■風と土に感謝を

 木の実を殻のまま鉄鍋に入れて、塩を振りかけながら強めの火で炒りつける。堅い殻に軽く焦げ目がついて香ばしい匂いがしてきた頃合いで鍋から上げ、ツィネの樹の大きな葉で包んでおく。

 日持ちが良く、料理の材料にも酒肴にもなる炒り木の実は、私の好物だ。


「へぇ。こいつはいいな、香ばしくて。君が作ったのか?」

「市場で買ったんですよ。『鍋は大きく、火は強く』が大事だそうで、自分では中々この味が出せませんから」

「料理人、か。市場には本当に色々な職人がいるものだ」


 お酒のご相伴に預かることになり、アヤンさんの部屋を訪れていた。革袋から、小さな杯に酒を受ける。

 部屋に椅子はなく、大きな絨毯が敷いてある。その中央に腰を下ろし、一回り小さな麻製の敷物に酒と炒り木の実を置いて向かい合った。


「……狼珂国では、お酒の前の祈りはどのように?」

「宴の目的によっても変わるが。祈りと言うなら、こう」


 革袋を傾けて指先に一雫、酒を垂らす。透明な雫を払うように指を振り、絨毯に散らした。ただ雫を落とす仕草ですら、様になる。

 しなやかで長いアヤンさんの指は、その内側にいくつもタコが潰れた跡があった。


「風と土に感謝を」


 女性にしては少し低い声が厳かに響く。

 酒杯を視線の高さに持ち上げて……これは漣沙国のやり方……続けた。


「風と土に感謝を」


 微笑むアヤンさんと共に杯を傾ける。

 鼻に抜ける少し甘い香り。舌にはぴりっとした刺激がわずかにあり、飲み込む喉が熱くなる。確かに上質の蒸留酒アラックだ。


「おいしい……」

「こちらの酒は透明なんだね。中々刺激的な味わいだ」

葡萄アングール棗椰子デーツのお酒は濃い色をしてます。庶民は蒸留酒よりも、そちらを呑む方が多いかも。狼珂国ではどんなお酒が?」

「よく呑むのは乳から作る酒かな。特に馬の乳酒は旨い。仔を産む時期しか作れない逸品だ」

「噂には聞いたことがありましたが、本当に家畜の乳からお酒を作るんですね……」


 アヤンさんが前髪につけた茶色の髪飾りを撫でる。共に酒を傾け、炒り木の実の殻を割って中身を齧りながら、しばしお酒について談義する。あまり酒精に強いわけではないので控えめに、喉が焼ける味わいを楽しむ。炒り木の実はほのかな塩味とほくほくした触感が酒に合う。


「ところで、シャイラ。今日のお勤めは上手く行ったのかな」

「……はむ」

「くく。警戒しながら木の実を喰っていると、栗鼠のようで可愛らしいよ」

「可愛くありません。……楽しんでもらえたとは、思います」

「今日はどんな話を?」

「賢者と三つ子というお話で……」


 楽しかった、と言ってくれた雨姫様の軽やかな声を思い出す。いつも通りの調子ではあったけれど、お世辞を言うような人ではない。

 不安になるのはむしろ失礼だ。杯を握り締めて答える。


「流石だね。君の語りは中々のものだと聞いている」

「はあ……どなたがそんなことを?」

「神官たちが噂していたよ。私にも聞かせて欲しいものだ」


 ため息が酒に落ちた。明らかに噂が独り歩きしている。

 理由はわからないでもない。何しろ今の私は、『吟手うたいてでもないのに、物語を武器に雨姫様の夜伽となった女』だ。ティルダードさまは夜伽のことを公表していないが、神官の方々は存在を当然知っている。さぞ興味深いだろう。


