第5話
彰人は一向に壁を崩そうとはしなかった。無干渉で無感動。その代わり、問題行動も一切せず、集団の輪を乱すようなこともしない。
だからこそ、スタッフ陣だけでなく慧でさえも、彰人の扱いに困っていた。悪いことは何一つしていないのだから注意するわけにもいかないし、「みんなと仲良く遊ぼう」と声を掛ければ、反発することもなかった。しかし何をしていても変わらず無表情で、心を通わせようとはしていなかった。―――まるで心自体を持ち合わせえはいないかのように。
「彰人お兄ちゃん、宿題教えて」
自室で窓の外を見つめている彰人にそう話し掛けるのが、私の日課になっていた。勉強は出来る方だったので、小学校の宿題程度でわからない問題はめったに無かったのだが、何しろ彰人との話題が思いつかなかったのである。つまりは、彰人に近づく口実が欲しかった。それだけだ。
「何処がわからないの」
「これ」
わざと空欄にしておいた問題を指差すと、彰人は早速さっと目を通してシャーペンをとった。くるりとお見事なペン回し。ペンを持つと、必ずこれをする。そんな小さな癖を知っただけで、嬉しくなる。
「まず、ノートを買った時の代金を求めて」
始めのうちは、正義感と児童指導員への憧れ故に彰人との時間を稼いでいた。しかし、それはほんの数週間のことだった。一つの学習机に二つの椅子を並べて、同じことを考えている。この時間が楽しくて、幸せで。
―――家族って、こんな風なのかな。
そんなことを思ってみたりもして。
もっと一緒にいたい。毎日会っているくせに、同じ屋根の下にいるくせに、別れる度に次に話すのが待ち遠しくなる。
「時雨さん」
名前を、呼んでくれた。一ヶ月を経て、ようやく。
「はいっ」
「……俺なんかと毎日一緒にいて、つまらなくないの」
嗚呼、また。心が凍り付いていく。それでも不思議と、嫌悪感はなかった。あるのはひとつ、悲しさだけ。
「ごめんなさい。毎日毎日、迷惑だよね」
理科のノートに、水滴が落ちる。色ペンを使った部分が滲んだ。
「泣き虫だね、時雨さんは」
ぽふ、と低体温の手が頭上にのった。
「俺も泣けたら、そんな綺麗な花も見られたのかな」
「…花?」
わけがわからず顔を上げると、ノートを指差された。そこには、幾つもの涙の跡。そして。
「ほらここ。朝顔みたい」
涙に濡れたインクが放射線状に広がり、確かに朝顔のようにも見えた。色とりどりの花が咲き乱れ、いつの間にかお花畑になっている。
「何だか綺麗」
呟くと、髪をわしゃわしゃと掻き乱された。
「な、何す……」
皆まで言えずに、呑み込んでしまった。
彰人の瞳に、私が映っているのを見つけたから。
彰人の表情が、あまりにも切なくて、苦しげで、それでいて…優しかったから。
その日を境に、彰人は変わった。独りが多いのは相変わらずだったが、自分の意思を表に出せるようになってきた。極希にだが小さく、本当に小さく、笑うこともあった。
しかし、その変化に気づけていたのは私だけだったのかもしれない。彰人と一番長い時を共に過ごし、一番近くにいたのは私だったから。
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