6

 問われた瞬間、須郷という名前が口から出たのには、我ながら苦笑してしまった。でも、無理もないかもしれない。それだけ長いことやっていたのだ。名乗る機会はほとんどなかったのだけれど。訂正するのも億劫で、結局そのまま通してしまう。相手は宇野沢と名乗ったが、人の名前を覚えるのが苦手な自分は、とにかく呼ぶ機会が来ないことを祈るばかりだった。

 以前の出入り口を探す作業は難航した。会社の膨張は当然、周囲の地図に影響を与えており、記憶の風景と地図の照合作業自体が覚束なく、行ってみましょうという軽いノリで終わらなさそうであることは、早々に明らかになりつつあった。

 全方位へ均等に膨らむ風船みたいな話なら簡単に諦めもつくのだが、地図で見る限り、どうやら過去に使っていた場所はまだ外周に位置しており、可能性は残されていた。記憶がダメなら、ひとまず壁沿いに行けばこれほど分かりやすいものはないと思っていたが、気づくと大幅に行き過ぎており、注意して戻っていたのに再度行き過ぎた。

 宇野沢は辛抱強く付き合ってくれたが、内心どう思っているのかは分からなかった。そこまでしてこの会社に入りたいのだろうか。守衛のいる門に強行突破を試みるくらいだから、そうなのだろうが、こちらが信用されているかまでは分からない。間違え過ぎたせいで、この辺です、と言う自分の言葉もどこか空虚に響いた。

 ようやく、それらしき場所にたどり着き、これだけ探してもまだ「らしき」であることを隠しながら、壁を探る。おそらくずれていたとしても前後五十メートル以内にあるだろう印。今思い返しても忍者屋敷かと思う。出入り口に至る道筋は複雑で、関係者にしか分からない印が付してあったのだ。

 特徴を伝えると、男も探すのを手伝ってくれたが、表情は心なしか固くなっている気がした。気まずい思いで、壁の、特に地面との境目を必死に見て回った。



 良く言えば安定期、悪く言えば倦怠期だった。仕事は滞りなく運び、そもそも自分が慣れてしまえば滞りは発生しようがないのだが、とにかく名刺は順調に減り、あるところまで減ると補充されるという状態が続いた。

 問題はないのだが、その問題がないことが問題のような気がしてきてしまうのは、悪い癖だ。こういう気分は得てして、要らぬ問題の呼び水になる。刺激なのだろうか。少し、新鮮味を持たせてやれば、それで案外霧散してしまうような一時的な倦怠かもしれない。

 そう考えて思いついたのが、あの女が残していった服を着ることだった。突飛な発想に聞こえるかもしれないが、実はあの女が仕事中に寄ったトイレなどは確認ができておらず、もしそこに名刺を置いていたら、そこは再現できていないことになっており、それを確認する意図もあった。何も無ければ、新たに設置場所にしてもいいかもしれない。

 服は、予想されたように、入らなかった。しかし、絶望的ではなく、こちらが体型を少し調整すれば、何とかなりそうな塩梅だった。

 ランニングを始めた。食事制限も。

 準備に過ぎないのだが、それでも日々が張りを取り戻した。何か明確な目的を持って行動すること自体に飢えていたのかもしれない。継続が精神的に堪えることもあったが、目的意識を持つことの高揚で乗り越えた。ある時点から、目に見えて効果が確認できた。そのまま続けていると、想定より早く服を着られるまでになった。

 何度か室内で着てみて、玄関先まで行ってみることを繰り返した。心臓の痛いほどの拍動をすぐ喉元に感じたが、同時に奇妙な性的興奮もあった。ペニスが勃起して歩き辛さを感じたが、外に出れば緊張が勝って収まりそうな気もする。鬘を買って準備を整えた。

 真夜中に外出することから始めた。近場を回って帰ってくる。最初は心臓がもたないほどの緊張を感じたが、慣れてくると周回コースも長くなり、人が見えても平然とすれ違うようになったころから時間帯を昼間に近づけていった。

