■太守の部屋


太守エミルの屋敷の秘密の部屋」

「えっ」

「新たに妻となった女が、決して開けるなと言われた扉を」

「あの」

「夜、ろうそくの明かりを頼りにゆっくりと開くと……」

「や、やめてくださいっ!?」

「本当に苦手なのね」


 何事もなかったかのように歩き出し、また別の花を愛でる雨姫様。

 私は熱い顔を薄雨に触れさせて冷ましながらついていく。


「雨姫様は……物語に、お詳しいのですね」


 『太守の部屋』も〈談集〉にまとめられた一篇だし、その引用も的確だった。怖かった。

 雨姫という、伝承の最先端にいる立場として、必要な知識なのかもしれない。


「詳しいつもりはないけれど。本を読むしかすることがない日もあるから」

「な、なるほど」


 雨姫様の生活。気になるけれど、あまり根掘り葉掘り聞くのも憚られる。

 やはり神殿の中だけで生活しているのだろうか。雨姫という立場は唯一無二であり、この漣沙国で最も重要な存在だ。警備の都合もあるだろう。精霊を信仰するうえでの戒律に、我々のような一般市民とは違うレベルで縛られているのかもしれない。


 あの、白く清らかな寝所の中に、一人でいる雨姫様を想像する。扉には見えない戒律の鍵。窓の外に一瞬だけ視線を向けては、その遠さに顔を伏せる。寝台の上でただひとり、古い〈談集〉の頁を捲ってわずかな慰みとする少女。

 恋の物語を読み、あの冷たい微笑で言うのだ。



雨姫わたしにできないことだから――』



「……シャイラ」

「っふぁい!」

「今、妙なことを考えていなかった?」

「いえ……まさか……そのような、ことは、はい。雨姫様は知識も深いのだと感じ入っていました」


 危なかった。また妄想が止まらなくなるところだった。

 さておき、雨姫様が物語に詳しいというのは間違いないようだ。吟手うたいてでもなく、学者でもない私よりも、むしろ広く知っているかもしれない。さすがは雨姫様だ。


 問題は、私の仕事――夜伽に関して。


(知っている物語では、泣きにくい……気がする)


 どんなに素晴らしい、あるいは悲しい物語であっても、何度も聞いていれば感動は薄れる。代わりに考察が深く及ぶようになり、新たな発見がある場合もあるが、感情の揺れ動きは少なくなる。

 思い返せば、先日雨姫様が泣いてくれた物語も私が作ったものだった。大元である悲恋の物語では泣かなかったのは、『既に知っていたから』という理由もあるかもしれない。

 考えを巡らせながら歩いていると、雨姫様がまた足を止めた。


「……この庭園では、薬草の類を多く育てているから。貴女も知っていることがあれば、神官に協力してほしい」


 声音も横顔も真剣だった。

 雨のしずくをまとった、清冽な少女。白い姫。その真剣さに――


「……はい。伝承には、古い知恵が込められていることもあります。微力ですが、お手伝いを」


 私は薬師でもなければ学者でもない。古道具に詳しいわけでもない、ただの市井の女だ。それでも彼女のために何かできるのならば、したい。そう思った。


(ああ……、知りたい)


 唐突に、胸を押さえたくなるほどの感情を自覚した。

 気取られぬよう微笑んで、植物についての話を交わしながら、雨姫様と庭園を歩く。その間にも感情がこんこんと湧き出る。


 

 この少女のことを知りたい。何を歓び、何を哀しむのか。何を求め、何を遠ざけるのか。何に涙し、何に笑うのか。

 なぜ、恋はできないと嘯くのか。


(知りたい? 違う。知らなきゃ)


 私は、雨姫様の夜伽なのだから。


「……雨姫様は、好きな花などありますか?」

「花? そうね……聖者草は好きよ。花も可愛らしいし、人々のためにもたらされたという来歴も。……ただ、煎じ薬の味は嫌いだけれど」

「苦いですものね……」


 気付けば、話しながら中庭を一周していた。控えていたナーディヤさんが布を差し出し、雨姫様が軽く顔と髪を拭く。

 聞きたいこと、知りたいことはもっとたくさんある。話したいことも。


「……ありがとうございました、雨姫様」

「ええ。下がりなさい」


 でも、それは今すぐでなくてもいい。いや、時間を掛けなければならない、が正しいか。物語と同じように、人のことを知るにも、しかるべき時間がかかるものだ。

 私はあくまで夜伽役。私自身の衝動ではなく、仕事を果たすのに必要なことを考えなければ。

 濡れた髪布の重みを感じながら頭を下げ、その場を辞そうとしたところに声がかかった。


「シャイラ。……あまり根を詰めすぎないように」

「あ、……ありがとうございます」


 にやついてしまう顔を、髪布で拭うふりで隠し、そそくさと部屋に戻った。


(楽しんでもらいたい)


 聞きたい、知りたい、話したい。そして、楽しんでもらいたい。

 その感情はきっと浅ましい欲望で、けれど柔らかい雨が器に満ちるように、私の胸を満たしていた。

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