
「複雑なのだね。とはいえ、呼び名がないと不便だろう」
アヤンさんの言葉に頷く。市場は常に混み合っているが、今日は特に人出があるはずだ。雨姫様は小さくて可愛らしいので、人込みに紛れてしまうかもしれない。
「そうね……じゃあ……、お前、とでも呼ん」
「呼べるわけないじゃないですか!?」
「うーん、流石のあたしもそれは呼びにくい」
二人がかりで止めた。雨姫様が若干むくれた気もしたが、流石に無理である。
「じゃあ何と呼びたいの」
「ええと……ひ、姫様、とか?」
「ほとんど変わらないじゃない」
「愛しの君、はどうかな?」
「市場でそんな呼び方をしたらものすごく注目されてしまいますよ……」
「妹、とか……」
「絶対に嫌」
「申し訳ありませんっ……!」
「お嬢様、でどうかな」
アヤンさんの意見に、私と雨姫様が頷く。ご令嬢とお付きの者というわけだ。実際の関係性に近いし、そこまで目立ちもしないだろう。
「では……お嬢様。参りましょう」
「ええ。案内よろしくね、シャイラ」
「今日は何か特別な日なのかな? 先日買い物に出た時、そんな噂を聞いたが」
「はい。少し前に、東から大規模な隊商が到着したんです。お祭りほどではないですが、大きな隊商が付くと人も売り買いも増えますし、そうするとお酒や娯楽も盛り上がりますから。市場の言葉で言うところの、『金貨に翼』な状況ですね」
乾季前の最後の大商いとなるだろうし、たくさんの金貨銀貨が飛び交っていることだろう。夜には大小様々な演し物が催される時期でもある。
雨姫様の要望は『踊りが見たい』。ガーニムさんや市場の知り合いにも聞いて、舞台の目星はつけてあった。もちろん、あまり淫靡ではない雰囲気の、だ。
「…………」
「シャイラ? 顔が赤いけれど」
「少し暑くて。ふふ。お嬢様は大丈夫ですか?」
「問題ないわ」
市場の知り合いに『いい人と行くのかい? シャイラちゃんもついに、かぁ』と言われたのを思い出したのは関係ない。
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