【アップ】男山教会2023年3月26日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

天川裕司

【アップ】男山教会2023年3月26日礼拝説教/讃美歌とMynoteもあります

【本日の礼拝メッセージ】

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=I8NV7Jcbt00&feature=youtu.be


【アメーバブログ】

聖書や讃美歌の内容などは、こちらのブログより閲覧できます。

ぜひお気軽にお立ち寄り下さい^^

https://ameblo.jp/yujiteiou/entry-12796272618.html



前奏

招詞 詩編65編2~6節

頌 栄

たたえよ、主の民[こ改25]

開 会 祈祷

主 の 祈り

十戒・祈祷

子ども説教

子どもと親のカテキズム問28

「イエスさまはまことの人」

こどもさんびか

キリストイエスは[旧31(1)]

牧 会 祈祷

讃 美 歌 142番(1,2,3)

聖書

ルカによる福音書22章35~38節(新約P155)

イザヤ書53章6~12節(旧約P1150)

説 教

「財布と袋と剣と

~主の受難を身に帯びる者たちの備え」

宮武輝彦

祈 祷

讃 美 歌 142番(4,5)

みことばの交読文

詩編22編28~32節

感謝のささげものと執り成しの祈祷

頌 栄  540番

報 告



讃美歌~♬


讃美歌142番(歌詞付)54年版「栄えの主イェスの」

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=suNQ0U3EqQA


1

栄えの主イエスの 十字架を仰あおげば

世の富とみ誉ほまれは 塵ちりにぞ等ひとしき

2

十字架の他ほかには 誇ほこりはあらざれ

この世のものみな 消えなば消え去れ

3

見よ主の御頭みかしら 御手御足みてみあしよりぞ

恵みと悲しみ こもごも流ながるる

4

恵みと悲しみ 一つに溶け合い

茨いばらはまばゆき 冠かむりと輝かがやく

5

ああ主の恵みに 報むくゆる術すべなし

ただ身と魂たまとを 献ささげてぬかずく


頌栄集 讃美歌539・540・541・542・543・544番 メドレー

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=6lHQPiZILD0

(ブログを見て下さると歌詞も閲覧できます)



2023年3月26日 礼拝説教 中心聖句

 

それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」

ルカによる福音書22章35節


病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ 彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。

イザヤ書53章10節


はじめに

主の受難と復活の御業を感謝し、主の贖いと命を伝える使命を覚えたい。

「それから、イエスは使徒たちに言われた」とは、主の備えられた過越の食事の席(主の晩餐)についていた弟子たちの中から十二人を選び、使徒(主の任命によって派遣され、立ち行く者たち)と呼ばれた者たちに言われた事(6章13節)。「時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった」(14節)。

この時、イエスは、ご自身の体と血をしるすパンと杯を使徒たちに与えられる。同時に、イエスは、弟子の一人ユダの裏切りを予告される(21,22節)。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)と言われ、ご自身が十字架にかけられる時が近いことをご存知の上で、それが、神の許容された中でのサタン(悪魔)の仕業であることを、シモン・ペトロにとくに告げられる。「するとシモンは、『主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております』」と決意を表明する。それに対して、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(33,34節)とイエスは予告される。

「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき」とは、「それなしに」ということ。かつてイエスは、「財布も袋も履物も持って行くな(取り上げるな)」(10章4節)と命じられた時のこと。イエスは「何が不足したものがあったか」と問われ、「いいえ、何もありませんでした」と使徒たちは答えた。この時、イエスは、「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」と命じられる。かつて、「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(10章17節)と七十二人の弟子たちが喜んで報告したほどの事態を経験しながら、今は、サタン(悪魔)の仕業が顕著になる事態を迎えている。この事態の変化の中で、イエスは、正反対の命令をされる。それは、世の拒絶と迫害の中で、必要な準備を命じるもの。そして、その極みは、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するから」とイエスが予告されるとおり、自ら十字架刑に処せられることの実現(成就)を見ること。

「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエスは、『それでよい』と言われた」とは、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」(22章53節)と、闇(悪魔)の支配を知っておられる主の言葉。使徒の手にする剣は、大祭司の右の耳を切り落としながら、主はそれをいさめ、「その耳に触れていやされた」(22章51節)。主は、十二人の一人ユダの接吻によって裏切られ、人々に捕らえられ、大祭司の家に連行される。ペトロは、そこで、主の予告のとおり、鶏が鳴く前に、三度、主を否んだ。ペトロは「外に出て、激しく泣いた」。

おわりに

主は「自らを償いの献げ物とし」「自らの苦しみの実りを見」「自らをなげうち、死」なれた。人の所有は、主の贖いの代用補助に一切ならない。ただ、主に贖われた者たちは、所有の利得から自由にされ、主の言葉と、命を携えて出ていく。



(Mynote)


二〇二三年三月二六日(日曜日)、今日も礼拝を守れる環境が与えられて居る事を神様に感謝する。

(子供メッセージ)

『子供と親のカテキズム問二八』

「どうして救い主は誠の人でなければならないのですか?」

「神様に背き、罪を犯し、神様の怒りと裁きを招いたのは私達人間です。救い主は、罪のない誠の人として私達に代わって罪を償う必要があったからです。」

(公同礼拝)

『ルカによる福音書』(第二二章三五〜三八節)

『イザヤ書』(第五三章六〜一二節)