 そして、いよいよその恰好で業務に出発した。さすがに最初は気もそぞろだったが、直接呼び止められ、咎められるのでなければ無遠慮な視線など気にならなかった。そもそもこっちは仕事なのだ。

 今や自分は、完全に須郷優を再現していた。

 目的は未だ分からないながらも、完璧に仕事をこなしているという実感が、言い知れぬ充足感をもたらした。



 気づいているか、いないかで言えば、気づいていると予想する方が妥当に思えた。女装それ自体を奇矯なふるまいと決めつけるには、他の情報が足りない。だが、いよいよ接触を試みるかという段になっていきなり女装姿で現れた、というタイミングが引っかかる。機先を制されたという感が強い。おかげで、女装男を尾行するという萎えない方が難しい状況だ。しかし、まだそうした冷静な計算の上に立っての行動である方がマシかもしれない。訳もなくいきなり女装して出てきたとなると、今度は相手の正気を疑うことになり、より一層慎重な行動を強いられる。そう見せているのか、本当にそうなのか。結局、尾行しながらその判断を下すしかなさそうである。

 回収した名刺はかなりの数になっていた。目標も発見したことだし、もう集める必要はないのだが、すでに癖づいていて、見かけると自然に拾っている。置くそばから回収していたら尾行が露見してしまうと考えかけたが、それは今更だとすぐに思い直した。女装男が自分の置いた名刺が回収されていることを気にしている風はなかった。それでも気づかれていると思ったのは、急に女装し始めたことだけではなく、その女装を用いてこちらが入れない場所へ行き始めたからだ。つまり、具体的には女性用のトイレなのだが、あまりにも行く回数が多い。しかし、ごく短い時間で出てくるし、こちらを撒こうという意図は感じられない。名刺を置いているのだろうか。そんなことなら構わないが、こちらのことを外部へ連絡しているとしたら構えなくてはならないかもしれない。連絡しているとして、一体何を連絡しているのか、そこにどういう感情があるのか、さっぱり見当もつかないが、後ろからいきなりぶすりということくらいは、想定しておいた方がいいのだろうか。この尾行はそれほどのことだろうか。二重尾行を気にしながらでは、自分の尾行がままならない。いっそ、接触してしまうべきか。

 不安を抱えながら逡巡しているうちに日が過ぎたが、特に何か変わった様子はなかった。そもそも、最初から女装男に仲間などがいるようには見えず、それはトイレに行くようになってからも同じだった。杞憂かもしれない。けれど、完全に孤立しているというのは逆にどうだろう。そも、自分は女装男があの会社の関係者であることを疑って追っているのだ。本当にあの大企業の人間なのか。これが。だが、この奇妙さがそのことを裏打ちしている気もしてならない。あの会社ならやりかねない。この辺りの突飛なことがすべてあの会社につながっているように感じる。

 ただの変人か、それともあの会社の人間か。結局、判断を下させないまま、今日も尾行を続けている。

 ゆっくりと底のない沼にはまっていくような感覚があった。



「何のお話でしょう」

「まあ、そう構えないでください」

「そんな、上顧客との打ち合わせにくつろいで臨むわけにはいきません」

「今日は少し、仕事からは外れる話でね」

「そう言われると、より一層構えてしまいますね」

 冗談のつもりで笑ってみせたが、内心は本当に身が少し強張る思いだった。一体、何だというんだろう。

「何、我々守衛のことについて少し、それから、私個人のお願いというか、まあ依頼について少しお話させていただければ、と」

「なるほど。お願いします」

 守衛の男は制服を着ていないと、まるで雰囲気が違った。市来崎と名乗った。髪は薄く、中背で太り気味。道端で会っても気づけそうにない。雑踏の書割にそのまま埋もれてしまいそうな、凡庸さ。やはり制服は、あれはあれで威嚇や警告の意味合いを持ったデザインなのだ。市来崎は軽く咳払いをして話し出した。

