『雪解け』
「ごめんね、玲香ちゃん………お仕事、どうしても休めなくって」
「いいよ、おかあさん。気にしないで」
誕生日ケーキを前に、幼い玲香が微笑む。母親は申し訳なさそうにしながら、慌ただしく支度をして部屋を出ていく。
一人残された玲香は、笑顔のままケーキを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
次第に視界が滲み、ポタポタと涙がこぼれていく。
「さびしくない、さびしくない、だいじょうぶ、だいじょうぶ………」
玲香は、常に孤独だった。母は女優、父はカメラマン。二人とも仕事が忙しく、ほとんど家に居ない。家政婦はいるが不愛想で、一緒に話したり、遊んだり、そういった交流はほぼ無い。
そんな彼女に人との付き合い方がわかるはずもなく、友達の一人もできなかった。
孤独の辛さを忘れる為に、いつからか彼女は、自分が望んでこの状況に居るのだと考えるようになった。
自分は一人が好きだから、一人で居たいから一人で居るのだと。今の状況は喜ぶべきもので、悲しむ必要はないのだと。
そうでもしなければ、耐えられなかった。
「九条さんも、放課後一緒に遊ばない?」
「遠慮しておくわ」
「九条さん、良かったら先生と―――」
「結構です」
「好きです!付き合ってください!」
「ごめんなさい」
無理のある思い込みも、続けていればいつしか当たり前になっていく。
小学校四年生の頃には、人との交流を望まなくなり、寧ろ遠ざけるようになった。同級生からの誘いも、教員によるお節介も、異性からの告白も、全てを拒絶する。
常に刺々しいオーラを纏い、近づいてきた者には敢えて嫌われるように振舞う。
もし彼女が普通の少女であれば、全員から避けられて終わる事が出来たかもしれない。
しかし彼女には、母譲りの美貌があった。どれだけ冷たく振舞っても男は寄ってくるし、女からは嫉妬を買う。
気づけば彼女は、いじめられるようになっていた。
直接害されるようなことは無かった。ただ無視され、陰口を叩かれ、根も葉もない噂話を流布された。
いじめよりも幼少期に感じた孤独の方が辛く、耐える事は容易だった。
しかし他者との付き合いに対する姿勢は、ますます消極的かつ攻撃的になった。
「お帰り、玲香ちゃん。今日はお母さん、お仕事が早く終わってね?お父さんも久しぶりに帰ってきてるし、今日は皆でご飯を」
「もうファミレスで済ませてきたから」
「………そう」
家族とも、目を合わせる事さえしない。
他人も同然な二人に、今更求めるモノは無かった。今までそうしてきたように、放っておいてくれればそれで良かった。
だって、それが一番求めているモノなのだから。
自分は一人でいる事を何より望み、孤独を愛し、好んで人との繋がりを切り捨てている―――
【こんばんは、九条さん!今日も寝る前に少しだけ、お話しない?】
―――そうで無ければ、ならないというのに。
高校生になって出会った、一見すると普通の男。
言動の全てが自信に満ち溢れている彼は、他の誰とも違い、彼女に話しかけ続けた。
無視されても、冷たく突き放されても、罵倒されても。
両親でさえ躊躇う一歩を迷いなく踏み出して、彼女に歩み寄った。
「飽きずに、良く送ってくるわね」
スマホを片手に呟く。
一方的に送られてくるメッセージは、彼女が唯一連絡先を交換した少年、御堂蓮司のもの。
彼は返事が無くとも会話のきっかけとなり得そうな文章をいくつか送り、通知が迷惑にならないラインを見計らって切り上げるという行為を、連絡先交換から一週間経つ今日まで、毎日欠かさず続けていた。
なお、玲香からメッセージを送ったのはたったの一度。初日のメッセージに対する【不愉快】の一言だけ。
まるで報われていないが、彼はまるで気にする様子もなくメッセージを送り続け、直接会ってもメッセージの事を口に出したりしなかった。
返事の催促をするのはマナー違反だ、という価値観があった為である。
「………」
無言で文字を入力し、送信する直前で手を止める。
誤字は無い。メッセージも、ちゃんと蓮司の投げかけてくれている言葉と噛みあった物だ。
だからこそ、躊躇する。
もし誰かを受け入れてしまえば、これまで忘れ去ろうとしてきた孤独への恐怖が戻ってきてしまう。
彼女は何よりも、ソレを恐れていた。
人との関係なんて、すぐに変わる。
昨日まで笑顔で話しかけてきておきながら、急に陰口を叩き始めた女子達。
告白しておきながら、フラれたら負け惜しみのように悪口を吹聴するようになった男子達。
大好きだと言っておきながら、自分を放って仕事にばかり精を出していた両親。
どれだけ突き放しても優しくしてくれる彼であっても、その関係はいつかきっと変わってしまう。
もし受け入れて、人と関わるのが当たり前になって、その上で遠ざけられるようになったら?
孤独を愛しているなんて嘘が信じられなくなった自分は、どうすれば良い?