「……雨姫様が認めてくださっているのですから、有難いことですが。私は素人ですから、まだまだです」

「向上心は名馬にも代えがたい資質だ」

「貴女は、どのような夜伽を? アヤンさん」


 話を逸らすため……というわけではないが。こちらを観察するような、鋭い黒瞳の視線に暴かれてしまう前にと、矛先をアヤンさんへ向ける。

 アヤンさんは酒杯をゆっくりと傾けて酒を味わう仕草を見せた後、悪戯っぽく笑った。


「気になるかな?」

「……とても気になります」

「素直でよろしい。とはいえ、していることは君と同じ。語り聞かせ、だよ」

「貴女も物語を?」

「そう。狼珂国の戦士は、言い伝えを守る者でもある。語り部としての実力は……婆さんたちには敵わないが」

「言い伝え……それでは、狼珂国の伝承や昔話をお話しているんですね」

「ああ。こちらでいう氏族と同じようなもので、群れ毎に言い伝えがある。戦士は他の群れとも交流をするからね。恐らくは……」


 黒い瞳が窓を向く。見ているのは窓の外、良く晴れた夜空だろうか。


「……君とは異なる系統の言い伝えが欲しかったんだろうね」

「雨姫様は、私の知っている物語の多くをご存知です。貴女の方が……いわば、主役、なのでしょう」

「かもしれないな。とは言え、あたしはまだ仕事を果たせていないわけだが」

「……え?」


 きょとんとしてしまった。

 彼女が夜伽に呼ばれたことは知っている。監視しているわけでもないから正確な回数まではわからないが、私と同じ程度の回数、あの寝室を訪れているはずだった。

 アヤンさんは愉快げに笑う。ちろり、唇を舐める舌が艶やかだ。


「君もティルダードから任命されたのかな」

「そう、ですが」

「なら聞いただろう? あたしたち夜伽の役目は……」


 思い出す。ティルダード様の冷徹な声。あの時、彼はこう言った。


「『雨姫に侍り、無聊を慰め、涙を流させよ』……」

「ああ。だ。君は一度果たしたが、あたしはまだ。一度は惜しかったのだけれど、ね」

「そんな……それは……」

「違う、と思っている?」

「…………、いいえ。貴女は、正しい、けれど。涙の前に……無聊を慰めることこそ、大切だと……」

「甘い」


 鋭い声が胸に突き刺さる。アヤンさんは笑みを消し、干した酒杯を置く。黒い瞳がはっきりと私を捉え、言い訳のような声を出すことを許さない。

 盃を握り締める。


「雨姫の涙が雨を呼ぶ。彼女が泣くことで、誰かの生命が繋がるなら……夜伽役が仕事を果たさないのは、誰かを渇死させるのと同じだ」

「そんなことはっ!?」

「ない、と言えるかい?」


 静かな問いと鋭い視線が、私の喉を詰まらせる。まるで喉を掴まれているかのように、口を開いても吐息も出ない。


「……狼珂国の南西は砂漠に接していて、漣沙国ほどでなくとも乾季は厳しい。羊が食う草が足りないくらいならまだいい。人の飲み水すら涸れて、友である馬を…………、その血を、飲んだことも……ある。雨は必要だ。だから、あたしはここにいる」


 アヤンさんの声は、どうしようもなく乾いていた。

 旱魃ザリチェ――雨が降らず、水が足りない状況――を経験した者の声は、そうなることがある。

 きっと、私も。


「でも……でも。雨姫様は……まだ、幼い……」

「だから夜伽役われわれがいるんだろう? 彼女の涙を引き出すために」


 白い衣をまとって寝台にしどけなく座る少女を思い浮かべる。

 そのあどけない姿を覆うように、砂色の思い出が脳裏を侵食する。


 喉の渇き。灼熱の太陽。苦しそうな弟の泣き声。撫でてくれる母の手。大丈夫、と囁く掠れた声。いい子にしてたら雨姫様が助けてくれるからね。喉の渇き。腹を押さえても収まらない餓え。母が水袋を差し出す。弟が水を含んで泣き止む。シャイラも、と差し出される水袋。母の喉も渇ききっているとわかっていて、私は――。


 首を振って記憶を振り払い、アヤンさんを真っ直ぐ見つめ返した。


「私は、……おそばに、侍ります」

「ああ。君はそれでいいのだろう。また呑み交わしてくれ」

「……考えておきます」


 上質の蒸留酒、杯に残った透明な雫を一気に飲み干して、立ち上がる。

 私室に戻っても、水を飲む気にはなれなかった。焼け付くように熱い喉をそのままに、寝台に身を投げ出した。

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