「あなた方は私らのことを、あの会社の人間だと思っているだろう。だが、違うんだ。それは違う。我々は……」

 守衛は躊躇いがちにこちらを見て、それから観念したように、

「我々はただの徘徊だ」

「どういうことですか」

「言葉の通りだ。我々は守衛なんかじゃない。たまたま見つけたあの門を都合よく利用して金を儲けている詐欺集団なんだ。アポなんて嘘っぱちだ。金をもらって中に入れて、それでおしまい。会社と何の関係もない。むしろ会社の目が届かないのをいいことに、やりたい放題やっている犯罪者なんだ」

 急に早口になった市来崎の言葉を受け止めるのは、想像以上に困難だった。

「けど、そんなこと……それが本当なら、そんなのすぐにバレてしまって、続くはずが」

「あの門だよ。いや、あの会社と言ってもいい。最初我々があそこを見つけた時、あれはただ開け放たれていた。何の監視も、遮蔽物もない。往来は自由だと言わんばかり。ただ男が一人いて、我々を見るなり誘うんだ。一緒に守衛をやらないかと。訳が分からなかったさ。聞けば、今言ったような詐欺を計画していて仲間を集めていると言う。こいつはイカれてる。我々はそう思った。それでも男は辛抱強く誘ってくる。この門の向こうへは間違って踏み入れようものなら、二度と戻ってこれない。危ないんだ。だから、俺たちが守衛になってそれを管理しなきゃならないとか何とか言って。

 仲間内の何人かが、挑発のつもりで門の向こうへ歩いていった。それまでどこかへらへらしていた男は急に表情を硬くして「やめろ」と言ったきり、黙り込んだ。その変わりようにむしろ勢いを得て、挑発をしかけた奴らは笑いながら先へ先へと歩いていった。そしてそのまま二度と戻らなかった」

 男はグラスの水を飲んでひと息つき、

「信じていないようですね」

「正直、信じる方が難しいですよ」

 男は頷き、続ける。

「我々はその後、間をおいて何度か捜索に人を出した。そして誰も戻らなかった。我々は男に説明を求めた。今思えば理不尽な話だ。仲間のうちの一人が、癇癪を起こして男に掴みかかったが返り討ちにされた。そこからは、何だか自然な流れで守衛が発足した。門を閉め、制服を揃えて、守衛室がわりのプレハブを建てた。全部勝手にやったことだ。奇跡的に誰にも咎められなかった。奇跡は続いて、未だ誰にも咎められていない」

 守衛の信じがたい話を信じるとすれば、自分たちは詐欺に騙されたので、その詐欺の撲滅のために立ち上げた会社で別の詐欺の片棒を担いでいるということになり、それはちょっと受け入れがたい真実だった。逃避のためか、笑いが込み上げてきて、口角の上りを意識すると同時にうつむいた。

「それで、そちらの依頼とは何なんでしょうか」

「最近、抑えようもなくてね。あの門の向こうへの興味が」

「いつでも行けるじゃないですか。門を管理しているのはあなたたちです」

「ダメなんだ。我々はお互いを厳しく監視している。発足前の一件からね。それに、あそこを通っていくのは、やはり私としては気が進まない」

「では、どうしろと。他の入口なんて知りませんよ」

「君たちが活動を始めたころ、言っていたじゃないか。地下にどうのと」

「あれは、詐欺です。中になんて通じていませんよ」

「その地下を全部確かめたわけじゃないと聞いているけど」

「まあ、そうですが」

「私はもしかしたら自分を罰したいだけなのかもしれない。守衛という詐欺にも嫌気が差している。ムシのいい話だな。地下でそのまま死んでしまったら、それでいいとさえ思う」

 市来崎はそのまま黙り込んだ。もう何が何だか分からなかった。あの会社が分からないことは分かっているつもりだったのに、把握していた分からなさすら、まるで見当違いだった。Ⅴ&Ⅴコーポレーションはおしまいだ。少なくとも、今の自分に続ける気力はない。かといって、やめてどうするというのだろう。

