7

 能美がよこした名刺の、雲類鷲とかいう男は、随分と胡散臭そうな印象だったが、ひとまず目的地に着くことはできた。話には聞いていたが、実際に目隠しをされてどこかに連れていかれるのは、あまりいい気分ではなく、もともとの体質もあって、車での移動中は酔いに悩まされた。あと少ししたら、地下で飢え死にを待つ身かもしれないのに、それでもこんなことに恐怖や不快を感じているのが不思議に思えた。随分と時間がかかったように思えたが、自分の精神状態のせいなのか、本当に遠回りをして場所を特定しづらくしているのかは、やはり分からなかった。

 車を降り、しばらく歩いて階段を下り、ようやく目隠しを外されると、薄暗い空間にいた。正面には頑丈な鉄扉。墓標には立派すぎる気がした。周りには想像していたよりも人がいる。能美たちの会社のおかげでアポの捌きは格段に向上しているが、それでもまだこれだけの人間があぶれていることが、少し意外だった。そして、人が多いことで安堵している自分がいることに、逆に不安を覚える。

 今から自分は死地に赴くのだ。それは改めて考えると、バカバカしい気さえしてくる。なんというか、創作物の登場人物染みていて、到底実感が追い付かない。

 感情の整理にまごついているうちに、鉄扉の方が音を立てて開いた。

 誰もが立ち尽くしていた。それはそうだ。扉の向こうは想像以上に暗い。死ぬ覚悟で来た自分でさえ、このままでは尻込みしてしまいそうだ。そう思い、反射的に飛び出した。前の人間を押しのけ、一番前まで来ると、全速力で一気にその闇の中へ飛び込んだ。

 少し遅れて、背後から集団が移動する騒々しい音が聞こえてきた。



 似すぎている。

 須郷は行ってしまった。自分が騙された場所とそっくりな場所に一人たたずんでいるのは、落ち着かなかった。絶望感がぶり返しそうだ。しかし、本当にそっくりなだけの、別の場所なのだろうか。自分が勘違いしているだけで、ここがあの場所かもしれない。だとすれば、今にも自分を騙した奴らが来てもおかしくはないということだ。

 苦笑しながら、頭を振った。

 さすがに神経質過ぎるだろう。もしそうなら、この電灯は何だというのだ。電灯も何もないように装っていたというのか。それに扉が開いたままというのがおかしい。いや、そういえば奴らはどうやって扉の開くタイミングを知っていたのだろう。話ぶりから、てっきり開いてから呼び集められるのかと思っていたが、鉄扉は自分たちの前で開いていた。まさか、普段は閉まっていてこちら側からは開かないというのも嘘なのか。むしろ、それを素直に信じていたのはお人好し過ぎるだろうか。

 気づいたら、扉の前をぐるぐる歩き回っていた。

 たまたま今、いないだけだろうか。奴らにとっても重要な場所のはずだし、無人のまま放置するとは思えないが。千載一遇のチャンスを、それと知らずに掴んだのだとしたら……いや、電灯はどう説明をつける。まさか、遭難者を後追いで救出に行っているのか。ありえない。むしろ死亡確認に行っていると言われた方がまだ信憑性があるくらいだ。

 少し様子を見てみようか。しかし、もし奴らが戻ってきたとして、自分はどうしたいのだろう。復讐に駆られて襲いかかるのか。滑稽だ。そういうのじゃない。同じ目に遭わせてやりたいという気持ちもなくはないが、そんなことは土台無理だ。それよりも、ここがあの場所なら須郷は……いや、真っ暗闇ならともかく、今は電灯が点いているじゃないか。出口が見つからなければ須郷だって戻ってくるはずだ。やはり確認の必要がある。ここがあの詐欺集団に連れてこられた場所かどうかで、これからの動きが変わってくる。それを見極めない訳にはいかないだろう。

 いったん外へ出て、すぐ上にある家を調べると鍵はかかっていなかった。恐る恐る中を調べたが、人がいる形跡もいた形跡もない。少しリスクが高い気はしたが、しばらくはここを監視場所にすることにした。



