■1章/6


 雨姫様の寝所は、どことなく精霊を祀る廟に似ている。

 白い石を中心に建てられた部屋に入り、水の気配を感じると、文字通り空気が違うことを実感した。緊張が身体をこわばらせ、心臓を早く打たせる。


 二度目の来訪はむしろ初回より緊張を強く感じる。痛いほどの静謐に満ちた室内を、ぎくしゃくした身体を引きずって歩いていく。手元に抱えた一冊の本を握り締めて、落ち着け、と自分に言い聞かせた。


「シャイラでございます」


 挨拶は要らない、と言われたことははっきりと覚えていた。祈りや賛美の言葉は勇気を振り絞って全て削り、用件だけを伝える。


「夜伽に参りました。――雨姫様」


 頭を深く下げて、視線を床に向ける。

 寝台の上でしゃらりと柔らかな布がこすれる気配。


「顔を上げて」


 雨姫様の静かな声が耳を撫でる。

 顔を上げて寝台の前まで歩み寄った。雨姫様は前回と同じように、寝台に積んだクッションに身を預けている。顔を隠すヴェールを指先で摘まみ上げて美しい顔立ちを露わにしただけで、私の視線はどうしようもなく奪われてしまう。

 前回は寝台に乗るように言われたが、流石に断らずに上がるのも失礼だろうか。今度こそ横の椅子で……と椅子に視線を向けたところで、雨姫様から呆れた声がかかった。


「もう忘れたの? こっちに来なさい」

「は……はい。失礼いたします」


 ぽふぽふとシーツを叩く雨姫様。そのしぐさは珍しく年齢相応に見えてかわいらしい。かわいいなどと思っているとバレたら流石に不敬に思われそうなので、できるだけ神妙な表情を作って寝台に膝を乗せる。ふわりと沈み込む感触に鼓動を高鳴らせながら、座を正して雨姫様と向かい合った。

 少女は一週間前と同じく、口元にだけうっすらと笑みを浮かべている。


「何故来たの?」

「……え?」


 問われた内容が予想外で、思わず首を傾げた。

 二秒ほどかけて問いを飲み込み、恐る恐る問い返す。


「雨姫様が呼んでくださった……のでは、ないのですか?」

「違うわ」


 すっと、頭の後ろが冷たくなる感覚を覚える。


「ティルダードの勝手な判断でしょう」

「そう……でしたか……」


 市場でティルダード様に声を掛けて頂いた時の情景が、羞恥と共によみがえる。やはり、私のような一般人が雨姫様の目にかなうなどというのは、都合がいい妄想だったのか。無邪気に喜び、資料をかき集めた自分の愚かしさに、滑稽な想いを自覚する。

 鼻の奥がつんとするような感覚があって、少し俯き、顔に力を籠める。声を震わせないようゆっくりと尋ねた。


「では……今夜は、下がった方が、良いでしょうか……?」


 哀れみを乞うような態度にはならなかったことを祈る。私が愚かなのはもう言い訳できないにしても、愚かさを盾にするようなことはしたくなかった。この方の前では、特に。


 ……答えはない。

 下に向けていた視線を少し上げる。白く小さな素足、白く清楚な寝巻、そして……なんだか呆れたような、困ったような表情が見えた。


「……いいわ。わざわざ来た者を突き返すようなことはしない」

「……! では」


 とくんと胸が強く鼓動を打つ。

 雨姫様は小さく頷くと、クッションに身を預けた姿勢のまま視線を私から外した。視線の先には壁と、細い水路があるだけだが、雨姫様の目には人には見えざるものが見えているのだろうか。


「聞かせなさい」

「ありがとうございます……!」


 頭を深く、シーツに額が付くほどに下げる。先ほどの冷えた感覚は消え去り、体の内側に熱を感じた。

 ゆっくりと身を起こし、問う。


「今夜はどのような物語をご所望でしょうか」

「……それ」


 雨姫様は、私が抱えた資料の本を指さす。古今の物語を集めた書物で、羊皮紙の端切れで作った付箋が顔をのぞかせていた。


「準備、してきたのでしょう? それを語りなさい」

「……かしこまりました」


 胡坐に座り、膝上に本を開く。

 指先で文章をなぞりながら、思考の中に文章を浮かべる。

 指摘の通り、雨姫様に聞いてもらうために準備してきた。呼び出しが彼女からではなかったことを残念と思いはするけれど、許されたからにはしっかりと夜伽の務めを果たさなければ。


「では、今夜は……悲しい恋の物語を見届けた者について、語らせていただきます」


 雨姫様の身体が、少しこわばったように思えた。

 反応をもらえるのは嬉しい。

 反応をもらえるのは怖い。

 相反する感情を、今は思考の隅に追いやる。


「砂漠の砂が一巡り、入れ替わるほど昔のお話」


 語り出しはいつもの文句。脳裏には砂漠を旅する男の情景。

 懐に大切な手紙を守って、砂を踏み分ける姿を追うように、語れ。


「一頭のラクダを供として、旅人は砂漠を渡り往く。吹きすさぶ風に懐の、大事な手紙を奪られぬように、外套を硬く握り締め――」


 砂漠の東西を一年ごとに旅して相手に会いに行く、恋人たちの物語。

 今日語るのは、先日語ったその伝承を元にした空想だ。

 恋人たちをつなぐ手紙、その運び手たる青年が、思いを運ぶ――

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