 うつむいて黙り込む男の頭上に視線をさ迷わせていると、突然閃いた。

「ここに」

 名刺入れから、一枚の名刺を取り出す。

「その地下通路を使って詐欺を働いている人間の名刺があります」

「おお」

「交換条件です。私を門の向こうへ通してください」

「いいとも。けど、いいのかね」

 男は手を差し出しながら言う。

「ええ、もちろん」

「珍しい苗字だな、これは」

「うるわし、と読むらしいです」



 誘い込んだ奴ら全員が生還しちまったって噂だった。噂だったころはまだよかった。生還した奴らが、こちらを糾弾する活動を繰り広げているのを見た瞬間、潮時を悟った。こっちは事態を楽観視している奴らばっかりで、それが逆に危機感を煽った。軽い変装と徹底した機密管理。しかし、活動場所は地下なんだ。ある日突然、一網打尽なんてこともないとは言えない。

 場所をいくら隠していたって、偶然見つかってしまうことだってあるだろう。活動家たちは、大々的な糾弾をやめたらしいが、今はこちらの場所を探しているとのこと。もはや一刻の猶予もない。離脱するなら今だ。けど、離れてどうする。また壁の周りをうろつくしかないだろう。

 以前はどのくらい前だったか、どうしてそんなことになっていたのか、もう覚えてもいない。ただ、何をしようとしていたのかは、ここらをうろついている徘徊と、いや徘徊以外のすべてと同じだ。あの会社に入りたかった。理由や目的なんかはもう抜け落ちて、ただそれだけを覚えている。ずっと、あるかないかも分からない機を窺って、歩き続ける日々。徘徊をやってると、運が良ければチャンスに巡り合う。この地下道もそんな感じだ。歩いてればまた何かある。今はとにかく、この泥船から抜け出すことだ。

 最後の客はいやに乗り気だった。十中八九が眉に唾つけて聞く話を半ばで遮り、その場で料金を支払った。禿げかかった、冴えない男だった。そんなに泥船に乗りたきゃ乗るがいい。折よく、開扉はすぐにやってきた。

 それを見届けると、すぐにその場を離れた。



 入口は本当にあった。正直、すでに半信半疑どころか疑いの方が強くなっていた頃合いだったので、かなり驚いた。この須郷と名乗った女性の言うように、壁の付け根には印があった。そこがそのまま開閉するのかと思いきやそんなことはなく、見つけた須郷は壁から離れて道を渡り、正面の小道に入ってどんどん遠くへ歩き出す。

訝りながら付いていくと、いつの間にか同じような建物が並んだ住宅街に入っていた。

「この辺りに家があって、その地下から通路が……」

 須郷は言い淀んだ。

「まるで自分が騙された時みたいですね」

 努めて明るく、笑いを交えながら言うと、向こうも笑い返してきた。

「言いながら思ってしまいました。もしかして……」

「いや、こんな方ではなかったと思います。もちろん、連れていかれる時は目隠しの状態だったので正確な場所は分かりませんが、最初に集まった場所から遠すぎる」

「良かったです」

 わざわざ壁に印が必要であった理由はすぐに明らかになった。

 行けども行けども似たような家。似たようなとは言うが、実際に肉眼で見ればそれはほとんど同じで、道は碁盤の目。垂直に交わる道のどの方向を見ても、区別がつかないのだ。須郷はそこを、ほとんど迷わず進む。

「このあたりの土地と家、全部会社のものなんですよね」

「まさかこのために」

「分かりません。でも、十分考えられると思います」

 同意せざるを得なかった。

「けど、わざわざ従業員用通路を隠す意図は」

「さあ。部外者が入ってくるのを防ぐためでしょうか」

 すでにもとの場所に戻れる自信はなかった。なるほどこれなら、印を知っている関係者しかたどりつけないだろう。偶然さえも起こらないような気もする。

「ここです」

 須郷が示したのは、当たり前だが他と変わらない一軒家。敷地内へ入り、玄関へ向かうと思いきや、隣の家との隙間を通って裏庭に出た。物置が置かれただけの、細長い庭。まさかと思っていると、案の定物置へ入っていく。

