第4話

 遠慮がちに扉をノックする音がした。

「どうぞ」

 宿題の数式を解く手を止め椅子ごと後ろを向くと同時に、扉が細く開いた。ひょっこりと顔を覗かせたのは、佐保である。

「慧さんが、しぃ姉ちゃんのこと呼んできてって」

「ありがとう。慧さんは院長室にいるのかな」

「うん」

 しゃがんで頭を撫でると、はにかむ様に笑った。こんな顔を見られると、やはり児童指導員になりたいという気持ちが増す。

「じゃあ、慧さんのところに行ってくるね」

 部屋を後にし、院長室へと向かう。

「失礼します」

「どうぞ、入ってください」

 扉越しにもわかる、柔和な声が応えた。

「あぁ時雨ちゃん。呼び出してすまなかったね」

「いいえ」

 手で示されたソファーに腰掛ける。慧自身も、向かい側に座った。

「さてと。時雨ちゃんもついに十八歳になってしまったわけだけれど、退所後の予定は変わらないかな」

 児童養護施設にいられるのは、満十八歳までと定められている。これまでにも沢山の兄や姉がここを出て行った。しかし私は。

「心変わりはありません。ただ…来春、この施設のスタッフに求人はありますか」

 真面目に質問したのに、慧はさも可笑しそうに笑った。

「時雨ちゃんは既にスタッフ要員としてカウントしてしまっているからね。大丈夫、もうちゃんと時雨ちゃんを雇うことになっているよ」

 ほっと胸を撫で下ろす。高校を卒業したら猪木院で雇ってもらいたいと、予てから話してあった。

「どうして、ここに残りたいの」

 それは今更過ぎる質問だった。

「私を守ってくれたこの家を、今度は私が守れる場所にいたいからです。慧さんにお話ししたこと、以前にもありましたよね?」

「まあ、そうなのだけれど……」

 慧にしては珍しく、言葉を躊躇っているようだった。

「もしも時雨ちゃんがここに残りたい理由が彰人くんにあるのならば、申し訳ないけれど止めようと思ってね」

 彰人。

 久しぶりに聴いたその名は、私の心臓を押さえつけた。

「何故…ですか」

「彼は恐らくもう、ここに帰っては来ないだろうからだよ」

 心のどこかで、気づいていた。

 気づいていて、目を逸らしていた。

「でも、彰人は確かに私に言ったんです!」

 桜が咲いたら。

 最後に聴いたその言葉だけを頼りに、彰人を待ち続けた。一年目の春、若葉の茂る桜の木を見るのが嫌で、桜並木を避け遠回りして登下校した。二年目は、彰人に何かあったのではないかという恐ろしい想像を消しきれず、毎晩こっそりと泣いた。三年目――今年の春、半ば諦めの気持ちを胸に、毎日何度も彼を夢に視た。

「時雨ちゃんに、話しておきたいことがある。卒業した直ぐ後、私宛に彰人くんから手紙が届いていたんだ」

 慧にしか開けることのできない、鍵付の引き出し。その中から白い封筒を取り出した。

「この中に、彰人くんの真実が記されている。きっと、これを読めば時雨ちゃんはとても苦しむことになるだろう。それでも、全てを知り受け入れる覚悟があるかい?」

 重々しい雰囲気に、怖気づきそうになる。しかし、彰人の真実を知りたいという気持ちが遥かに勝った。

 きっと何か理由がある。彰人が約束を守れない理由が。

「たとえ彰人に何があったとしても、私は目を背けたりはしません」

 慧は何処か悲しげに優しく微笑むと、彰人からの手紙をそっと差し出した。

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