9
パチッと、背後から音がした。
「電気、消さないと」
通路のある部屋から出るとそこは廊下で、同じようなドアが等間隔に並んでいる。高い天井と広い通路。並んでいる部屋は全て倉庫のようだったが、まさか一部屋ごとに外へ通じる通路があるのだろうか。そんなことを考えながらドアを離れようとした途端、背後から音と声がした。振り返ると、女が立っていた。セーターにロングスカートのカジュアルな格好で、首からは社員証らしきものがぶら下がっていたが、裏返っていて名前が見えない。
「あ、すみません」
気にすることはないというように手を振り、その人は去って行った。遅れて動悸がやってくる。何も恐れる必要はない。そう言い聞かせて落ち着き、その人が去って行った方向とは逆の方向へ歩き出す。ドアの上には部屋の番号が示されていた。通路に向かい合う形で二十のドア。自分が出てきたのは三番だった。
通路の端には、階段とエレベーターがある。少し迷って、階段を選んだ。密室では何かあった際の逃げ道がない。そんな判断をして、まるで犯罪者じゃないかと苦笑した。自己暗示もそう簡単にはいかない。何から何まで変わっていて、まるで縁のない場所。部外者であることを突きつけられているようだった。本当に自分の会社だろうか。そして後任の須郷は、本当に後任だったのだろうか。人事異動があったのに何も連絡がないのはどういうことか。まさか一方的に解雇されるなんてこともないだろう。それならむしろ、ここへ来る正当な理由があると言っていい。いや、現状どうしたらいいのか分からないのだから、そもそも正当性はあるのだ。
階段は、選んだことをやや後悔するくらい長かった。幸い、誰が下りてくる気配も後ろから上ってくる気配もなかったが、ゆっくりと休む心の余裕はなく、ひと息に上がる。上った先には金属の重い扉。非常用階段だったのかもしれない。もたれかかるように押し開けると、ドアの隙間から差す光に思わず目を細める。
向こう側は、何の懸念もなければ見ているだけで心が躍りそうな、広大なアトリウムだった。天井が映るほど磨かれた、白色大理石のタイル。高い天窓からは燦々と光が差し込み、森を切り取ってきたかのように植物の繁茂する植込みを照らしている。そこを無数の人たちが行き交う。会社というよりは、まるで大型商業業施設か何かだ。植込みの向こうに出入口と警備らしき制服。広い空間の中央にあるのはアート作品かと思っていたが、どうやら受付のようである。床と同じ大理石で造られた美しい曲線。天板にはガラスが使われていて、その向こうにはきれいな受付嬢が三人いた。威圧的とも受け取れる高級感で、こちらを尻込みさせるには十分である。
逃げるように奥へ歩きかけた。しかし思い直して、受付へ向かう。闇雲に乗り込んでは、どうすればいいか分からないだけでなく、もしかしたら咎を受けかねない。会社の中で部外者がいきなり発見されるより、入口に不審者が来ているという方が、まだしも相手から寛容な対応を期待できそうである。
冷静なつもりだったが、足元が覚束ないような感触もあった。呼吸も少し荒い気がする。
「こんにちは」
気づけば一直線に受付へ向かっていた。歩調からして目的地が明白だったせいか、受付の方から想定していたよりも早いタイミングで声がかかる。まだ第一声の作文も完成しておらず、ひとまず挨拶を返すだけにしてカウンターのすぐそばまで寄った。
「すみません、ここで聞くようなことじゃないかもしれないんですが、その、S市で名刺を配る業務についていた者で、後任の人間が来たんですけど、その後の自分の処遇というか、異動先の辞令が出ていなくて、どうしたものかと……」
営業スマイルが少しずつ無表情に変わる。まるでタイムラプス映像のようだ。それでも的確なタイミングで挟まれる相槌に励まされ、話し終えるとその内容は、ここで聞くようなことじゃないと、自分でも確信するほどに不審で滅茶苦茶な気がした。
「なるほど。お名前を伺ってもいいですか」
やんわりと追い返されるだろうという当てが外れ、変にどもりながら名前を告げると、受付の女性は背後へ下がって、壁の電話を手に取る。
