■2章/2


 雨姫様の傍らに立っていた侍女が私に気付き、軽く会釈した。侍女は手に大きな傘を持ち、動きやすそうな召使の服を着ている。召使と言っても雨姫様に直接侍る者であるから、私の衣服より上等な生地だ。三つ四つ年上だろうか。灰色の髪をまとめていて、隙のない立ち姿に鋭い印象を覚える。

 会釈を返す。揺れた傘の動きに気付いたか、雨姫様が花から視線を上げた。


「シャイラ」

「あ、雨姫様にはご機嫌うるわしう……」

「挨拶は要らない」


 容赦のない言葉に、冷たさは感じない。ただ、なんとなく――この方は、求めるところをはっきりと口に出すことを己に課しているように感じた。

 拙い挨拶を恥じて頭を下げる。


「……お散歩ですか?」

「ええ。貴女は?」

「私も、雨と花を見に参りました。あ……もしかして、ここは一般の者が立ち入ってはならないとか……」


 雨姫様がちらりと侍女に視線をやる。侍女は瞼を閉じて首を横に振った。


「そのような規則はございません」

「……ありがとうございます、ええと」

「神殿にお仕えしている、ナーディヤと申します」


 ナーディヤさんが頭を下げる。深い一礼をしながらも手にした傘は水平を保ち、雨姫様を雨から守っていた。美しい所作に少しだけ見惚れてしまった分、一拍遅れて礼を返した。

 その声を聞いて、ようやく思い当たる。


「あ……あの。夜伽を終えた後に案内してくれたのって……」

「私です、シャイラ様」

「その節はお世話になりました……、あの、呼び捨てでどうか」

「主人の夜伽役を務めるお方に対して、そういうわけにも参りません」

「は、はい……」


 そつがないというべきか、隙がないというべきか。静かな声音の返答は過不足なく完璧で、何となく会話が続かない。私が勝手に困っているだけなのだが、これ以上雨姫様の前でわたわたするわけにもいかない。

 私は意を決して……後ずさった。


「で、では、私はこれで。失礼しました」

「待ちなさい。雨と花を見に来たのではないの?」

「雨姫様のお邪魔をするわけにもいきませんから……」

「……私が邪魔と言った?」


 雨姫様が私に視線を向ける。

 しとしとと降る灰色の雨を従えた美しさと迫力に、息を呑む。


「……では命じてあげる。少し、一緒に歩きなさい」

「はぇ、い?」

「ナーディヤ、下がっていて」

「……お召し物が濡れますが」

「構わない」

「かしこまりました」


 ナーディヤさんが一礼して静かに下がる。取り残された私は、茫然と雨姫様を見つめるしかできない。

 そんな私を放って、少女は先に歩き出してしまう。


「来なさい」

「……は、はい」


 呪縛が解けたように、足が勝手に踏み出した。慌てて後を追う。雨姫様の長い黒髪に雨粒が跳ねて、まるで銀の細糸を纏っているようにも見えた。

 雨の勢いは強くなく、暑い気温を和らげるように少しぬるい。柔らかな雨だ。


 中庭には腰から胸ほどの高さがある低木と、草花が植えられた区画があり、思ったより広い。頭上には紐と天幕が張り巡らされているが、今は雨の恵みを受けるために全開されており、雲が見えていた。

 雨を受けて濡れた草花は、期待していた以上に瑞々しく、美しい。草葉の緑と色とりどりの花の風景は、乾季に入りかけていることを忘れてしまいそうなほどだ。


「……きれい」


 何よりも、雨と草花を背景に歩く雨姫様が、幻想的なほどに美しかった。

 伝承の妖精のような彼女がふと立ち止まり、群れて咲く黄色い花に視線を落とす。


聖者草イェドナですね。かつて聖者が人々の傷を癒すために見つけ出したという」

「あなたは草花にも詳しいのかしら、シャイラ」

「……伝承に出てくる花であれば」


 呆れられるかと思ったが、雨姫様の横顔に呆れはないように見える。

 真剣な表情で雨露に濡れる花を見つめた後、こちらへ視線を向けた。


「物語が好きなのね、本当に」

「はい。よく、空想に耽っていると怒られますが」


 孤児院でも怒られたし、ガーニムさんにも怒られた。語っている途中で思いついた空想の方に意識が行ってしまい、子供たちに怒られたことすらある。

 そんな話をすると、雨姫様が小さく笑った。


「……く、ふ。そんなに自慢げに言うことでもないでしょう」

「じ、自慢なわけがありません」


 夜伽の時のような、口元だけをうっすらと笑みの形にした表情ではなく。目を少し細めて笑う表情には、年相応の可愛らしさがあった。

 また数歩歩いて、別の花を眺める。


「良いことだと思うけれど。想像力が豊かということでしょう。『呑め、歌え、それが人と獣とを分けるがゆえに』」

「ありがとうございます……天幕ハイヤームのイブンですね」

「彼の四行詩集ルバイヤートは読んでいる?」

「一通りは。砂に関する描写が美しいと思います」

「そうね。……他には、何を好んで読むのかしら。貴女は物語を何から学んでいるの?」

金貨袋キーフのチラグがまとめた〈談集かたりしゅう〉が一番多いです。あとは、やはり雨姫の物語ですね。市場に集まる隊商の人たちは大抵、その氏族に伝わる雨姫の伝承を持っているので」


 〈談集〉は金貨袋のチラグ・ベフ・ジエーナの手による伝承集だ。五十年ほど前に活躍した行商人で、商売の傍ら各地で蒐集した伝承を隠居後にまとめたのが〈談集〉である。

 余談だが、この〈談集〉は大いに売れて、チラグは隠居したというのに商人を継いだ息子より稼いだとか。

 雨姫様が頷く様子は、どことなく安心しているように見える。私が変な本を読んでいないか心配されていたのだろうか。


「貴女は子供に向けて話しているのだったわね。〈談集〉は怖い話も多かったと思うけれど」

「そうですね……刺激が強いお話は少し調節したりはします。恐ろしい怪物の話自体は、子供たちも大好きなんですが」

「……怖がらないの?」

「怖がるのを楽しんでいるみたいですよ。子供たちは大人よりも、物語との付き合い方を知っているのかも。ただ……」


 一拍置いて、草花に視線を向けながら続ける。声は努めて平静に。


「……本気で怖い怪談話は私が苦手なので、より穏やかな感じに、ですね」

「そう」


 雨姫様の視線がこちらを見るのがわかった。口元に、小さな笑み。

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