 地下空間は想像を超えて広大だった。よく響く足音は、とても一人のものとは思えなかった。以前使っていた時は社員で溢れていたこともあって、今は少し不気味と言えば不気味だったが、恐怖はなく、どこか洞窟探検のような胸の高鳴りさえあった。会社に戻れることがそんなに嬉しいのだろうか、自分は。久方ぶりとはいえ、迷う心配のない一本道。何も気にせず進んだ。

 しかし、歩けど着かない。こんなに遠かっただろうか。ちょっとずつ、黒雲が胸の内に立ち込めてきた。考えてみれば、あの会社のことだから、この通路が変わっている可能性は十分にある。楽観的過ぎただろうか。しかし、ここまでは一本道。最悪引き返せばどうとでもなる。警戒するのは、分かれ道が出てきてからでも遅くない。

 けれど、そう考えた瞬間に分かれ道はやってきた。右と左と直進。目分量ではほとんど直角に交わっているように見える、きれいな交差点。引き返すか。でも引き返したところで何もない。電灯は点いているし、分かれ道があるにせよ、そこまで複雑だろうか。目印に置いていける物でもあればいいのだが。

 結局、折衷案で直進を選んだ。この先どんな分岐が来ても、まっすぐ進もう。そうすれば戻る際もまっすぐ戻るだけである。この思いつきを賛美しているとT字路にぶつかる。T字路は厄介だ。戻ってくるときには直進と曲道の二択になる。けど考えてみれば、どちらを選んでも、戻る際には曲がることになり、直進はない。大丈夫、大丈夫。左へ曲がり、さらに進む。直進があれば直進、無ければ左折。これさえ守っていれば、その逆で必ず戻れる。もちろん、戻らなくて済むのが最善だが。それにしても長い。同じところをぐるぐる回っているのではなかろうか。曲がる方向が同じだから、ありえない話ではない。かといって、途中で法則を破れば戻れる自信はないし、祈りながらでも進むしか手がなかった。

 入った時の気分が嘘のように萎んでいた。



 須郷優という仕事を離れてみると、どうしてあんなことをしていたのだろうと、不思議でならなかった。偶然引き継いでしまったとはいえ、そこまで執着して業務を果たす必要性はまるでないように思えた。なぜあんなに必死だったのか。自分にはすでに調査という仕事があるのだから、むしろまっとうすべきはそっちで、名刺配りを放棄する正当な理由があったと言ってもいい。それでも、いざ業務に入ってしまうと、妙な不安からそれを放擲することは憚られた。もっと広い視野で状況を見なくてはならない。しかしまあ、調査という観点からは良かったとも言える。中に戻れたら、あの業務の意味は問いたださなければならないだろう。

 けれど、その、中に戻るための調査はまた振り出しである。高い壁。徘徊。不思議と懐かしさが込み上げてきて、直後にぞっとした。あくまで自分は調査のために回っているのだ。決して徘徊などではない。しかし、周囲を同じように歩いている徘徊達を改めて眺めると、ふいに彼らが皆、同じように調査を担当する部署の職員なのではないかという妄想に囚われそうになる。慌てて俯き、足を速めた。早いところ、次の手がかりを見つけなければならない……

「おい、そこの」

 急にかけられた声に思わずビクついた肩を、誤魔化すように回しながら、声の出どころを探す。横の壁に例の門。守衛の姿がない。男が一人。一見して徘徊。それもかなり胡散臭い感じで、無視を決め込もうかと相当に逡巡した末、曖昧に寄る。

「なんですか」

「守衛をやらないか」

 男は守衛という名の詐欺にこちらを誘っていて、俄には信じ難かったが、いくら確かめてもこちらの勘違いということはなく、紛れもない詐欺の仲間集めだった。手口は例のアポ競売と全く同じで、あまりに無茶というか、それでは本物の守衛はどうするのかと問うと、本物などいないの一点張り。噛み合わない話へ強引に整合性付けようとすると、自分が見た守衛やアポ競売も詐欺だったということになる。そんなことあり得るのか。あり得ると思った。以前の守衛は皆姿をくらましたのか。まるで、自分が最初に思いついたかのようにアポ競売について語る男には、代替わりをしながら須郷優の名刺を配る業務がちらつく。存外、これも詐欺という設定の会社業務なのかもしれない。