親身な対応。それとも、そう見せかけて警備でも呼んでいるのだろうか。疑いの目を向けられないよう、少しでも余裕を表現できればと、電話している相手から目を背け、アトリウムを見渡した。高さは、四階分くらいはあるだろうか。これだけのアトリウムがあるということは、この建物全体はどれくらいの大きさなのか、ちょっと想像できない。自分のいたころのビルはどうなっているのだろうか。まさかここがその建物を改修した場所だということはあるまい。
受付嬢の電話が、なかなか終わらない。長引くほどに自信が薄れていく。そもそもこの場所に来て、帰ってきたという感覚は一切ない。まるで出向社員である。無理に乗り込んでこない方が良かったんじゃないかと、今さらの後悔がわだかまる。
「お待たせしました」
声に過剰反応し、必要以上の速さで振り返ってしまう。
「田中部長が人事部に来てくれとのことです」
「ああ、はい、分かりました」
どうやら、最初の関門を超えたらしい。思わず礼を述べそうになりながら、変に顔が緩みそうなのを悟られまいと、そのまま奥へ進みかけてすぐに戻る。人事部の場所が分からない。訊くと、四階だと教えてくれた。考えてみれば社員証もなく、会社内にも不案内。不審者だと言われて反論できる余地がほとんどない。けれど、その状況に苦笑いできるくらいの余裕は取り戻した。
八基あるエレベーターの、すぐに開いた一基へ乗り込むと、フロアは二十五まであった。考えてみれば、いや考えてみなくても、早くこうするべきだったのだ。次の須郷が来るまでと言われていて、事実、次の須郷は来た。であれば、自分はとにかく次の配属先を確認しなければならないのに、勝手にお払い箱かといじけていた節がある。名刺の業務だって、やり抜いたのだから、臆病風に吹かれる理由は何もないのだ。むしろ、あの業務の意味でも聞いてみようか。答えに詰まるようなら、廃止を提案してもいいかもしれない。
四階で降りると、カーペットタイルが足音を吸い込んだ。正面の壁に案内図を見つけたが、近づく間もなく横から呼び止められる。
「やっと来た。もう始まるから」
髪を後ろできつく結い、そのせいか鋭すぎる眉をのせた細い目が威嚇的につり上がった女。薄い上唇の下から飛び出す険のある言葉に、まごついてしまう。
「すみません、田中部長でしょうか」
「部長も来てるから。急いで、こっち」
勝手に個人面談を想像していたので、身がすくんだ。辞令をもらって新しい職場へ行くという感じではないのかもしれない。足が止まりかけたが、女の、有無を言わせない調子に引っ張られる。逆らえる状況でも気持でもなかった。エレベーターの右側の通路へ導かれ、そのまま奥のドアへと向かっていく。ドアには『四〇三会議室』とあった。
「失礼します」
心の準備も何もない。会議室にはコの字型に配置された机。上座の辺には、中年の男が一人。部長だろうか。入り口に近い二席が空いていて、計五席ずつが向かい合わせ。
「遅くなってすみません」
すみません、と倣って頭を下げる。
「いいから。座って、始めよう」
部長と思しき男に促されるまま着席する。何が始まるのか。まさか自分はここで質問され値踏みされ、進退を決定されるのだろうか。脇の下に嫌な汗を滲ませながら固まっていると、向かいの末席に座っていた男が立ち上がった。同じ立場の人間には見えない。銀フレームの眼鏡が離れてついた目を大きく見せていて、どことなくカエルのような印象を受ける。話し出すのかと思いきや、上座の真向かい設置されたスクリーン脇の小机に向かい、そこでパソコンを操作した。すると、天井に直付けされたプロジェクターから壁に向かってパソコンの画面が投影される。
「では、守衛組織の調査報告を始めさせていただきます」
まったく状況が飲み込めなかった。何の報告なのか、自分と関係があるのか、自分も何か報告をするのか。矢継ぎ早に湧いてくる疑問で、カエル目の話がほとんど頭に入らない。部長らしき男の質問に答えているの聞くに至り、どうやら自分は誰かと間違われてここにいるらしいと合点せざるを得なかった。しかし、報告はこちらが発言を差し挟む隙もなく進み、刻々と過ぎていく時間に手のひらがじっとりと汗ばんだ。男の話が終わり、休憩にでも入りそうな雰囲気になった瞬間、すかさずここへ連れてきた女に話しかける。
