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 あの会社とは一体、何なんだろう。

 こんな疑問は終始持っていたが、ここに来てそれが極まった。ようやく入った壁の内側には何もなく、まるですべてが砂の城だったように指先から零れ落ちて消えた。内側にあるのは、紛れもなく街だった。それには助かったこともある。泊まれる宿もあり、調査もどうにか続けることができた。続ける意味があるのかは、別として。

 この街自体が会社であるのなら、それはもう私には判別のしようがなかった。道行く人や商店の店員に、あの会社の社員かどうか、訊ねてみることはできる。しかし、肯定されても否定されても、どうしようもない。結局、何もできないまま、あてどなく街をさ迷った。歩いていればまだ何か見つかるかもしれない。一縷の望みというよりは、もはや祈りに近く、止まることは全てを失うことに思えた。

 そんな状態でも避けられない食事や買い物を続けるうちに、お気に入りの店ができて少しずつではあるものの、確実に生活の根みたいなものが壁の内側にも張り始めていた。

 酒量が増えた。連日外食で、外に出れば飲むのを堪えるのが難しかった。行きつけの店ができ、店主と馴染み、次いで常連客と馴染んだ。なんとなく、馴染んでも会社のことを話題にしなかった。理由は自分でも分からない。しかし、ある時ふと。

「友人でしたっけ、どうなったんです、あの会社に入るとか」

「ああ、ダメダメ。てんで無理ですよ。まあ、分かってましたけどね」

 そうですか、そりゃ残念だと続ける店主の言葉に重ねるようにして訊ねていた。

「あの会社って」

「そりゃもちろんあの会社だよ」

 そう言って常連の一人が教えてくれた会社名は紛れもなく、あの会社のものだった。逸る気持ちを抑えながら、情報を拾い集めると、なんと会社はそれほど遠くない所にあるらしかった。店の前の通りをずっと西に向かって二番目の交差点を右、あとはずっとまっすぐと、親切に教えてくれた常連の怪訝そうな顔。来たばかりだから、一度見てみたいなどと適当に誤魔化して店を出た。

 明日まで待っていられない。入る入らないはともかく様子だけでもと歩き出し、教えられた道をどんどん進む。やはり高いビルのなのだろうか。それとも、広めの敷地に複数の建物といったところだろうか。けど、結局周囲を囲う壁は何だったのだろうか。もしかして、訪問した側が勝手にあの会社の敷地だと思い込んでいたのか。あり得そうな気がした。そこに詐欺師が乗ったか、順序が逆か。今はどうでもいい。とにかく、ようやくだ。ようやく自分は長年の目的地にたどり着こうとしている。

 道の奥に壁が見えてきた。

 どうやら壁の内側でも端っこの方にあるらしいと考えているうちに、壁まで来てしまい、そこには門があり、守衛がいた。こんな遅くなのにまだいた。捕まえて聞いた。多分、顔いっぱいで困惑を表現しながら。

「ここは」

 告げられたのはやはり、あの会社の名前と、ここがその正門であることだった。



 チーフになった俺。チーフになった俺。

 年甲斐もなく浮かれて情けない。けど、どうだ。最初は数人で始めた詐欺だった。今では大勢でやってる詐欺だ。はは、結局詐欺じゃないか。押しも押されぬどころから、ちょっと押されれば瓦解する。だからこそ、ここまで来たことに達成感がある。砂の城、トランプタワー、ドミノ。一押しで倒れる美学。変な気分だ。地下でこそこそ通路の管理をしていた時にはなかった。自分で立ち上げ、自分で大きくした。そんなことが嬉しいのかもしれない。認められたような気分。所詮はただの詐欺集団でも、もっと大きなステップが踏めるように思えた。

