■1章/4

「……そう、ですね。漣沙国には雨姫様がいますから」


 カップを握り締めて、何とか微笑む。弟に手紙を書いたからだろうか、もう忘れたと思っていたあの渇きが一瞬だけよみがえってきてしまった。

 その様子に気付いてか、気付かずか。ガーニムさんが話題を変える。


「そういえば、シャイラ。お前、神殿に何の用で呼ばれたんだ?」

「えぁ」


 カップを握る手に更に力が入る。

 子供たちには秘密と言い張って押し通したが、ガーニムさんが納得してくれるだろうか。曖昧に微笑んで言い訳を探す。


「それは、ええと」

「ああ、わかったわかった。言えないことなら無理しなくていい」

「すみません……」

「神官連中はいつだって秘密主義だからな。余計なことを口にするなと俺も散々言われたもんだ」


 嘘をつかなくて済んだことに安堵しつつ、申し訳なさに俯く。


「用件はもう終わってるのか? 仕事中に何度も抜けられると困るんだが」

「ひとまずは。ただ……」


 夜伽の翌朝、神殿を出る前に神官長のティルダード様とはお話はできなかった。言伝によれば、また呼ぶかもしれないから待機せよ、ということだったが……すでに一週間、音沙汰なしだ。


 思い出されるのは、雨姫様の横顔。私の語りを聞いてくれて、けれど泣かせることは出来なかった美しい横顔を思い出すだけで、少し胸が切なく苦しい。

 あの清廉な少女が、何者でもない一般市民の私を求めてくれることなどあり得るだろうか?


「……もう、呼ばれることはないと思います」


 雨姫様と会うことは、きっと二度とない。胸をうずかせる感情に名前を付けぬよう気を付けながら、微笑んでみせる。ガーニムさんは何か聞きたげだったが、結局お茶を飲んで言葉を飲み込んだようだった。

 あの一夜は良い夢を見たのだと思うことにする。もしかしたら、子供たちに物語を聞かせていたことに対する精霊の祝福かもしれない。


「そうか? ならいいんだが」

「はい。あ、っと。それじゃあ、コエニさんに手紙を預けてきますね」


 小さなカップをくいと呷り、お茶を飲み干す。机の端で広げていた羊皮紙をくるくると巻いて握り、紐でまとめる。正式な作法では封蝋を垂らして紐を留めるが、読まれて困る手紙でもなし、コエニさんに余計な手間をかけないためにも封はしないことにしていた。商人に手間をかけるのは、つまりお金をかけるのと同じだからだ。


 丸めた手紙を片手に、店を出る。熱い日差しが降り注ぎ、目を細める。懐から淡い緑の髪布テュルバを取り出して、手早く頭に巻く。〈正午の女ポルードニツァ〉の大鎌……強い日差しと乾いた風から身を守るには髪布が一番だ。

 コエニさんの行商がいるのは市場バザールの外れ。賑わう市場を歩く人々をかき分けて、早足で歩く。


「水実! 水の木の実だよ! 倒れる前に食ってきな!」

「羊の串焼き~。串焼きは要らんかね~」

「おやお客さんお目が高いこいつははるばる東方からやってきた竜の子供さ今はこんなに小さいが――」


 ふふ、と唇から笑みがこぼれた。

 市場は常に熱量に溢れている。がなりたてるような呼び込みの声、暴力的なまでにおいしそうな焼けた肉と香料スパイスの匂い、色とりどりの布や見たこともない形の品物。普段はお店で静かに座っている方が好みだけれど、砂漠の都に生きるものとして、この熱量は尊い。


 砂漠を越えるのは命懸け。市場に並ぶ品物は、そのどれもが、命を懸けて運ぶのに値すると誰かが信じた品物だ。だからこそ、市場は物語に溢れている。

 弟への仕送りとコエニさんへの手間賃を払ってお金が残ったら、甘い干し棗椰子デーツでも買って帰ろうか。小さく微笑んだ瞬間だった。


「シャイラ・アー・セルチ」


 私を呼ぶ、冷ややかな男性の声。聞き間違えようもない静かな迫力は、神官の長ティルダード様の声だ。

 振り向くと、護衛の戦士を従えたティルダード様が私を睨みつけるように見つめていた。

 白い神官服姿は雑然とした市場の雰囲気にまるで似合っていないが、そんなことは意にも介していない、凛とした立ち姿だった。


「ティルダード、さま……!?」

「精霊の意を告げに来た。――雨姫がお呼びだ」


 驚きと、混乱と期待と不安と、――確かな喜び。様々に入り混じった複雑な感情が、泉のように溢れる。溢れた感情が胸を苦しくさせ、私は声にならない吐息とともに頷くのが精いっぱいだった。

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