「すみません、話を聞いていてやっぱり、自分は誰かと勘違いされているように思います。私は、人事部の田中部長に呼ばれてこの階に来たんですが、というのも、直近で異動が決まったんですが次の異動先が分からない状態でして、もちろん私自身、おかしな話なのは分かってるんですが、とにかくそれで困っていて、その件で田中部長に会うことになっていまして、さきほどからここで行われている会議はどうも関係ないようなのですが、どうでしょうか」
言い忘れていた自分の名前を最後に付け加えて一気に話し終えると、呆けたような顔でこちらを見る女。やがて、話し終わったことに今気づいたかのように、
「やだ、ごめんなさい」
「どうしたの」
「いえ部長、すみません、田中違いだったみたいで」
こちらを覗き込むように首を伸ばした中年男に女が説明する。この人も田中という名前の部長らしい。聞き終えた男は鷹揚に頷いて、自ら人事部の田中部長へ連絡を取ろうと申し出た。半分椅子から浮いていた腰が沈んだ。腿が痺れている。一刻も早く出ないと。待たせたせいで、せっかくの復帰が水の泡かもしれない。そんなことを考えて無意識に椅子から身体を浮かしていたらしい。端末を耳にあてがう部長を見ながら腿をさすった。
電話が終わるのを待ち、逸る気持ちを抑えながら田中部長の方へ行く。
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、なになに、でもひと足遅かったみたいだ」
「と、言いますと……」
「どうも向こうの田中君、別の打ち合わせが入ってしまったみたいでね。終わったら連絡をくれるというから、まあせっかくということもないけど、はは、ここで私たちの会議に参加しながら待つといい」
「はぁ」
破れてないはずの網から魚が逃げたような、釈然としない気分だった。気持ちが前のめりなせいかもしれない。これくらい間の悪いことはいくらでもあるだろう。いずれにしても連絡はついているのだから、あとは待てばいい。腿に残る痺れを感じながら、席へ戻った。人違いのもととなった人物からは欠席の連絡をもらったから、そのまま席を使ってくれと、つり目の女の口調は大分柔らかくなっている。
先ほどまでとは打って変わって、会議の内容が頭に入ってくる。
どうやら目下、調査している企業があるようで、その企業の守衛について調べた情報を共有している会議だった。妙なのは潜入が目的である様子で、そんな回りくどいことをする必要性がどこにあるのか、疑問に思いながら会議に耳を傾けていると次第にその企業の輪郭が掴めてきた。
壁に囲まれた広大な敷地の中で、何をやっているのか今ひとつ分からない世界有数の大企業。正攻法ではアポ取りすら困難で、毎日飛び込みの営業が入口に蝟集しているという。どこかで聞いた、というよりまさに直近に耳にした話で、それは今いるこの会社のことではなかったか。報告は続き、集まった営業マンたちの目当ては、守衛が実施するアポイントメントの競売で、毎朝行われる盛んな入札が莫大な金額に上るという話に至って、自分は完全に混乱していた。ここが本当に自分の会社なのか、壁の中に入ったつもりでまだ外にいるのではないかと取り乱しかけたが、手元の資料の表紙にはしっかり社名とロゴが入っている。
会議の議題は、その守衛による競売が当の会社の許可を得ているのかどうか、というものだった。集めた情報から考え得る可能性を議論するのが趣旨のようである。様々な意見が飛び出したが、そもそも守衛全員が会社とは無関係の詐欺師であり、競られているアポはまったくの嘘、多額の金だけが守衛の懐に入り続けているというネジの外れた主張が議論のカンフル剤となった。
言ったのは、こちら側の席で一番奥、部長のすぐ隣に座っていた男で、高い身長に浅黒い肌、ぼうぼうと伸びた長髪は全体に灰色がかっており、ムラのあるその髪色のせいかやけに小汚い印象を受ける。物乞いがそのままスーツを着たようなその男は、まるで自分の経験談のように、守衛詐欺師説を主張した。
「さすがにあり得ないでしょう。大体、中に入れたらすぐに露呈してしまいますよ」
「次は中に入っていった人間が戻ってきているか調査したらいい。きっと誰一人戻ってきてないだろう」
「確かに、それは調査するべき事項だね。書いておいて」
部長が割って入り、次の調査事項として例のカエル目の男にメモを取らせる。
「出てこないからといって、露呈しないことにはならないと思いますが」