 いずれにしても、守衛についての調査は、避けて通れない。そこへ差して、機会が向こうからやってきたのだ。断る理由はないだろう。



 実感がなかった。しかし、会社の中へ入るより先に、会社員になってしまったのは事実だった。今、自分は紛れもなくあの会社の業務命令のもと、当該業務をこなしている。内容は名刺の配布。目的は不明。どうしたものか。当初の目的は果たしたというより、飛び越えてしまったという方が近い。いや、どうだろうか。ここまできてもまだ中に入れるとは限らない。そもそも、この交代はたまたま自分が掠め取ったようなもので、もし後から本物が来たらどうする。何も安心できるポジションではないのだ。とすれば、この間に少しでも中への潜入を試みるべきだろうか。しかし、パソコンの中には予想された連絡先などは何もなかった。手がかりが増えたわけではないのだ。

 なら、それなら、待つしかないのかもしれない。

 交代へやってきた本物。それこそが手がかりになり得る。それなら自分は、ひとまずはこの目的もわからない業務を、滞りなく進めることこそが肝要なのかもしれない。



 まさかこんなことがあるだろうか。

 拙速な判断は避けようと思っても、込み上げてくる笑いは堪えきれない。

 壁の中にあったのは、壁の外にあるのと同じような街なのだった。いや、そう見えるだけなのかもしれない。まだ慎重な調査が必要だろう。けれど、そこにあるのはどう見たって住宅街。会社らしいものはなく、あるのは家、家、家。この一軒一軒がオフィスだとしたら、何と意味もなく使いづらいのだろう。それはちょっと考えられなかった。

 ようやく入れた壁の向こう側には、街が地続きになっている。会社なんてものは最初から存在しなかった。そんなことあり得るだろうか。一体、何人がこの中へ入ったのか。どれだけの金や人が動いたのだろうか。ウェブページを始め、電子空間に飛び交う情報は。そもそも、それならあの壁は何だと言うのだろう。

 絶望を通り越した笑い。そんなものではなく、大勢がありもしない会社のために必死で金と労力を投入している様が、どうしようもなく滑稽だった。そこには自分も入るはずなのに。

 夢中で歩いたせいか、すでに戻る道を見失いつつある。そんなに複雑な経路を通ったつもりはないのに。だまし絵の中を歩いているような気分だ。壁にぶち当たると、今の自分が内側にいるのだという自信が揺らぐ。あの門もフェイクだったのではないだろうか。中に入ったつもりで、まだ外をうろついている。しかし、その方がまだ希望が持てた。苦労して入った中に、外から地続きの街並みしかないのでは、どうしたらいい。我が目を疑うように奥へ奥へと進み、そしてみんな戻れなくなったのだろう。すでに自分がそうだ。どうする。死に物狂いで帰路を探すか。

 けど、どうするにしても、この壁の中を歩き尽くさないことには、判断の下しようが無い気はした。もしかしたら、まだちゃんと会社が存在している可能性だってゼロというわけではないのだ。



 守衛を装った詐欺は、想像以上にうまくいった。中に入りたい奴はごまんといる。金で解決できるならという連中だって少なからずいるだろうという予想は、見事に的中した。

 当初は中に入る権利を一定の値段で売るという、裏口みたいなやり方を想定していたが、アポの競売という手法を思いついてからは、とにかくそれを実現させるために仲間を集めた。特定の人物とのアポを競りにかける。特定とは言いながら、もちろん名前は出さない。思いつきで適当な名前を挙げていれば、いつかぼろが出ないとも限らない。すべて役職で示し、競売参加者の購買意欲を刺激した。最初はかなりの冒険に思えた。しかし、やってしまえば存外平気なもので、入った人間は結局戻ってこないのだから、どうとでもなった。