 中は想像していたよりも奥行きがあったが、それでも物置なりの広さで、せいぜい入れてあと二人といったところだろうか。須郷が床を持ち上げると、下り階段が現れた。

「あ、電気あるんで、閉めてもらって大丈夫です」

 言われるまま物置のドアを閉めるのと同時に、須郷が電気のスイッチを入れた。明るくなって初めて、少し安堵している自分に気づいた。地下をさまよった経験は、思った以上にトラウマらしい。情けないかもしれないが、仕方ないだろう。実際、命を落とす可能性もあったのだ。自分のそんな逡巡が、気づかれたかどうか、前を行く須郷の後頭部からは図りようがなかった。

 けれど、すぐにそんな体面を気にしている場合ではなくなった。階段の先の開けた空間にあったのは、紛れもない、あの暗い地下への扉と瓜二つの鉄扉だったのだ。



 完全に予想外だったかというと、そうではないのだが、それでも少しショックだった。自分としては、さあこれから、というタイミングだったのにどうして、という疑問は残った。騙された経験が彼の中でアラートを鳴らしているのか。疑われているのだとしたら、悲しいが、その場にいなかった私にはそれを非難できない。

 話し合いの末、一人で行くことになった。出たら連絡してくれと、名刺をもらった。迷ったらではなく、出たらなのだ。そこにこちらの身を案じる感情はなく、単純に通路の実態への興味があるのみだと思ってしまうのは、ナイーブ過ぎるだろうか。こちらが相手の状況に勝手に感情移入して燃えていただけなのかもしれない。考えたら考えただけ傷つきそうなので、挨拶もそこそこに出発することにした。彼の遭遇した開かずの鉄扉と違い、こちらからでも簡単に開いた。中も、等間隔に設置された電灯で明るく照らされている。それを見てもなお、意思は変わらないようだった。

 残念ではあるが、こちらもここまで来たからには会社に戻りたい。席があるのかないのか、それだけでも知る必要がある。無ければ無いですっぱり諦めもつくのだ。

 そう考えると、気持ちが上向いてきた。

 電灯の一つが、ちらちらと明滅した。



 せっかくこの格好をしているのだから、この格好でしか置けない場所に名刺を置きたい。どうせ、意味なんてないのだ。完璧に仕事をこなす充足感が薄れるにつれて、そうした遊び心が入り込んできた。向上心だろうか。仕事の目的が分からないから、この気持ちが上向いているのか、下向いているのか、分からない。けれど、モチベーションを維持するために起こっている感情には違いない。維持して何になるのか、という疑問は常につきまとった。

 服装を変え、置き場所を変え、ルートを変えたが、徐々に倦怠感が深く根を張るのは防ぎようがなかった。次第に、もとの調査業務へ戻らなくてはという気持ちが強くなってきた。単純に飽きたことを正当化しようとしているだけかもしれない。いずれにしても、次の須郷が現れるまで抜けられないのは、ひどく憂鬱なことだった。そのルールを守る必要はあるだろうか。この業務を始めた時のような煩悶がまた頭を領してきた。

 しかし、次の須郷が現れるまでという期間の定めに関して、あの女は無期左遷の理由付けだと考えていたようだが、ひょっとすると、本当に一定の期間をあけた後にくるのかもしれない。そう考えるのは甘いだろうか。こちらが偶然その代わりとなってしまった可能性は。であれば、女と合わせてすでに結構な日数が経っているようであるし、早晩来てもおかしくない状態なのかもしれない。