「出てこないということは、その嘘を暴露するどころじゃないんだろう」
小汚い男が自嘲気味に笑う。
「経験上、そういうのは意外とバレないんだ。あの会社へ入れるかもしれないという射幸心が視野を狭める」
「どんな経験ですか」
「似たような経験だよ」
先ほどから男の意見に食ってかかっているのは、向かいの席の真ん中の女で、短い頭髪にがっちりした体躯、よく通る声まで体育会を連想させる。とてもこの会社の出入口で同じようなことが起きているとは言い出せなかった。そもそも自分は無関係な人間なのだ。ここにいるのも、ただ人事部の田中部長の連絡を待つため。わざわざ波風を立てる意味はない。特に今の自分の状況では、リスクの方が大きいだろう。
議論の種は尽きず、盛んになされるやり取りを聞きながら焦れていると、田中部長の端末が鳴った。違う人間かもしれないと、期待し過ぎずに話し終わるのを待っていると、
「終わったみたい」
と部長がこちらを見る。
「人事部はちょうど真反対だから」
礼を言って会議室を出た。
真反対といっても、まだこの階の構造も把握していない。気もそぞろにエレベーター前まで戻って案内図を見ると、何のことはない、エレベーターを真ん中に据えたH型だった。真反対というから、反対の通路に出て、さっきとは逆の方向に曲がり進んでいくと、人事部のプレートを打ち込んだドアがある。
ノックにはすぐに返事があった。
ドアを開けると、中は先の会議室よりも広く、ちょっと見には人数がわからないほど多くの人がデスクに向かっている。椅子ごとこちらに向いた一番近くの社員へ、田中部長とのアポを告げると、部屋の奥にあるドアを指しながら、あの部屋です、とだけ言われた。
広いオフィスを、まるで初めて職員室に入った児童のように恐縮しながら横切りドアの前まで行った。こちらもノックに対してすぐに応答があり、入ると中は応接室だった。しかし奥にデスクがあるところを見ると、部長の仕事部屋を兼ねているようである。部長室ということになるのだろうか。聞きなれない言葉だが、これほどの規模になると部長にも部屋が一つ割り当てられるのかもしれない。肩書が具現化して迫ってくるように感じて、治まっていた動悸がぶり返す。
「こんにちは。どうぞ、座って座って」
部屋の中央に置かれたローテーブル。それを囲うように配置されたソファを指し示される。こちらが座るのを待って、部長もデスクから向かいのソファへ移動してきた。
「どうも、田中です」
少しおどけたような挨拶は、こちらの緊張を見て取り、気を遣ったのだろうか。精一杯の笑顔で応える。
「申し訳ない、急に別件が入ってしまって」
「いえ、とんでもないです。私も勘違いして、まったく別の場所に行ってしまって」
田中が笑った。愛想笑いとかではなく、本当に面白いと思っているかのような笑いで、何度か自分の膝を叩き、目じりを軽く拭って、ようやく治まる。笑うと顔がくしゃくしゃになるタイプ。その崩れ方には愛嬌があって、見ているうちに動悸が治まった。たわしのように量感のある短髪頭を掻きながら、
「そんなこともあるんだねぇ」
「まさか役職も名前も同じ方がいるとは思わなくて」
そう言うと、今度は一瞬で悲しげな表情になった。
「ええ、そうなんですよね……」
胸の奥がざわつく豹変ぶりで、いきおい謝罪の言葉が飛び出す。
「いやいや、気にしないで。平凡な名前がね、コンプレックスなんだ」
「そうなんですか」
「彼、あの経営戦略部の田中部長、実は名字だけじゃなくて名前も同じなんだ。田中実。知ってるかい、この国で一番多い名前なんだって、田中実は」
話の着地点を予想しながら相槌を打つと、田中部長はまるで舌に油を差したみたいに、饒舌に語り出す。
「正直な話、この会社にはね、たーくさんいるんだ、田中実。どの部署にもいると言っても過言じゃない。いくら多いったって、そんなことになるのは、おかしいでしょう。私はね、そう思って調べたんだ。まだ別の部署にいる頃だったけどね。そしたら案の定、それは意図的に行われた採用活動の産物だったというわけさ。つまり、田中実という名前の人物ばかりが採用されていた。田中実積極採用中、ってね」
最後の言葉を謳い文句のように強い語調で言って笑う部長を見ながら、こちらはすでに話しの着地点を予想できなくなっている。
「偶然、ということは」