 大きなステップって何だ。あの会社に認知させる。そんな常軌を逸した考えが頭の中にちらついた。ブレーキが壊れている。それには気づいていた。それでもアクセルを踏むか踏まないかは、まだ考える時間があった。大体、認知させるといって、具体的な方法となるとまるで案がないのだ。土台無理だし、無理なだけならいいが、存在が公になれば必ず報いを受ける。今受けていないのだって不思議なくらいで、だがその不思議のせいで気が大きくなる。楽しく悩んでいる内にも、競売参加者はどんどん増えていく。見たこともない金額が動き、何人もの人間が門の向こうへ消えていく。そういえば、競合の様子見とかいって出ていったあいつはどうなったんだろう。

 新しい通路。どうせ、行き止まりに決まってる。やってた俺が一番知ってる。似たような場所の話はよく噂に聞いた。まあ、決まってるって言ったって、自分では一度も入ったことはないんだが。誰も出てこないんだ。だから安心して、他人を騙して入れていた。今と変わらない。

 そうだ、このままじゃ通路の管理と変わらない。あの会社に認知させ、出来れば会社の一部署、それが無理なら協力会社にでもなって、それで初めて成し遂げたと言えるんじゃないか。自分がこんなに向上心に溢れていたなんて。人間、どんなに無気力でも成果が見えだすと馬力が上がるらしい。欲の皮、突っ張らせて行こうじゃないか。

 会社と接触することを決めた。まさか自分が門の向こうへ行くことになるなんて、つい最近まで全く予想もできなかった。決意したその日を境に、プレゼン資料の作成に没頭した。守衛業務の収益の伸び率を柱に、とにかくあらゆる側面から自分たちを会社の一員にすることのメリットを書きつけた。メンバー相手に模擬練習もした。正直どれだけ役に立つのかは不明だったが。

 出来得る限りの準備をすべて終えた翌日、社長とのアポを落札した。

 メンバーの誰かが提案したゲン担ぎだった。

 落札価格はゼロ円だった。



 体力も方途も尽きてしまうと、恐怖は否応なく、まるで半紙に落とした墨汁のように胸の内に広がっていった。何も見えない闇。目を開けていても、瞑っていても、同じだった。自ら離れた集団の声は、思いのほか一度聞こえなくなると、二度と聞こえてくることはなかった。自分が方向を過たず離れていったのか、それとも集団の方で声を上げる気力がなくなったのか、はたまた結束した集団がうまく脱出してしまったのか。いずれにしても一人だった。圧倒的に。

 ここへ来た目的を考えれば心細いなどと言うのはお笑い種だが、それでもそうした感情を持たずにはいられない。正気を保っていられる自信がなかった。けれど、案外狂うというのも難しいらしく、絶望を抱えながらただただ静かに時間が過ぎていった。その時間さえ、バッテリーの切れそうな携帯端末を時折見ないと、過ぎたことも分からない。音や時間さえも孤独に淀んでいるようだった。

 最初は楽観的に考えていたが、壁は一向に見つからなかった。不安から焦燥が滲み、歩調だけがどんどん速くなり、精神的な疲弊も相まって体力はあっという間に削られて今度は急速にペースが落ち、ついには足を止め、座り込んだ。自棄だったのだろうか。客観的に見て、驚くほど情けなかった。実際に死に直面することへの想像力が欠如していて、いざそれを目の前にして完全に縮み上がってしまっている格好だ。自分の客観的な姿を原動力に奮起し、立ち上がって、再び歩き出す。そんなことも何度か繰り返した。しかし、長くはもたず、歩いているとまたぞろ絶望感が強くのしかかってきて膝を折ってしまう。奮起する気力もなくなってくると、今度は本当に衰弱およびその先に横たわる死に対して顔を背けることもかなわず、嫌なのに何度もその様を思い浮かべてしまい、いよいよ精神的に追いつめられる。そこから逃れようとして矢も楯もたまらず飛び上がって走り出すのだ。もうぶつかった時のことを考えて腕を前に伸ばしたりはしない。全力疾走。むしろ、ぶつかった衝撃で死んでしまえるならその方がいくぶんか楽である。だが、現実は走り疲れて足を止めるか、足を縺らせて転ぶかのどちらか。