 落ち着かない時間が増えていった。

 名刺を置きに外出していると、その間に部屋へ来るのではないかという気がした。冷静に考えれば向こうも勤務時間を把握しているはずだし、もし来たとして、いなければ再訪してくることは間違いないのだが、それでも焦りのような感情が込み上げてきて、注意力が散漫になった。名刺を置こうとして二度ほど咎められた。注意を受けた店はルートから外し、代わりに公園などの誰にも注意を受ける心配のない場所を追加した。そんな組み換えをやっているうちに、ルートはどんどん自宅から近い場所になっていった。ついにポイントとポイントの間で家へ寄るようになり、戻ってはまんじりともせず数分を過ごして出ていくということを繰り返した。

 客観的に見て、異常であることは分かっていたが、気がつくと次の須郷のことを考え、自宅へと向かっていた。

 次の須郷は来なかった。

 自分は一生このままなのか。努めて考えないようにしているその思考が嫌でもちらついた。別に逃げればいい。いつでも逃げられる。けれど、そのいつでも逃げられる状況が妙な枷になり、脱出を阻んだ。

 消耗しているのが分かった。あの女の服がまた、一段と入りやすくなった。

 ある日、業務から戻り服を脱ごうと腰に手を当てると、スカートがすとんと落ちた。そんなきっかけで良かった。そのまま以前着ていた服に着替えると、部屋を飛び出した。鍵も何もかけなかった。道路に出てひたすらに走った。逃げないと。頭の中はそれだけだった。しかし、自分でも分からない感情が、部屋から離れるほどに胃の腑へ具現化してくるようだった。体が重くなり、足が緩み、そして止まった。

 どうして逃げられないのだろうか。それを考えるのも嫌だった。

 これはただの散歩。あるいはいつか来る逃走の練習。

 そう思い込んで部屋に戻ると、男がいた。



 チャンスだと思った。何のだろうか。

 入って何を調べればいいのか。そんなことを考えることもせず飛び込んでいた。予想された段ボール詰めの大量の名刺、ごく一般的な家具や食器、そしてPCには報告書と思しきものがあった。確かにあの会社の業務だった。振り返ってみれば、何の根拠もない、徹頭徹尾ただの勘だったのだが、まさか的中するとは。ただの勘に執着してここまで来た甲斐があったものである。有頂天になって注意力が散漫になったせいか、気づいた時、足音はすでに玄関のすぐ前まで迫っていた。弾かれたように立ち上がり、玄関へ飛びつこうと手を伸ばしかけたところで、ドアが開いた。

 さまざまなことが頭をよぎった。男の見開かれた目。半開きの口。こっちも同じような表情かもしれない。沈黙の後、男が、

「須郷さんでしょうか?」

 予想外の一言。そんなわけはなかったが、否定すれば今ここにいる正当性が失われる。判断する時間もない。ほとんど反射的に、

「えぇ、まあ……」

 男の顔に喜色が満ちた。ほとんど泣き出さんばかり。

「よろしくお願いします」

 そう言い残したきり、あっという間に去って行った。

 訳が分からず、呆然としていたが、徐々に難を逃れたという実感が湧いてきた。安堵が広がり、力が抜けた。しばらくして冷静さを取り戻し、改めて報告書に目を通していると、どうやら自分がこの業務の交代要員になってしまったらしいと分かった。



 Ⅴ&Ⅴコーポレーションを退くには、やはりひと悶着あった。そもそも自分から提案したことであるし、非難は甘んじて受けるよりほかに致し方なかった。しかし、守衛との協力関係が安定的な収益をもたらしており、最初の反感を乗り越えてしまえば、思いのほか後は引かなかった。こんな状況では守衛が無法者集団であることなど、口が裂けても言えない。

 次の代表を決める争いが水面下で起きている様子で、関わらせまいとする社員の意向を幸いに、私は徐々に存在感を薄めていった。

 間もなく退職の日が訪れ、簡素で型通りの挨拶とともにⅤ&Ⅴコーポレーションを後にした。そこで初めて、協力関係を結んだ男のことを思い出したのは、我ながら迂闊だった。けど、今さらどうしようもない。ここ最近は連絡もなく、いきなり連絡して告げるには急展開が過ぎる気がした。いや、もはやどのタイミングでしてもそうだろう。それならいっそ、中に入ってうまく手引きできる目処が立ってからでいい。その時にはもう、最初に約束した向かうからの見返りは意味を成さなくなっているだろうが。

