■1章/2

「――雨姫の始まり。涙を流せば雨を呼ぶ、この国で最も優しく、最も清き方々の物語」


 一拍おいて、物語に区切りを打つための大切な決まり文句を囁いた。


「……彼らの旅は続くけど、今宵の話はこれでお終い」


 語り終えた声の余韻が消えるのを待って、ゆっくりと息を吸う。

 子供たちの表情を見回す。語りを終えた瞬間の、語り手も聞き手も沈黙する僅かな時間を味わう。


 幾人かは退屈そうだったし、幾人かは涙ぐんでいた。ぐすんと鼻を鳴らしているのは染色職人の娘のミナーさんだ。兄と姉を慕っているから、ことさら響いたのかもしれない。

 熱を持った喉を冷ますように、水袋から一口だけ水を含んで、飲み込む。水の湿った香りが心地よく鼻に抜ける。


 指先を、夕暮れの日差しを受けて朱に染まる神殿へと向けた。


「漣沙国に雨と水場が多いのは、水を司る精霊と、あの神殿におわす雨姫様のおかげです。皆さんも……」

「シャイラ・アー・セルチはいるか!」


 言いかけた声を遮って、通りから私を呼ぶ男性の声。まるで罪人でも探すかのような迫力の声に、思わず身をすくませた。『セルチ氏族が庇護するアー・セルチ』の姓で呼ばれるのは久しぶりだ。

 首をかしげる子供たちに微笑みかけて、立ち上がる。


「皆、今日は陽も暮れますから、帰りなさいな」


 子供たちと入れ替わりに、私を呼んだ男性が空き地に入ってくる。白い貫頭衣を纏った神官と、その後ろに剣を提げた戦士。

 緊張で身がすくむ。神官に名を呼ばれるようなことをした覚えはないのだが。


「シャイラです。どのような御用でしょうか、神官様」

「焦げ茶色の髪に、琥珀色の瞳。シャイラ・アー・セルチで間違いないな」

「は、はい……あの……?」


 片側でまとめた焦げ茶色の髪に、眠たげと言われることもある琥珀色の瞳。地味な外見は私以外にも大勢いるだろうけれど。

 神官と戦士の視線が突き刺さるのを感じる。いたたまれずに声を漏らすと、神官がどこか緊張した表情で告げた。


「神官の長がお呼びだ。同行してもらおう」



 精霊ジンとは、世界の諸要素を運行する大いなる意志である。


 そう言ったのは二百年前の哲学者、天幕ハイヤームのイブン・ベフ・サーデグだったか。

 世界の全ては運動し、繋がり、循環している。精霊がそれを為しているのだ。

 だから人は精霊に感謝し、恵みを祈る。祈りを束ねる者が神官となり、人々を導いてきた。


 つまり、神官の長というのは、とても偉い存在だ。

 私のような一般人が会う機会などない。祭事の時に遠くから見かけることはあっても、顔までは知らない。そういう相手だった。


「神殿を預かっている、ティルダードだ。御足労感謝する」


 神官長、ティルダード様はあまり感謝している様子のない表情で告げた。

 私は神殿の奥まった場所にある小部屋にいた。窓はなく、重そうな扉がひとつだけの圧迫感がある空間。小さな机を挟んで、ティルダード様と向かい合って座る。

 ティルダード様の背後には護衛役と思しき戦士の男性が無言で立っていて、圧迫感を更に増していた。


「シャイラと申します……、その。どのようなご用件、でしょうか?」


 迎えというべきか、連行というべきか。私を神殿へと連れてきた神官は、用件については何も教えてくれなかった。

 ティルダード様は神官の証である白い貫頭衣に、神秘的な意味がありそうな金と硝子の護符を身に着けている。縦ひし形の硝子の護符は雨を表現するもので、水を司る精霊を祀る神殿ではよく使われる。


 清潔な白い衣服、煌めく装飾に負けぬほど目を惹く、整った顔立ち。怜悧な表情で私を静かに見つめている視線は鋭い。黒髪に銀の髪が一房。年の頃は私と同じく二十五、六というところか。

 まるで物語の……女性が夢中になる類の恋愛劇ロマンスの……中から現れたような美男子であった。余計に緊張する。


「用件は後ほど。いくつか質問をさせてもらう。貴女は子供たちを集めて物語を語り聞かせているそうだな」


 声の調子も冷たい。まるで尋問のように問われて、戸惑いながらも頷く。

 何かの罪になることはないはずだが、冷たい声で詰問されると不安になってしまう。


「はい……集めているのではなく、自然と集まってくれるようになった、ですが」

「どのような物語を話すのか」

「様々です。相手が子供ですから、おとぎ話が一番多いですけれど。風聞を話すこともあれば、古典を語ることもあります」


 仕事が暇なときにこっそりと空想しているお話を語ることもある、というのは秘密にしておく。恥ずかしいので。


「貴女はアー・セルチ……セルチ氏族の領地で庇護された孤児だな。どこから物語を学んでいる?」

「……幸い、孤児院にはセルチ氏族の知恵と慈悲により書物は揃っていましたし、語りの上手な神官もおりました。怪談や風聞の類は、市場にいれば事欠きません。私は古道具を扱う店で雇っていただいておりますから、道具それぞれの来歴についてお話しいただくこともあります」


 考えながら答えるうち、あまりに不安が強すぎて、逆に怒りが込み上げてきた。

 私は招かれた側だ。それも、強引に。用件も明かされないまま尋問されるいわれはない。


「一体、何なのですか。私が何かの罪を犯したのなら……」

「違う。だが重要なことだ。最後に一つ」


 ティルダード様は表情を変えることもなく私を刺すように見つめている。観察されている、という感覚がようやく湧き上がってきた。だが、一般人であるつまらない女の何を観察しようというのか?


「雨姫をどう思う」

「……雨姫様、ですか?」


 思わぬ質問に、間の抜けた声を返す。

 先ほど子供たちに話したばかりの雨姫という存在について、思考の中にはいくつかの言葉が浮かぶ。


 恵みの雨。

 精霊の祝福。

 民に寄り添い支える雨の源。

 涙を雨とし、慟哭を雲とする。

 砂漠で最も優しく――


「……精霊の祝福を受けた、尊い御方。我々に雨をもたらして下さる、この世で最も優しく、清く……」


 子供たちには言わなかった言葉を付け加える。


「悲しみ深い御方だと、思います」


 ティルダード様は私の曖昧な答えをどう思ったか。瞼を閉じ、数秒。


(不敬だと思われてしまったかも……)


 言ってから不安になる。水の精霊の加護篤き雨姫に対して、悲しいなどという形容をするのは不敬だったか。

 ティルダード様はゆっくりと頷いてから目を開き、先ほどと変わらぬ鋭い視線を私に向けて、託宣のように厳かに告げた。


「シャイラ・アー・セルチ。貴女を、雨姫の夜伽に任ずる」

「…………、…………はい?」

「雨姫に侍り、無聊を慰め、涙を流させよ」


 言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。真っ白になった思考がようやく結論に辿り着き、喉を動かそうとした瞬間に、ティルダード様が立ち上がる。

 無理です、と喉まで出かかった言葉が封じられて、茫然と見上げるしかなかった。


「雨姫に仕える神官の長、直々の指名だ。よもや無理とは言うまいな」

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