【迷惑だと何度も言ったはずだけど】
逡巡の末、まともな文章を消し、送信したのは普段通りの冷たい言葉だった。
だが、その表情だけは普段と違い、どこか暗い、寂しげな色を湛えていた。
―――が。
【ごめんね。でも前にも言った通り、九条さんと話がしたくって】
【話す事なんて何もないけれど】
【一応話題はいくつか送ってるつもりなんだけど……】
突き放された事を微塵も感じさせず、蓮司はメッセージを返してくる。
文面から苦笑いしつつ頬を掻く彼の姿を想起して、彼女は自然と笑みをこぼした。
「………少し、くらいなら」
【あなたが送って来た、ハムスターの動画。あれは悪くなかったわ】
【本当?九条さんもハムスター好き?】
【小動物は見ていて癒される、とは思うわ】
【すっごいわかる。俺もハムスターとか、犬とか猫とか、超好きだし】
どうせ返事をしたのなら、と、会話を続ける。
送られてきた動画に関する話から、好きな物、趣味、休日の過ごし方………当たり障りのない会話だが、彼女にとって十数年ぶりの、否、初めてのまともな会話。
人を遠ざけるような言動ばかり続けてきたために、彼女の送るメッセージはどこか冷たく言葉足らずだが、蓮司の高い読解力とトーク力が会話を楽しいモノへと昇華させていた。
なお平常心を保ちながら会話しているように見えるが、初めて玲香とまともに会話できた蓮司は、自室でガッツポーズを取りながら勝鬨をあげていた。
一度関わってしまえば、次が欲しくなる。
忘れ去ろうとしてきた欲望が、次第に顔を出す。
「おはよう、九条さん」
「……ええ、おはよう」
挨拶を返すようになった。
「お昼、一緒に食べても良いかな?」
「………どうせ許可が無くても隣に座るでしょう?」
「ははっ、そうかもね」
昼食を二人で取る事が多くなった。
「良かったら、一緒に帰らない?」
「………好きにしなさい」
帰り道を一人で歩く機会が減った。
「じゃあ、その気になってるお店を教えてあげる代わりに……一緒に行かない?なーんて」
「―――良いわ、行きましょう」
「えっ、良いの!?」
デートにも行った。
十数年続けてきた、人を遠ざける言動は変わらない。
だが、言葉が刺々しくとも、態度が冷たいままでも、蓮司に歩み寄る姿勢を見せ始めた。
恐る恐る、一歩ずつ、彼との距離を縮めていった。
【おやすみ、九条さん】
【ええ、おやすみなさい】
「…………ふふっ」
スマホを眺め、微笑む。
愛おしそうにチャット画面を眺める姿は、まさしく恋する乙女。
「明日は、休日………」
連絡先交換から、二週間。呟く声は、わずかに低い。
嫌いだと公言して憚らなかった相手と会うことが出来ない事に、彼女は寂しさを覚えていた。
しばらくベッドに横たわったまま黙っていた彼女は、徐に文字を入力し始め、そのまま勢いに任せて送信した。
【明日、予定は無い?】
送って、すぐに我に返る。
慌てて送信取り消しを行おうとするが、それよりも早く蓮司から返事が来る。
【無いよ。何かあった?】
「あっ……」
キーボードの前で、指先が揺れる。
これまで自分から蓮司を誘うような真似をしたことが無く、どうしても言葉を続ける事に躊躇してしまう。
だが、いつまでも待たせるわけにはいかない。本来なら、彼は寝ているはずなのだから。
玲香は意を決して入力し、送信する。
【良ければ、買い物に付き合ってもらえないかしら】
【喜んで!どこに、何時に集まろうか?】
「―――返事、早いわね」
もう少し余韻があるかと思った、と、つい呆れたような声を出してしまう。
それでも彼女の顔は、隠しきれないほどの喜びに彩られていた。
その後は、明日の予定について軽く話し合って、会話を終えた。
今度は満足そうにスマホを胸元に抱きしめ、小さく息を吐いた。
「はぁ………私―――好き、なのね。御堂君の事」
自分から求めるようになってしまったなら、今更取り繕う必要なんてない。
声に出して、芽生えていた、目を背けていた感情を受け入れる。
それでも、敢えて声に出した自分の想いがなんだか気恥ずかしく、玲香は枕に顔を埋めた。
♡―――♡
どこか照れたように毛先を指で弄ぶ九条。
時折向けられる視線には、期待が込められているような……そんな気がする。
「ごめん、九条さん。その日は、別の人と行く約束をしてて」
だから、という訳では無いが、申し訳なく感じる。
九条から誘ってくるのは、凄く、それはもうすっごく珍しいのだ。
そりゃ、嫌いなんて公言されてるんだし当然と言えば当然かもしれない。
だがそれだけではなく、なんだか言い出す度に酷く緊張しているような………まるで人と話す事が凄くハードルの高い事だと考えているかのような、そんな雰囲気があるのだ。
まぁ、勘だし当てにならないけど。
「…………そう。もしかして、妹さん?」
「いや、西城。割と有名人だし、名前くらいは聞いたことあるんじゃないかな。実は中学からの友達でさ」
「西城、蒼」
「そうそう―――え、何?」
手を掴まれる。綺麗だった瞳が、なんだか昏く濁っている。
今まで彼女から向けられたことのない視線に、思わず生唾を呑み込んだ。
「………それは、二人きり?」
「まぁ、うん。俺からは他に誘う予定はないかな」
友達同士で遊びに行く、くらいの気持ちだが、勘違い野郎時代の俺ならデートと言って憚らなかったはず。
デートに他の人を、まして女を連れてくるのは御法度だろう。
俺の返事に小さく「そう」と呟いて、九条は動かなくなる。
しかし手を掴む力は弱まるどころか強くなり、ちょっと痛い。
「御堂君」
「は、はい」
「西城さんは、何組だったかしら」
「二組、だけど」
「そう」
ようやく口を開いたかと思えば、よくわからない質問をされる。
なんだ、殴り込みにでも行くのか?流石にそれは無いか。
手を放し、九条はそのまま屋上を去ろうとする。
去り際に、ドアノブに手をかけたまま、視線をこちらに寄こしてきた。
「―――また、後で」
静かにドアが閉まる。
残された俺は、掴まれていた手を撫でつつ、溜息を吐いた。
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