第17話

「いつでも顔を見せに来なさい。彰人くんが施設から離れ難いように、私たちも彰人くんから離れ難いのだから」

「………そんなこと言われたら……帰ってきたくなっちゃうじゃないですか……………」

 それは注意していなければ聞き逃してしまうような、とてもとても小さな呟き。苦々しげで、切なげで、優しげで、縋る様な。沢山の感情が織り込まれた、多色の声色。

「帰ってきたらいいですよ」

 何をそんなに躊躇っているのか。卒業生が遊びに来ることなど、別に珍しいことではない。言ってみればこの場所は、彼らの実家同然なのだ。里帰りしたくなったら、すればいい。彰人だって、帰ってきた卒業生たちに何度も会っている。いつだって会いに来られることを、知らないはずがないのだ。

 唐突に振り返りこちらを向いた彰人の顔に、もう悲しみの影はなかった。それどころか、涙の痕さえも。代わりにあったのは、綺麗な笑顔。

「そうですね。帰ってきます」

 何かがおかしい。そうは思ってみたものの、どこが、とは言い表せない。

「それじゃ、そろそろ戻らないと時雨が五月蝿いので」

 幸せそうにさえ見え得る笑みを閃かせ、院長室を出て行ってしまった。残されたのは、部屋の隅に沈殿する悲しみの薫りと、日の当たる場所に漂う幸せの薫り。相反するそれらが混ざり合い、決して本質を掴ませなかった。

「慧さん、彰人くんのお見送りの時間ですよ」

 登美子に呼ばれ、我に返る。何か彰人の大事な部分を見落としていたのではないだろうか。そんな思いを引きずって、玄関を出た。

「いつ会えるの」

 そこには、彰人に縋り付いて泣きじゃくる時雨の姿があった。彰人は何と応えるのか。私も含め、スタッフも子供たちも、二人から少し距離を置いているのがわかった。皆が知っていた。時雨を措いて、真に彼の心を開ける人はいないと。

 彰人の腕は、行き場を求めて彷徨っていた。抱きしめることを躊躇うようにそっと、左手だけで背中に触れ。強く握り爪を立てていた右手をついに解くと、その手を時雨の頭の上にのせた。初めは恐る恐る。それもついに自制できなくなり、強く、抱きしめた。

「……桜が咲いたら、な」

 確かな言葉で、曖昧な表現を口にした。時限の明示を避けた意図。

 それが、彼なりの優しさだと気づいてしまったから。

「絶対だよ、桜が咲いたら、また、会えるんだよね」

 その台詞とは裏腹に、時雨も何かに気がついているようだった。それでも、彰人の言葉に縋り、彰人に帰る場所を残そうとしていた。

 お互いにお互いを想い、傷つけ、救われてきた。

 二人が選ぶ未来だから。

 親として、彼らの選択を見守り、幸せを願う権利と義務がある。

 遠回りしても。二人ならきっと。

 私は、信じている。

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