「ないない。なぜなら、その理由も分かっているから」
「というと」
「責任回避なんだよ」
全く理解できずに黙っていると、部長は言葉を継ぐ。
「たとえばね、社内でミスが起きたとしよう。私はそういうタイプじゃないが、中にはどうしても行き過ぎた叱責をしてしまう人間もいる。そういう上司が問い詰めるわけだ。誰がやった、ってね。田中実です、って答えがある。でも、その部署はみんな田中実。どの田中実だって話になって、調べ始めたはいいものの、作業者署名はみんな田中実。作業に当たる人間もわざとそうしているとしか思えないアトランダムな割り振りで、日ごとに変わる。もうやんなっちゃって、じゃあもう全員が田中実なんだから皆の責任でと」
「なるでしょうか」
思わず口を挟んでしまった。
「なるんだよ、それが意外と。時間というものは、本当にあらゆるものを解決してくれる。当の上司だって、一向に進まない進捗報告を聞くのに疲れ果てて、田中実というワードを聞くだけで癇癪を起すようになる。もういい、もういいってね。自分も田中実なんだけどね。社内的なことだけじゃない。あなたがウチの取引先だとしよう。ミスの謝罪にきた部長から課長から係長から担当者まで、みーんな、田中実だったらどうだい。話をしていても、田中が田中がと誰のことを言っているのか分からなくなる。それでも気を遣って役職でも付けて分かるように言ってくるだろう。でも、そっちが言う時は煩わしくて仕方ない。煩雑さに負けて、田中さん、田中さんと呼んでるともう自分でも誰のことを言っているのか分からなくなって次第にどうでもよくなってくる。名前ってのは記号に過ぎないと言われることもあるけどね、けどどうしたってその記号を使って把握するんだ。耐久力も他の要素とは大違い。会う頻度がほとんどなくなって、名前以外のものがほとんど風化してしまった時、そこにあるのは田中実さ。もうそうなってくると誰が誰といった区別なんてつかない。これはね、賛同はしないけど、なかなか賢いやり方じゃないかと、私個人は思っているんだよ」
カバンに体積以上の荷物を押し込むような強引さを感じた。それに、そんなことが成り立つかという前に、まるで会社の暗部のような話に一歩引いてしまったこともある。反応に困って言葉を詰まらせていると、相手はまだまだ続ける。
「とはいっても、採用者を田中実に縛るというのはあまりに過酷だ。名前を優先して、優秀な志望者を不採用にしていたら話にならない。実際、それで結構、新入社員の質が落ちてね、責任回避の構造がフル稼働するという皮肉な話だったよ。そうでなくたって、ありふれた名前に劣等感を持ってる私にしてみれば地獄みたいなものさ。そこら中、田中実だらけなんだからね。けど、前任者は志半ばで異動になった、幸いなことに。そして後を引き継いだのがこの私というわけだ」
「それでは、田中実の積極採用は」
もはやただの雑談にしか思えなかったが、心証を悪くしても仕方ない。もしかしたら話が自分の処遇に着地するかもしれないと、舟に乗りかかった反対の脚で桟橋を蹴るくらいのつもりで合いの手を入れてみる。
「もちろん、やめさ。きっちり引継ぎをされたけどね。けど、会社にマイナスの影響を及ぼしているんだから、こっちには撥ねつける正当な理由がある。代わりに別の方針を提案する必要はあったけどね」
どうやら効果はあったみたいだ。いかにも訊いてほしそうな区切り方にそのままのっかり、その別の方針とやらの内容を問うてみる。
「ちょっと待ってくれ」
そう言って人事部長は立ち上がり、デスクから革張りのファイルを持ってきた。それを愛おしそうに撫でてから、テーブルの上へ、こちらに向けて開く。中は名刺だった。それもよく見ると全部この会社の社員の名刺で、次のページもその次もそうだった。ページをめくる手を止めると、察したように声がかかる。
「名前に注目してほしい」
『勘解由小路勇人』『板摺翔』『黒武者早苗』『七五三義孝』『女川健作』『皇碧』『鳳凰真紀』『一尺八寸さおり』『春夏冬唯』『一篤紀』『臥龍岡啓治』『神来人葉子』『無敵勝』『田中丸良美』『王来王家美奈』『五大院美穂』『四十九院琴音』『寒河江尚樹』『小能林正二』『資野勝政』『勅使河原一香』……