 門が見えてきた。会社を立ち上げてから幾度となく見てきたが、今になっても自分がこの向こう側へ、今から行くのだという実感が湧かない。

 競りの時間外は、この場所も静かなものである。物憂そうに門のそばに詰めている守衛たちは、そう聞いたせいか、改めて見ると確かに無法な雰囲気を湛えていた。少し緊張しながら近づくと、ほとんどこちらに目もくれず、顎で門の横の通用口を指した。この大きな門自体は開いたことがない。出入りはいつも横に設置された、人一人分の通用口だ。守衛たちが取り付けたのだろうか。だとしたら、なかなか考えたものである。本当に自分が通る時にしか向こう側は見えないという造りに、否応なく好奇心を駆り立てられる。

 実際、ノブにかけた手が微かに震えているくらいだ。諦めて考えないようにしていたが、とうとうあの会社の中に入れる。長かった。状況が変わり過ぎて、入る目的の方がすでに置き去りにされている。純然たる好奇心。今自分が、ここをくぐる理由はそれだけだった。

 ノブをひねり、ドアを押し開けた。



 まただ。またこの景色だ。視界の半分を埋め尽くす壁。嫌気と一緒にどこか懐かしささえ込み上げてくるのは、惨めな気持だった。よほど徘徊が板についているのか。次はどうするのか。こうして塀の周りを歩いていれば何かあるだろう。犬も歩けば棒に当たる。人なら。どうだろう。ここらでいっちょ、本気で会社の中を目指してみるか。いや無理でしょう。本気でやって出来なかったからこのざまなのだ。あの会社に入れない俺みたいな奴は、せいぜいあの会社を利用して身を立てるしかない。けど、どうしたらいい。あの地下通路は、都合のいい場所だった。

 いい加減、この会社から離れた方がいい。そんなことはとうの昔に思っていた。けど、離れたところで今より良くなるとは断言できなかった。そうなると、保守的になるのが人間だ。慣れた場所を離れるのは、精神的なハードルが高い。慣れた場所と言っても、一切を拒むこの壁の前だが。

 相変わらずの、徘徊たち。無駄なのに。壁の周りを歩いていたって、何もなりゃしない。いや、歩いていたらどうにかなるって、さっきまで考えていたじゃないか。同族嫌悪か。あいつらには無駄で、俺には無駄じゃない。みんなそんなことを考えて歩いている。不毛で嫌になる。

 久しぶりに歩いてみると、また大きくなっている気がする。気がするのではなく、確実に大きくなっている。どうせなら行っていないところへ行こう。あまりに巨大でなおかつ拡大が急速なおかげで、一周する間には大きくなっていて、全然一回りできないのがいいところだ。一周する間には何かあるだろう。

 気楽に歩いていると、ほら、何だありゃ。

 思わず立ち止まった。大きな門。いつの間に出来たのだろうか。実はこれまで明確な入口というやつを見たことがなかった。開いたままで、まるでご自由にと言わんばかり。門はただの装飾で、初めから閉まるようにはできていない。そう言われても信じられる。徘徊たちはそこまで来ると、砂漠でオアシスでも見つけたかのように向きを変え、迷うことなくすーっと吸い込まれていく。実際、自分も行きかけた。けど、頭のどこかで警鐘が鳴っていた。あの会社にこんな簡単に入れるわけがない。

 そこに留まることにした。

 二日、三日、一週間と門を観察し続けた。何人もの徘徊が入っていった。そいつらは間違いなく全員徘徊だった。そして、誰一人出てこなかった。ある案が閃き、なおも観察を続けた。誰も出てこない日が伸びるにしたがって、閃きの素晴らしさを実感する毎日だった。一か月ほど経った時、門の前に移動した。

 そして、さらに待つこと数日。ようやくおあつらえ向きの徘徊がやってきた。

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