■手紙と共に渡るもの


 青年は何度砂漠を渡ったでしょうか。


 女の従者であり、男の親友であった青年は、涸れ井戸を前にして立ち尽くしていました。


 青年には選択肢がありました。


 共に死のうと誘う手紙を、届けずに燃やしてしまうこともできました。


 後を追うと答える手紙を、千切って砂にしてしまうこともできました。


 女を支え、男を慰めることだってできたでしょう。


 ですが彼はそうはしませんでした。後悔はありませんでした。


 それでも彼は長い間――二人が砂になるほどの間ずっと、涸れ井戸を見守っていました。



 子供たちに語ってきた物語は、多くが伝承のおとぎ話だ。市場で仕入れた怪談話や、行商人から聞いた異国の逸話もある。

 そして、古道具を見て自分で思いついた物語を語ることも、時折あった。


 妄想を語るのは気恥ずかしいものだ。語り終える頃には頬が熱くなっている。子供たち相手にですらそうなのだから、雨姫様を前に語ったらよほど恥ずかしいだろうと覚悟していた。夜伽の務めだと自分に言い聞かせて語った。


 けれど、語り終えて感じる感情は羞恥よりも、むしろ。


「……彼らの旅は続くけど、今宵の話はこれでお終い」


 とくんとくんと痛いほど高鳴る心臓を押さえたくて胸に手を当てて、吐息する。去来したのは気恥ずかしさではなく静かな昂揚だった。という感覚。

 クッションにもたれかかり、寝台に脚を伸ばした姿勢の雨姫様を見る。今日も私の語りをしっかりと聞いてくれた少女の頬に、きらきらと輝くものがあった。


 涙が、夜星石のランプの冷たい明かりに照らされて、美しい。


「雨姫、さま……」

「…………」


 壁の方を見ていた瞳を隠すように、雨姫様が瞼を閉じる。大粒の涙が零れて頬を濡らし、顎へと伝った雫がぽたりと落ちて白い衣服に染みた。

 物語の余韻を噛み締めてくれているのだろう、と。自惚れかもしれないが、それでも誇らしかった。


「…………シャイラ」

「は、はい」


 清冽な声で初めて呼ばれる私の名は、まるで私の名ではないように美しく響いた。

 居住まいを正し、背筋を伸ばして本を閉じる。雨姫様は瞼を閉じたまま、ほんの少し震える声で問いかけた。


「今の物語は、あなたが考えたの?」

「はい」


 咄嗟に言い訳を口にしそうになった。私が考えたわけではない、とか。伝承を妄想の種に使うなどおこがましいことをしました、とか。飛び出しかけた言い訳を全て飲み込む。卑下も誤魔化しも今は不要だ。怒りでもいい。酷評でもいい。物語をどう感じたか、ただ知りたかった。


「悲しいわね」

「…………!」


 だから、雨姫様のその言葉は……私にとっては望外に過ぎて。言いたい言葉が多すぎて喉に詰まってしまうような感覚を必死に飲み込み、ただ頷くのが精いっぱいだった。

 雨姫様が袖で目元を拭い、こちらに顔を向ける。目じりがうっすらと赤くなっているのが、美しい顔立ちに生命力の艶を与えているように思えて、少し見惚れてしまった。


「……今夜はもういいわ。下がりなさい」

「はい……雨姫様。……その。ありがとう、ございました」


 濡れた瞳から目を逸らしたくなくて、咄嗟に口にした言葉はお礼だった。言ってから、ああ、嬉しいのだと自覚した。様々な感情が混ざり合っているけれど、全体として名付けるならばそれは確かに嬉しさだ。

 雨姫様はもう一度指先で目元を擦った後、小さく頷いた。


「次は、楽しい話を聞かせて」

「……はい!」




 翌朝、雨が降った。

 雨は、乾季に向かう人々に希望をもたらすように、一日ほど降り続いた。

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