 むろん、もし戻ってきたら、という懸念は常に付きまとった。けれど、それを気にしていたら、そもそもこの詐欺すらやろうとは思わない。

 あまり同じ商品がでないように、様々な部署や役職をでっち上げた。総務や人事、経営企画、営業などの定番から、製造部、開発部、法務部、広報部、渉外部、マーケティング部、イノベーション推進部、仕入部、リスク管理部、物流部といった、まあふわっとしていて無難そうなもので膨れた後、環境部、農産部、水産部、建設事業部、カスタマーサティスファクション推進室、システム部、コンプライアンス部と無かったらすぐに露呈しそうなものが増えていき、このあたりから歯止めが利かなくなって横文字を増やそうと金融業界を参考にした奴らが、ホールセール部、スペシャライズドファイナンス部、ストラクチャードファイナンス部、ポートフォリオ・コンサルティング部、キャピタル・マーケット部、シンジケート部、コーポレートファイナンス部、ライフプラン・サービス部、インターナル・オーディット部、マクロ・トレーディング部、ディストリビューション営業部、プライベートバンキング企画部、カードローン事業部、リテールマーケティング部、コーポレート・インスティテューショナル業務部、プロセスマネジメント推進部などなど、無茶苦茶に部署を増やして、それでも案外なんの危な気もないのだった。すると今度は、自分がやりたかったことなのか何なのか、映像クリエイション部、ドローン事業部、アダルトコンテンツ事業部、秘書部、エンターテインメント事業部、出版企画事業部、SNSプロモーション戦略室、写真部、3Dモデル開発部、校閲部、ITエンジニアリング部、人材開発部、アニメ事業部と好き放題につくり、もはや組織図を再現するのは不可能に思えた。

 部署でこれだから、課の方は規模が小さいと見て、さらに奔放にでっち上げ、それだけでなく役職も和名と横文字とが混在し、はっきり言っていつバレても不思議でないような状況なのに、それでも後から後から競売参加者はやってきた。

 何だか、自分たちで作った会社が大きくなっているような気分だった。実際、儲けはこっちが不安になるくらい大きなものだった。仲間は誰も彼も上機嫌で、そのうち、よりリアリティを出すために自分たち守衛の名刺を作ろうと言い出す奴らが現れた。部署名の設定であれだけ適当なことをやっておきながら、リアリティも何もない。仲間意識の確認。連帯の証明。本音はそんなところだ。下らない、と思いながら、悪くないと考えている自分がいる。調子がいいときは周りが皆仲間に見えるものだ。作るか。いいじゃないか。部署は。警備部。課は。正門守衛課。役職は無しで横並びか。いや、あんたは違うだろ。あんたはそうだな。チーフ。そう、チーフ。警備部正門守衛課チーフ。

 はは。警備部正門守衛課チーフの雲類鷲です。よろしくお願いします。



 能美の情報通り、暗い地下空間は知らぬ間に通路から広大な空間へと変貌しており、そのことに気がついた集団はパニックに陥っていた。慌てて駈け出す者、それを制止する者、連携を呼びかける者、ひたすら悪態を吐く者、いずれも大声をあげて騒ぎ立てており、静かにそこを離れて気がつく者はいなかった。もとより真っ暗闇なのだから気づきようもないのだが、こちらが他の人間にぶつかっても気にされない状況は、より離脱を容易にしてくれた。

 騒ぎが少しずつ遠のいていく。時たま近くで急に上がる声にびっくりしながら、歩き続けると、集団の声もほとんど聞こえなくなり、しかしそれでも壁には当たらなかった。相当に広い空間らしい。パニックに陥るのもうなずける。自分も、集団から離れる意図が無ければ焦っていただろう。しかし、このままではいずれ集団のもとにもどってしまうのではないだろうか。人は目標物が無ければ、自然と少しずつ進路が曲がってしまい、大きな円を描いて元の場所に戻ってきてしまうという話も聞く。ここは生憎と真っ暗闇。目標物どころか何ひとつ見えないときている。といって、防ぎようもない。せいぜい耳をそば立てて、人の気配から離れながら壁を探すしかないのだ。けど、壁を見つけたところでどうだろう。正直な話、入口を見つけてやろうという意気込みは、集団を離れるほどに萎んでいき、今はこの巨大な暗闇を前に無力感の方が強い。こんな中でどうしろというんだ。せいぜいが壁に沿って移動するくらい。でなきゃ、一生同じところをぐるぐる回り続けるだけだ。何かを探すなんて状況ではない。どうせ出口を見つけられなきゃそのまま果てるつもりと、懐中電灯のひとつも用意してこなかったのは、痛々しい強がりだった。認めたくはないが、すでに後悔が湿ったスポンジを握った時のように染み出している。