 体中に痛い所があった。だが、ケガをしているかどうかも見えない。立っても歩いても走っても転んでもあお向けになっても何も見えない。自分はきっとごく狭い範囲をぐるぐる回っているにすぎないのだ。最初こそ、方角なんかを頭に入れながら動いていたが、途中からはハチャメチャ。まさに何も考えずに突っ走ったりした。もう方角なんて分からない。分かったところで、どうということもない。

 目を開けているのに自分と外界との境界が分からない。それは奇妙な安堵をもたらした。自分自身が溶けて、自然の一部になっていくようなそんな安心感。死ぬというのはこんな感じなのだろうか。逃避から安心を得ようとしているのかもしれない。何が、中に入る通路を見つける、だ。できなかったら、そのままくたばってもいい。笑わせる。本気で見つけられると思ったのだろうか。守衛の仕事で入口のそばに居すぎたのかもしれない。いつの間にか自分も会社の一員である気になっていたのか。改めて遠さを思い知らされる。何と言っても、近付こうとしたらこうして死にかけているんだ。いや、いずれ本当に死んでしまうだろう。馬鹿な選択だった。思い上がっていた。それでもまあ、宣言通りここでくたばれば、内面の惨めさだけは露呈しないで済むわけだ。眠気が空腹を上回りつつあった……

 脇腹への衝撃。直後、体の上へ何かが倒れ込んできた。それで初めて寝ていたことに気がついた。寝ていたのか、気を失っていたのか。とにかく、あたりにはいつの間にか人の気配が満ちていた。倒れ込んできたのも人らしく、自分に躓いたようだった。顔を踏まれ、足を蹴られ、不分明な声を上げると、周囲の人間が驚いたようだった。

 奇跡だった。一緒に入った集団か、違うのか、そんなことはどうでもいい。窮状を訴え、仲間に入れてもらう。快く受け入れられたことで、追い込まれた集団独自の結束の強さや互助精神が強烈に伝染する。たとえそれが、今の状況に起因するものだとしても、本気でそれに従おうと思った。詐欺なんかやっていた自分が恥ずかしかった。

 集団を率いているのは女みたいで、不慣れな印象はあるものの牽引力はあった。

ここを出られたら、この人についていこうと思った。



 久方ぶりに通路へ降りて行ってみると、電気が消えていた。笑ってしまった。ひとしきりけらけらと笑い倒した後、怒りに任せて大声で悪態をついた。声はわんわんと響いた。

 須郷にやられた。本当にそうだろうか。でも、こっちには明かりをつけるスイッチなんてない。通路を覗き込むと思い出したくもないあの闇が広がっている。ここに呼び込むのか。会社へ繋がる通路だと言って。それはどう考えても憎むべきあの詐欺集団と同じ行為に思えた。どうなのか、実際繋がっているのだろうか。須郷からの連絡はない。

 しかし、明かりのついた通路で迷子になってしまうとは考えられなかった。それで命の危険が生じるくらいなら、戻ってくるだろう。やはり問題は、電気が消えていることで、どうして消えたのか、せめていつ消えたのかさえ分かればまだ判断のしようもあるのにと、臍を噛まずにはいられなかった。どうして、毎日ここへ降りて様子を見に来なかったのか。考えてみれば、連絡をくれるはずと安心しきっていたが、須郷がすぐに戻り、夜のうちにここから脱出したのであれば、それも察しようがない。

 いくらでも穴が見つかる気がして、滅入ってきた。楽観視しすぎていたのだ。けれど、どうして楽観視できたかと言うと、それは須郷を信用できると思ったからである。戻ってくれば連絡くらいくれるのではないだろうか。だとすれば、本当にまだ中にいて、さまよい続けているか体力が尽きて絶体絶命の状態になっているのか……