珍しい苗字ばかりだった。めくってもめくっても見たこともないような苗字ばかりで、読みに自信のないもの、むしろ読めないものもたくさんある。コンプレックスの反動だろうか、しかしこれが新方針だとしたら、どうやって周りを納得させたのだろうか。説得するだけの材料はあるような話だったが……
「珍しい苗字ばかりだろう。これはね、もちろん私の好みもあるんだけど、一種の営業戦略なんだ。君のところへいくつかの企業が営業にきたとしよう。そこでサッと渡された名刺に鈴木と書かれているのと、宝蔵院と書かれているの、どっちが印象に残るだろうか。営業はまず何より覚えてもらうことが大事。これだけ希少な名前と相性のいい仕事もないだろう」
確かに大量の田中実でリスク回避をするよりは、よほど筋が通っている。
「それで、須郷さんと言ったっけ。あなたの苗字もなかなかだ。私はね、レア度を星で表現してるんだけどね。星一から星五までの五段階。須郷さんは調べてみたけど、星三クラスだよ。これは十分に良い苗字だ」
「あ、それはその……」
どうやら話に行き違いがあったらしい。けれど誤解を解こうとしかけて、喉の蓋が閉まる。もしかして自分は、苗字の珍しさが理由で拾われただけなのだろうか。本来であれば、相手にすらされない所を、たまたま珍しい苗字と誤解されて……会社の健全性を信じ始めていただけに、手ひどい裏切りにあった気分である。同時に、再び予断を許さない状況となった。誤解を解いて追い出されるくらいなら、須郷で通してしまおうか。いや、それでは何で自分が須郷優をやめてここまで来たのか、分からない。そう考えると、押し付けられる価値観が急に煩わしくなった。
「すみません、須郷というのは、私が配っていた名刺に書かれていた名前のことで、私自身の名前は違います」
高みから飛び降りるような心持がした。いずれ、どうなるか分からないのだ。別に顔色を窺うことはしない。そういうパフォーマンスで自分を納得させる。思いのほか、むこうに失望した様子はなく、こちらの話を黙って聞いていた。打ち明けはしたものの、本名を伝える踏ん切りがつかないまま、ひたすらに名刺配り業務の内容を説明し続けた。
「聞いたことのない業務だな」
「どこか関係のありそうな部署とかは」
「広報か営業か、ひょっとすると、渉外かもしれないな。いや、そもそも名刺を配るという業務の狙いが何なのか。それが分かれば見当のつけようもあるんだけどね」
こっちも百回くらいは同じことを思っている。
「それと、本名を伺ってもいいかな」
思わず肩に力が入る。ここで凡庸な名前だと判断されれば、自分は急にここで部外者になってしまうのだろうか。飛んできた警備につまみ出される自分の姿が、掻き消しようもなく脳裏に浮かぶ。しかし嘘をついて、それを貫き通すだけの自信はない。いい加減抵抗する考えを捨て、素直に名乗ることにする。
「西仲野です」
「あー、なるほど。西仲野さんね」
何がなるほどなのだろう。明らかに失望のトーンに聞こえたのは、被害妄想だろうか。同じ苗字に出会ったことはなかったが、珍しいかどうかは分からない。あまり期待できそうにはない気もした。取り繕う素振りもなく、人事部長は手元の端末に目を落とす。まるで物を値踏みするような扱いである。実際の採用面接でも、こんな光景なのだろうか。いや、事前に書類から名前くらいは確認しているだろう。この男にとっては名前が全てなのかもしれないが、やはりそれで納得せよというには無理がある。
どう挽回したものか考えを巡らせていると、部長は端末の向こうから見開いた目だけをこちらに向けて、
「方角の西に、なかは……」
「仲良しの仲です。野は野原の野」
そう言った途端、部長が相好を崩した。
「これはすごい。全国に数十人しかいないじゃないか」
力が抜けた。まさかそれほど珍しい苗字だとは思ってもみなかった。
「響きや字面は、それほどでもないけど、これはとんだ掘り出し物だ」
同じようなことを考えていたが、無遠慮に言われると、少し不快だった。別に珍しい苗字が素晴らしいというわけではないのだが。喜び方も素直というよりは浅ましいくらいで、首の皮がつながったはずなのに、これで本当に良かったのかと、疑問すら湧いてくる。部長にそのつもりは無いのかもしれないが、いやむしろそのつもりが無いからこそ、なおさら侮辱的に響くのだ。けど、これでほとんど関門という関門は突破してしまったと見てもいいのではないだろうか。最初に考えていたよりは、よほど順調に事が運んでいる。