 惨めだ。このままではあまりにも。

 自棄半ばで大股に歩きだす。

 衝突を恐れて小幅な歩調になっていては、何かを見つけるより先に体力が尽きてしまう。引いたら負けなのだ。どうせもとの場所に戻ってしまうとしても、その時にまだ体力があれば可能性もゼロではない。すでに退路は絶たれているのだから、とにかくできうる限りの移動を試みよう。

 手を前に突き出し、さらに歩行速度を加速させた。



 庭の通路は誰も使いに来なかった。この無人の家にしてもそうだ。自分を騙した詐欺集団はおろか、人の気配さえない。住宅街の一帯がそんな感じである。ともすれば監視をしていることすら忘れて窓からの景色を眺めている有様で、稀にやってくる車のエンジン音でハッと自分の状況を思い出す始末だった。緊張はとても続かず、気の緩みのせいか空き家が急速に馴染んできた。何もないわけではなかったが、ほとんど最低限の家具があるばかりで、自分の基準からすれば明らかに生活感は無い印象だったが、過ごしてみればこれが案外都で、監視のために滞在しているのか住んでいるのか、自分でも徐々に曖昧になりつつあった。

 不法占拠なのに何をくつろいでいるのかと思わないでもなかったが、あまりの人気のなさで、不安がる方が難しかった。

 須郷からは何の連絡もなかった。

 すでに向こう側に出ているのだろう。でなければ地下で危険な状態に陥っていてもおかしくないくらいの時間が、すでに経過している。ショックがないと言えば嘘になるが、先に尻尾をまいたのはこちらであるし、非難する筋合いはない。もし、本当に壁の向こうに続いているのなら、自分はどうするのだろうか。須郷の後を追うか。不思議とそんな気にはなれなかった。すでにあの会社への執着が変形しているのだ。執着で言えば、どちらかというと、あの詐欺集団への報復の方が強く、ここの通路が会社へつながっているのなら、奴らと同じことをして、詐欺である向こうを潰しにかかるというのは胸のすく思いつきで、ここしばらくはことあるごとに頭をよぎった。同じことをして、本物と偽物なら、明らかに勝機はあるだろう。あとは人数だろうか。本気でやるなら、それなりの人員が必要かもしれない。連中はどう反応するだろうか。このやり方でこちらに非はないが、そんなことを気にする手合いじゃないだろう。力づくで潰しにかかるのだろうか。それとも、もっと巧妙に、それと分からぬ刺客をこっちに送り込み、長期的なやり方で乗っ取りを図ろうとするだろうか。

 どちらにしても、少なからずリスクがあるのは確かだ。けれど、騙されそうになっている人たちを救うことにもになるし、住み慣れてきたこの家もそのまま使えれば御の字だ。やはり、いいアイディアである気がしてならない。

 であれば、あとは通路が本当に繋がっているかどうかだ。失敗した、一方的に名刺を渡しただけでは足りなかった。須郷の連絡先が分からないから待ちの一手しかない。自分で確認しに行くか。いや、それでは別のリスクが高くなる。落ち着け、別段急がなくてはならないことではないのだ。まだ須郷が連絡をくれる可能性だってゼロじゃない。待つ間に進められる準備だってあるだろう。



 自分はとんでもなく長い間歩いているんじゃないかと時計を確認して、ほとんど時間が経っていないことを思い知らされる、ということを繰り返しながら通路を進んだ。この空間だけ時間の流れが狂っているんじゃないかと思うほどだった。同じ景色が続くせいで感覚がおかしくなっているのかもしれない。お願いだから、出口についてほしい。引き返すことになった時、どれだけの行程を戻らなければならないか、すでに考えたくない領域に来ていた。

 それにしても、これだけ歩いて一人の人とも遭遇しないのだから、やはり今は使われていない通路なのだろうか。けどそうなれば、出口が開く保証はない。

 またひとつ顔を出した不安要素から目を背けるように歩度を速めた。

 浅慮だった。その思いが強まる。けど、以前は毎日のように使っていたのだ。どうしてこれほど複雑になっていると想像できようか。いや、その想像力の無さが浅慮なのだ。結局、自分は今までもそうした浅慮で、流されるまま流されてきた気がする。気がつけば窓際を通り越した社外の部署で、意味の分からない名刺配りの日々。その間に会社は別物に変わっていて、いざ名刺配りから解放された時にはもう自分は入ることさえできない。