 いや、むこうに抜けて何かあり、それで連絡を忘れているのか。もし戻ってくれば、いやでも思い出すだろうし、あの性格なら知らずに入ってしまう可能性に配慮して、連絡くらいはくれそうなものである。それか、別段何か起こったわけじゃないが、単純に抜けられた喜びで連絡を忘れているのか。会社の傍流に押しやられ、ようやく抜け出たものの、次の指示が無いとは言っていた。本社への復帰でばたばたしているのかもしれない。

 都合よく考え過ぎだろうか。大体、そんな力づくの復帰が何になるのだろう。無茶苦茶な話ばかりだ。むろん、あの会社に関しては、ずっと無茶苦茶な話ばかりなのだが。上に直訴でもしているのだろうか。であれば、やはり連絡がないことを、通路が壁の向こうに抜けている証拠と見てよさそうな気はする。

 考えれば考えるほど、この通路をまともな入口だということにしたがっているように感じる。実際そうだろう。頭の中はすでにどうやって認知を広めていくのか、その方法の検討に入っており、とても冷静に判断しようとしているようには思えない。気持ちばかりが逸る。どうして須郷は連絡をくれないのか。一言、繋がっているとだけ教えてくれれば今すぐにでも始められるのに……

 毎日、通路の入り口でうろうろするのが日課になった。電波状況が良くないので、一定の間隔をおいて外に出た。焦燥感ばかりが募っていった。

 ある日、さすがに精神的に参ってきたので、少し離れるために散歩がてらの遠出をした時、皮肉なことに例の通路の営業と思しき人間に声をかけられ、それが決断のきっかけになった。

 噂を流すような形でスタートさせた。考えていた以上の速度で、まるで野火のように広がった。最初の一人にはかなり緊張したが、拍子抜けするほど簡単についてきた。あの会社へ入る手段に飢えているのだ。過去の自分を客観的に見せられたような気がして、少し嫌な気持ちになった。目隠しは使わなかった。似た景色が続く場所で、後から探すこともできないだろうと思った。それにそもそも、壁の向こうへ行くのだから、たとえ場所が割れても関係ない。通路が暗いこともあらかじめ伝えた。備えられるように。出来る限りフェアに行きたかった。あの詐欺集団のように怪しまれるのは我慢ならなかった。けれど、通路が本当に通じているか否かが不明である点だけは言わず、そのアンフェアには都合よく目を瞑った。ダブルスタンダードはしこりとなって残ったが、送り込む人間が増えても、誰一人戻ってこない状況が、その異物感を麻痺させていった。繋がっているのだ、やはり。

 一人運営ということもあって、少人数からスタートさせたが、すぐに捌ききれないほどの人が集まるようになった。こちらの顔が知られるようになってしまい、壁沿いの道へ行けば徘徊がわらわらと集まってくる始末だった。

 そんな折、一人の男が協力を申し出てきた。

 最初は別の通路のスパイか何かかと思って相手にしなかったが、粘り強く伝えられる熱意にほだされて、最後には承諾してしまった。けれど、失敗ということはなく、むしろ男は優秀な部類ですぐに業務の効率化をはかり、捌ける人数が増大していった。何人も何人も目の前で闇の奥へ消えていく。その光景にあった一抹の罪悪感はとうに失せ、むしろなすべきことをなしている誇らしい気持ちにすらなってきた。

 男はさらに人数を増やすことを打診してきた。反対はしなかった。ただ、人物の選定には細心の注意を払いたいと伝えた。二人でしっかりと判断しながら仲間集めを始め、最初こそはなかなか集まらず、入っても定着しなかったりと苦労もあったが、少しまとまった人数が維持でき始めると、あるところから急に膨れだした。中核になるメンバーにしっかりと目的が落ちていれば、存外急速な拡大もこなせた。

 気がつくと大きな組織になっていた。以前、自分を騙した詐欺集団の話は、いつの間にか聞かなくなっていた。本気になって情報を集めたが、まるでそんなものは最初からなかったかのように、誰もその存在を知らなかった。少しがっかりしたが、それでも自分たちが潰したのは間違いない。そう思えば達成感が込み上げてくる。

 そして、最大の競合が消えたその時、最初の男が失踪した。

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