イエス様が人々の罪の為に神様との間で執り成し、人の罪を救う為に十字架に付けられる迄の自分の事を話された。それを聴いて居た弟子達も未だ事が起きる前だったので、この時、イエス様が何を言われて居るのかよく分からなかった。『イザヤ書』には、イエス様が何の抵抗もせず、全く罪の無い存在(人)であるのに拘らず、罪人と同じ様に裁かれ、その墓も罪人と共に設けられ、悪人(罪人)と共に在る様にされた。

この事は全て主(神様)がイエス様に与えられた使命であり、これにより全ての人がその罪から救われる最大の恵みを受ける事が出来た。この事は人の罪にとって最大の恵みである。

イエス様の身に起きた全ての事を理解する場合、必ず信仰に依らなければ成らない。この信仰から人を引き離すものは悪魔である。だからイエス様の事、その事柄から得られる恵みをずっと理解せず儘、それで良いとする人の心は、全て悪魔がそうさせて居る。その淵から全ての人はどうでも脱け出し、正しい初めから在る正義、信仰に立ち返らねば成らない。弟子達はイエス様と違い、未だ人としての罪と、その罪による迷いに変わらず苛まれて居た。その弟子の内の一人であるイスカリオテのユダは、イエス様を自分の利益の為に(結果的に)裏切る事に迄なる。

神様が示された道(信仰の道)を歩む時、全てのものは備えられ、使徒となるその人が不足する事は無い。イエス様は常に弟子達を始め、全ての人を憐れまれた。それは十字架に掛かられ、天に召される(神様の右に座す)その時まで成された事だ。その憐れみから弟子達にこの時、「財布のある者は、それを持って行け。袋も同様に持って行け。又、つるぎの無い者は、自分の上着を売って、それを買うがよい…」と言われたのか。イエス様は全ての事を承知して居られた。この事は『ルカによる福音書』(第一〇章一〜一六節)に記されて在る。ここでイエス様は宣教に出ようとして居た弟子達に、「必要と思う何も持って行くな」と言われ、更に「私があなた方を遣わすのは、小羊を狼の中に送る様なものである」と言われた。詰りそれだけ宣教の道は危険であると知らされる。

『ルカによる福音書』(第一〇章一〜一六節)

そしてその後、第二二章三五〜三八節迄では、その時(第一〇章一〜一六節)とは正反対の事をイエス様は弟子達に言われて居る。これは一体どう言う事か?

宣教を終えて戻って来た弟子達は、「悪霊さえ私達の祈りにより屈服しました」とイエス様に伝え得意がった。しかしイエス様はそれを戒められ「あなた方はそれを喜んではならない」と言われた。悪魔退治が出来る事を幾ら誇っても、それは信仰の道に於いて何の手柄にも成らない。悪魔が主導権を握って居るかの様に見える。「物を持って行け」と言う理由。必要な準備をせよ、と命じられて居る。イエス様が十字架に掛かられる迄の人の間の出来事は、全て悪魔が為して居る。しかしその悪魔は神様の許可無しに行動出来ない。『ヨブ記』では、悪魔は神様に挑戦した。でも神様は「ヨブの命だけは取るな」と悪魔に命じた。だから悪魔はヨブの命を取る事は出来ず、代わりにその他の全ての事(出来る事)をヨブにした。ここでも分かる様に、悪魔は神様に従う上、神様が許可した以外の事は一切出来ないで居る。

イエス様を十字架に掛ける事は悪魔にしか出来ない。しかしそれは同時に神様の御心(御計画)でもあった。この点が人間には難解である。悪魔は神様が許した範囲でしか動けない。悪魔は人々を篩に掛ける事を願って居る。その篩は「神様の側に付く者と悪魔の側に付く者とを分けるもの」であろうか。悪魔がする事も、神様は全てご存知である。その前後に於いてご存知である。

「『彼は罪人の一人に数えられた』と記して在る事は、私の身に成し遂げられねば成らない」イエス様を十字架に付ける事は悪魔にしか出来ない。人間の罪にはしない。悪魔の罪にする為。神様の御計画。「私に関わる事は成就して居る」ここで言うイエス様に関わる事は「十字架に付けられる事」。詰りこの「十字架に掛けられる事は初めから決まって居る」と言う事。神様が備えられたこの時。悪魔が牙を剥く時。弟子達には「必要な物は持って行け」とイエス様は言われた。ペテロはイエス様が捕えられた時、同罪として逮捕され掛けた時に「イエス様の事を私は知らない」と鶏が鳴く前に三度言った。これはペテロがイエス様を否定した事に在り、人の罪が為す事に在る。十二弟子のペテロでさえ、人としての弱さと罪が在った。そしてユダは過越しの祭りの時、最後の晩餐の時にその悪魔が入り、イエス様を裏切った。他の全ての弟子達も、イエス様が捕えられ十字架に掛けられる迄、イエス様を見捨て、イエス様の傍から離れて居た。

イエス様は自らを投げ打ち、全ての人の罪を救う為、その神様の御計画の中、自らその道に服された(私に与えられた盃)。


【日本キリスト改革派 男山教会】

https://otokoyamakyoukai.jimdofree.com/


【最寄りの教会検索用】

https://www.rcj.gr.jp/



Table Café~


「天地創造とあなたの価値」THE DAILY with Arthur Hollands 2023/03/31

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=ffEIx_bn3Jk


中川牧師とめぐる旅:成田出発

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=U_sTiQOlwzg


Kim Carnes - Bette Davis Eyes

https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=EPOIS5taqA8


不思議のパルプンテ

https://www.youtube.com/@user-vh3fk4nl7i/videos

(お暇な時にぜひどうぞ)




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