第10話

 母の死。その未来が頭を過ぎった瞬間、俺の心を支配した感情は何だったでしょう。今となってはもう思い出すことはできませんが、兎に角俺は、母を助けなくてはと思ったのです。

 同じ忍び足でも今度はとても緊張し、胸は早鐘を打ちました。水を飲むために台所に来たはずなのに、無意識にこの手が掴んだのは父と同じモノでした。それをしっかりと握り締め、再び寝室を注意深く覗くと、父は今正に、モノを振り上げたところでした。その腕の影が母の寝顔を覆った瞬間、俺は音の消えた部屋に飛び込みました。

 低く短い、父の喉が鳴る音。そして、からん、と父の手にあったモノが床に落下しました。純な光を反射するそれの周りに、赤黒い液体がぼたぼたと降り注ぐ光景を、不思議な気持ちで眺めていると、大きな父の身体があっけなく崩れ去りました。

「あ、お母さん」

 父が消え、視界が開けると、母と視線が合いました。眠たげな瞳はしかし、一瞬にして赤く染まりました。俺はこの目が大嫌いでした。この兎の様な真っ赤な目をしているときの母は、母の身体をした別の人になってしまうからです。

「あなた…あなたっ!」

 勢いよく起き上がった母は、水溜りの中で寝ている父に縋り付きました。そして、俺の嫌いなその目で、真っ直ぐ俺を捉えました。

「お前が殺ったのね」

「…お…お母さん、待って!」

 母が俺に振りかざしたのは、床に転がったままになっていた綺麗なモノでした。俺はすんでの所で母の華奢な手首を掴んでかわしましたが、何やらぬるりとした感触の所為で直ぐに離してしまいました。距離をとってからもう一度母を見ると、白い肌の中俺が触れた手首の一点だけが、赤黒く着色されていました。

 不思議になって見つめた自身の手は、それ以上に濃い赤を発していました。

「私の愛する人を、返して!」

 泣き叫び、刃を向ける彼女を、止めなければと強く思いました。俺と同じ事をさせてはいけない。ただそれだけが、頭の中を占めました。

「死ね!!!」

 耳元で叫ばれた台詞は、最早幼い頃何度も絵本を読んでくれた、俺の愛したあの母の声ではありませんでした。

「は……っ……」

 息の漏れるような音の後―――。


 俺は独りになりました。

 独りぼっちになりました。

 二人の横たわる真っ赤な寝室の床を見詰めながら、ベッドの上で体育座りをしていました。

 日が昇り、日が沈み、また日が昇っても、両親が目覚めることはありませんでした。

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