 なんて惨めなんだろう。

 考え続けると涙が出そうだった。

 こんな地下で一人迷って泣いている方が惨めである。考えてみれば、そうやって流されてきた自分が、浅慮とはいえ選択してここにいるのだ。見方によっては進歩と言える。悲観的になるのは止そう。

 気を取り直しながら、もう何個目か分からないT字路を左折した時、ついに開けた場所へ出た。

 地下室だろうか、窓はない。ドアなどの仕切りはなく、通路から直に繋がっている。けれど床はリノリウムで、その屋内感にどっと安堵が溢れた。部屋のそこかしこに段ボールが積み重なっていて、埃っぽい室内。予想通りだったが、やはり記憶にある場所とはまるで違う。どうやら、ほとんど使われていない物置部屋のようで、そういえば反対の入口も物置だったと思い出し、少し笑った。大分、落ち着いてきている気がした。でも、ここからだってまだどうなるか分からない。ここが会社とも限らないのだ。すでに移転していて、もぬけの殻かもしれない。

 地下通路とは反対方向の壁にドアがあった。開いていることを祈りながら手をかけると、すんなりと横にスライドした。



 男は他にも道行く徘徊を次々と仲間に引き入れ、守衛をスタートさせた。その手腕は見事で、詐欺には慣れたものと言わんばかり。アポの競売は自分の知っているそれとまったく変わらず、参加者も開始から引きも切らない状態だった。

 どうして以前の守衛たちがおらず、男はそのことを知らない、あるいは知らないふりを決め込んでいるのだろうか。いくつか可能性を考えてみた。

 まずは、以前の守衛が異動でいなくなった可能性。後任はたった一人で、守衛に関する人事権を含めての配属。しかし、雇い方があまりに無茶だ。須郷の名刺配りの前例はあるけれど、これはさすがに会社の意図ではないだろう。

 それではやはり、以前の守衛も詐欺だったのか。残念ながらこちらの方が合理的説明がつく。仲違いか何かがあったのか、男はここに一人残された。詐欺を再開するためにそこらを歩く徘徊から仲間を募った。しかしこの場合、会社は完全にこの詐欺を放置していることになる。そもそも、嘘のアポで中に入った人たちとトラブルは起きていないのだろうか。聞けば、中に入った人間は二度と戻ってこないと、男は自信たっぷりに言い、実際その通りである。誘った徘徊の中にも、制止を振り切って入っていった奴らがいたが、そいつらも戻らない。より凶悪な犯罪がちらつくが、まさかとも思う。本当に行方知れずになっているのなら、ここに捜査の手が及ぶはずだろう。

 では、実際に会社に雇われている守衛はあの男一人で、この詐欺は全て男が立場を利用した副業として企てたものというのはどうだ。何か衝突があって以前の連中がお払い箱になった。なくはなさそうだが、大胆に過ぎる気もする。いずれこんなところで第三者を巻き込んだ詐欺を堂々と行っている時点で、今さら大胆も何もないが……

 結局、男から聞き出すよりほかに方法はないのだが、どうにも守りが固い。本当に今始めたばかりの詐欺なのかもしれないと、思わず納得してしまいそうになるような、一貫した態度。ボロが出てくる気配はない。実は会社の社員なんだという打ち明けも使ってみたが、タイミングが悪かったのか、一笑に付されただけだった。そういえば、と思い出して能美に連絡を取ってみたが一向につながらない。男へ協力会社について話を振ってみれば、それはいいアイディアだと激賞され、男自らパートナーになりそうな団体を見つけてくる始末。あれよあれよという間に自分の知っていた守衛体制が再現された。

 笑いが止まらなくなるほど入れ食いの集客で、事実守衛を演じる者たちは終止にやついていた。協力会社との連携が機能し出すと、捌きの方も上々で、毎日不安になるくらい大きな金が動いた。その不安も時間とともに麻痺して感じなくなり、男からも何も聞き出せないまま、ただただ詐欺の片棒を担ぐ日々が続いた。調査が行き詰っているのなら、すぐにでも別の捜査対象を探すべきだという思いが、日増しに強くなっていく。

