■1章/5
片腕に水袋と資料を二冊。逆の手は
ティルダード様から声をかけられた後、準備の時間を頂くことを許してもらい、ひとまず弟への手紙を預けた。ガーニムさんには先に連絡が行っていたようで、少々文句を言いながらも快く送り出してくれた。彼はお小言が多いくらいが調子が良いのである。
「う……重い……っとと」
頭の上に抱えたずっしりと重い紙の束は、市場で買い漁ってきたものだ。質が悪かったり、何度も削って薄くなったり、端切れになったりした羊皮紙を馴染みの店主から仕入れてきた。考えを整理する落書きのために揃えたが、調子に乗って買いすぎたかもしれない。
「麻紙なら軽いのに……」
木や麻の繊維で作られた紙は、羊皮紙とは比べ物にならないほど軽く、書きやすく、そして価格が高い。神官や学者が本を仕立てる時に使うようなもので、心底から残念なことに、一般市民の私には縁がない。
重さを忘れようと、そんな風に現実逃避していたせいか。
神殿の中庭に面した廊下に出たところで、足先が段差に躓いた。
「きゃっ……!」
身体が傾き、頭から羊皮紙をまとめた袋が落ちる。片腕に持った資料の本だけは落とさないよう握り締め、そのまま顔から床に倒れていき――
「おっと。……大丈夫か?」
誰かが、私を抱きとめてくれた。
痛みを覚悟してぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開く。片腕で揺るぎなく支えてくれている頼もしい力感。見上げれば、美しい女性が私を見ていた。
異国の気配を感じる女性だ。神殿の賓客だろうか。
「……どこか、怪我をしたか?」
「あっ、いえ……!」
何よりも、声。低く、よく通る声が心地よい。雑踏でも、砂漠でも、彼女に呼びかけられたならはっきりと耳に届くだろう。
ぽぉっと見惚れてしまっていたことに気付き、慌てて態勢を立て直す。一度膝をついて資料を置き、羊皮紙を手繰り寄せた。
抱えきれない荷物は一旦置いて立ち上がり、改めて深く頭を下げる。
「失礼しました。助けて下さってありがとうございます」
「…………君は」
そのまま別れる……と思いきや、女性はなぜか私のことをじっと見つめてきた。睨むような鋭い視線は美しく強気そうな顔立ちに似合っていて、視線を惹き付けられる。
女性の手が素早く伸びる。身を寄せてきた女性から咄嗟に身を引くが、神殿の白い壁に背中がぶつかった。逃げ道を塞ぐように女性の手が壁に触れ、私を閉じ込める。
「何を、なさるんですか……!?」
「君が雨姫の夜伽か」
「……っ、なぜ」
なぜ知っているのかと問おうとして留まる。今更ながら警戒の視線を向けるが、相手は小さく挑発的に笑うだけ。強気の笑みが似合う顔立ち。髪を飾る艶やかな茶毛の飾りは、馬の鬣だろうか。
「カマをかけたわけじゃない。ティルダードから聞いていたからな、夜伽がもう一人いるというのは」
「もう、ひとり……?」
「あたしは
一秒たりとも視線を外さず私の瞳を見つめて、女性、アヤンはそう囁く。
アヤンと壁に挟まれて、逃げることも目を逸らすこともできずにただ見つめ返す。もう一人の夜伽――雨姫様に侍る、私以外の、ひと。
言葉が出ずに喉を鳴らす私の様子の、何が面白かったのか。アヤンは顔を更に近付けて、互いの髪が触れる程の距離で見下ろして笑う。黒い瞳が私をのぞき込んでいた。
「名を聞かせろ」
「……シャイラ、です」
「シャイラ。雨姫の夜伽の座は、あたしのものだ」
噛み付くような囁き。
咄嗟に全身に力が入るのを、一瞬遅れて自覚する。今、何と言った? 雨姫様は、あたしの、もの――?
囁きの余韻が消えるよりも早く、アヤンは寄せていた身を離す。壁についていた手を引いて私を解放し、歩み去ってしまった。
「な、なんだったの……」
残された私はようやく詰めていた息を深々と吐く。
驚いた、では足りず、ものすごく驚いた、と言いたくなる感情。息を落ち着けてよくよく思い返すと、別に『雨姫はあたしのモノ』とは言っていなかった気がしてきた。動転していたせいで聞き間違えたことにする。
それでも、『夜伽の座』を巡って争う立場にある……と認識しているのは間違いないらしい。
遊牧民の戦士がなぜ、雨姫様の夜伽となって私を敵視しているのか?
「……大事なのは、雨姫様が喜んでくれるか、泣いてくれるか……だもの」
戦いでも競争でもない、と頷く。
少しずれてしまった髪布を整え、床に置きっぱなしだった荷物を改めて担ぎ上げて私室を目指す。
少し歩調が速くなってしまったのは、きっと気のせいだ。
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