■2章/1


 私室の窓から、しとしとと降る雨を眺める。肌を灼く日差しも今は雲に遮られ、世界は静かで穏やかな灰色に染まっていた。雨の匂いが思考まで潤すようだった。


 窓から手を差し伸べて、指先を雨で濡らす。雨粒の柔らかな感触に、雨姫様の涙を連想した。あの雫はきっと雨のように柔らかく、しかし冷たくはないのだろう。


「……にふふ」


 笑みがこぼれた。

 雨姫様の涙が呼んだこの雨は、昨夜の夜伽の結果だ。もちろん偉大なのは精霊であり雨姫様なのだが。私が彼女の御業を少しでも手伝えたならば、身に余る光栄と思うべきだった。


「さて。少し片付けましょうか。しばらくは私の部屋になるわけですし」


 窓から離れ、部屋を見回す。

 寝台と机、棚がひとつ。殺風景な神殿の客間だ。机の上には……収まりきらずに床にも少し……資料の本や走り書きの紙が散っている。

 正式に夜伽となり、神殿から客間を私室として与えられた。しばらくはここに住み、ガーニムさんの古道具店にも神殿から通うことになるだろう。


 床と机に散らばった羊皮紙を集めて重ねる。ペンを走らせて書いた内容は、暗記するための書き取りだったり、語る時の抑揚や強調の覚え書きだったり、自分の妄想を整理したり、様々だ。インクはすでに乾いているから、何枚も重ねて紐でぎゅっと縛っておく。後でナイフで削って再利用するか、紙屋に持ち込んでいくばくかのお金に換えるのだ。


「……次」


 羊皮紙に記した文字を何とはなしに眺めて呟く。

 『次は楽しい話を聞かせて』、と雨姫様は言っていた。子供たちを相手に語り聞かせていた私にとっては、恋の話よりやりやすい。子供たちに受けが良かった笑い話や、わくわくするような冒険譚を思い浮かべる。


「いつ呼ばれてもいいように、しっかり準備しないと、ですね」


 椅子に座り、資料の本、古今の物語を集めた書物を机に開いた。何人もの手を渡ってきたのであろう、ぼろぼろの本が崩れないように丁寧に、頁を捲る。

 夜伽の仕事は毎日とか一週間ごとと決まっているわけではなく、雨姫様からお呼びがかかった時に寝所を訪ねるものらしい。連日呼ばれてしまうこともあるかも、などと、緊張半分妄想半分で考える自分を戒める。


 市場の子供たちを相手に語る、半分は趣味の活動とは違うのだ。にやけそうになる頬を引き締めて、机に向かった。

 


「んっ……」


 どのくらい物語の世界に浸っていただろうか。ふと喉の渇きを自覚して、我に返った。丸めていた背をゆっくりと伸ばす。背骨が小さく鳴って、その心地よさに小さく声を漏らした。

 小さな磁器の水差しから、水を一口含む。語りのリズムをつかむため小声を出していた喉に、柔らかい水が染みていく。


「……ふ、ぅ」


 一息。

 窓の外では、まだ雨が静かに降っている。耳を向ければ、さぁ、と雨音が聞こえるが、意識しなければ音として感じない、優しい静寂だ。


 机から離れ、窓の外に置かれた水がめに問題なく水が溜まっているのを確かめる。乾季に入る前の貴重な雨である。神殿には中庭に井戸があるが、お世話になる者として水を溜めるのには協力しないと。


「……さて。雨を楽しまないのは、もったいないですね」


 ちょうど、少し行き詰まっていたところだった。気分転換をしよう。

 髪布テュルバを頭に巻いて部屋を出る。向かう先は神殿の中庭だ。建物に囲まれた中庭には屋根がなく、薬草などが育てられていて、ちょっとした花畑のようになっていた。雨に濡れた草花は美しいだろう。 

 そう思って中庭についてみれば、花よりも美しい人がいた。


「……雨姫様」


 白い装束を身にまとった雨姫様が薄赤色の花に視線を向けている。ヴェールは片側を耳にかけて上げ、いつくしむような表情で花を見ていた。彼女の細い指が、花の少し下、瑞々しい緑の葉をそっと撫でる。


 思わずぞくりとしてしまうほど愛しげな指遣い。

 吐息ですら邪魔になってしまいそうで、必死に息を詰めてその光景を見つめる。

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