 目の前にある門を通って中へ入ってみることを考える頻度は多くなっていた。けれど、誰も戻らないというのはどういうことだろう。どこか別の出口から出ているのか。きっとそうだと思っても、いざ行こうとするとなかなか踏み出せない。リスクを踏むにはまだ調査が不十分な気がした。

 会社内に通じる地下通路が、新しく発見されたという噂が流れてきたのは、そんなわだかまりを抱えていた時だった。宇野沢、そんな名前を思い出す。だが、新しく見つかったとはどういうことだろう。

 いい口実だった。

 噂についての調査を理由に守衛の仕事を離れる交渉を、男にした。男は思いのほか渋った。断られれば黙って出ていくだけだったが、この関係は残しておく方が後のためになるだろう。競合になり得るかもしれない相手を調査するのは必須という論調で押した。最終的に、男は承諾した。

 出張という形で、門を後にすることになった。



 本物がやってくるまでの繋ぎと思えば、おざなりとはいえ続ける気力もあったが、そのモチベーションにだって期限がある。けれど交代に本物の社員がやって来たとして、はたしてそれは大きな前進になるのだろうか。そもそも、それならあの女装男だってやはり本物の社員だったのであり、面食らっているうちに見失ってしまったのは大きな失敗ということになる。だが、あの女装男からは何も聞けない気がした。これは言い訳とかではなく、純粋に直感でそう思った。あの嬉しそうな表情。押し付けられた仕事からの解放か。パソコンの中にある日記のようなものは、複数の人間が書いたと思われる。少なくとも、会社内で良い立ち位置にいるわけではないようだ。まあ、社外にあることからしてそうだが、それにしたって業務内容はその目的が分からず、それは日記を読む限り前任者たちも同じようだった。

 その点を加味すると、やはり直感は正しいように感じる。会社で不遇な扱いを受けている連中が押しやられる場所とすれば、そうした奴らに会社のことをたずねて何が得られるだろう。第一、後任が来たら終了という曖昧な条件には、先についての記述が一切ない。終了した後はどうなんだろうか。社内に戻れているという印象は正直ない。女装男の喜びようも単なるこの業務からの解放と取る方が納得はできた。

 そうなると、あまり交代に来る本物に期待しても始まらないかもしれない。それに、その本物だって一向に現れないのだ。自ら動く方がよっぽど効果的か。トラブルになったとして、それで大本営の意識がこちらに向けば、そこに何かが生まれる可能性は、ここで後任を待つよりも遥かに高い。

 名刺に細工することから始めた。『須郷優』という名前だけが書かれた何の役にも立たない名刺に、自分の名前と会社名と連絡先を追加したのだ。上拂雄一。全く使われていない裏面へ印字し、須郷優の文字はカッターで削り落とした。連絡先は自分の番号を素直に入れた。あの会社の名前が入っただけで、抜群に注意を引く代物になった。壁の周りを調査して回っていた自分だったら飛びついただろう。いや今だってそうだ。これを企業に向けて、配って回る。そのつもりだ。対面はリスクが高い。ポストがあればそこへ、なければ郵送だろうか……

 考えていると尻込みしそうなので、とにかく名刺を持って外へ出た。

 いつものルートを歩いていると、無くなっている名刺もあればそのまま放置されている名刺もある。どちらでも変わらない。あんな名刺を置くだけでは何も起こらない。それに比べて今持っている方は……

 思わず服の上から名刺を触った。まるで爆弾だ。これを外に放り出したらどうなるだろう。いや、ほとんどは悪戯だと思うかもしれない。何せあの会社が何でいきなり自分のところへと、誰だって疑問だ。それでも何割かは、数パーセントかもしれない、書かれた連絡先に連絡を取ってみようと思う可能性だってある。

 連絡が来たらどうするのか。そんなこと考えちゃいない。そんなことを考え始めたらこんなことはできないのだ。

 ふと、あの会社も同じじゃないかと思った。まずはやってみる。やってみた結果がこれ。横を見ると、ちょうど道の向こう側に壁が見えた。勇気が湧いてきた。蛮勇かもしれない。けど、もう抑えることはできなかった。

 カラオケやスナックなどが入った雑居ビル。その階段入り口に設置されたポストへ、微かに震える手で最初の名刺を投げ込んだ。

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