「うん、これなら文句はないね。いやもちろん、君はもとからウチの社員なんだから、文句のつけようもないんだけどね。ははは。こうしちゃいられない。ちゃんと本名の名刺も作らなくちゃ」
そんなに珍しい苗字が嬉しいのか。自分のものではないのに。活き活きとした動作から伝わってくるこだわりの強さには、正直軽い恐怖覚えた。電話している先は総務部らしく、私の名刺を大至急作るよう、まくし立てている。社員だと認めてくれたが、名前がありふれていたら、そんな扱いをしてくれたかどうか。
「よし、名刺はすぐに出来る。なんてったって、ウチには印刷工場もあるからね。それまでの間、西仲野さんの配属先について話しておきましょう」
配属先は調査部でどうかという打診は、ほとんど意味のないものだった。こちらの苗字に対する喜びようを見れば、それを人質に要求を突きつけることもできそうだったが、それでは相手の価値観に賛同したような気がするし、何より度胸が足りなかった。それに、特段希望の部署があるわけではなく、突きつけるべき要求も無いのだった。そもそもどんな部署があるのかも、分からないのだ。調査部は、聞けば花形だという。リップサービスなどなくてもこちらに選択肢はないのだが、とにかく手広く事業を展開するこの会社で、調査部のやっていることはその中核を担うのだという。人数も多く、キャリアアップへの道にも通じていると、田中部長は請け合った。
正直、野心はなかったが、無気力に仕事をこなすだけではいずれまた会社の外で意味の分からない仕事をさせられるだけになるかもしれない。片鱗でも、それらしい気概を見せておくべきか。そんなことを考え始めると、腹の底を紐できつく絞られるようだった。
聞こえのいいことばかり並べ立てられ、実際の職務内容については、部署まで行って直接確認してくれと半ば突き放された。当然と言えば当然だが、何だか騙されているような気もしてくる。まだ会社に席を見つけられたことが信じられないからかもしれない。いざ部署へ行ったら、では調査へ行ってこいと、外へ出されてまた戻れないなんてことがあるだろうか。気分の悪くなる想像だ。常に落とし穴のイメージがちらつく。もとから前向きではないが、長い長い名刺配りのせいで、よりネガティブになった気がする。言われるままに配属先が調査部に決まると、部屋を後にする段になって、人事部長はわざわざ部屋の入口まで送りに来た。最大限の親しみを込めた笑顔だった。
人事部を出た足で、まずは名刺を受け取りに総務部へ行く。人事部長の言う通り、名刺は本当にもうできていて、一枚だけ抜き取られてから渡される。
「それは」
「田中部長に。そういう決まりなんです」
あの人事部長のコレクションになるのだと考えると、その手から名刺をひったくりたい衝動にかられたが、裏を返せばこれで確固たる居場所を得た証と言えなくもない。甚だ不本意ではあるものの、そう考えて納得するしかなかった。
総務部と広いフロアを二分して入っているのが調査部で、名刺をもらってそのまま向かうと、すでに万事了解していると言わんばかりに男が待っていた。手足も顔も長く、全体に上下へ引き延ばされたような印象の男だった。どうにも声が小さい。職業病みたいなものなのだろうか。どことなく迂遠な説明で、具体的にやることばかりが示され、目的や目標には靄がかかっている。痺れを切らして話の腰を折り、一体何を調査しているのか、と問うと、男はしばし驚いたように目を見開いてから、壁の方を指さした。
よく見ると、それは窓だった。
壁に見えたのは、道一本隔てた向かいに立つ、本物の壁のせいだったのだ。その壁が、フロアの壁一面を丸々ガラスにした、広い窓から見えるはずの景色を、一部の隙もなく覆い隠している。同じ高さの高層建築物かと思って窓に近づくと、向こうには窓や装飾などは一切なく、横もなだらかに湾曲したまま、端は消失点に吸い込まれている。のっぺりとした一面の灰色。建物ではなく、紛れもなく壁だった。
この壁はつまり、あの壁なのだろうか。
急に眩暈がしてきた。
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