3
結局、何の進捗も無いまま数日が過ぎ去ってしまった。その間も、焦慮の波が寄せては引いていく日々だった。会社からは何の連絡もなく、もう自分の席は無いと考えるのが普通だが、そもそも連絡ひとつ無い時点でその普通は当てはまらない気もする。このまま退職したことにしてしまうには明らかに情報不足で、強引に進めれば後で思わぬ障壁となって立ち塞がらないとも限らない。辞めるにしろ、留まるにしろ、とにかく今どういう扱いになっているのか知りたいのだが、生憎とそれを得る手段が閉ざされていて、宙ぶらりんのまま壁を周りをうろつく羽目になっている。
散々迷ったが、給料日まで待つというかなり受け身ではあるものの、最も判断が楽な手段を取ることにした。そして今日がその日だった。いつもは大体、昼頃には振り込まれている。そろそろだ。小汚い中華料理屋の片隅から、油汚れでべとついた窓越しに会社の壁を見つめながら、貧乏ゆすりが抑えようもない。
この数日、壁沿いに歩き詰めだった。就業時間をそうして過ごし、翌日は前日終えた位置からスタートするという繰り返し。焦って速足になったかと思えば、諦めから全てがどうでもよくなり、長いこと近くのカフェで時間を潰していることもあった。それでも、かなりの距離を移動したはずだ。けれど入口らしきものは一向に見つからなかった。
代わりに徘徊と思しき連中はそれなりに見かけた。最初は普通の歩行者と区別がつかなかったが、何度かすれ違ううちに、見分けがつくようになった。具体的にどことは言えないのだが、すぐ横の壁への意識が動きに表れているとでも言おうか。だが、そうであるとすれば、自分ももう傍から見たら徘徊と何も変わるところがないかもしれない……
初日に見かけた壁叩きとかいう徘徊と自分の姿が重なって、ゾッとした。直後、向こうも同じ立場なのかもしれないという考えが、卒然と浮かびあがる。
まさかそんなことがあるだろうか。思いのほか納得できる側面もある。いやむしろ、そう考えた方がしっくりくる気さえした。確かめた方がいいだろう。もしも徘徊が同じ境遇の人なのだとしたら、すぐにでもここを去る。違ったら違ったで、何か情報を聞き出せるかもしれない。いずれにしても、徘徊とは接触してみる価値がある。宇野沢みたいな人間でも徘徊のことは分からないと言っていた。案外、彼らがカギになる可能性だって、無いとは言い切れないだろう。
一度、携帯で口座を見て振り込みが無いことを確認し、再び窓の外へ目を向ける。油でぎとついた窓の向こうを横切るぼんやりした帯。取り付く島もないくらい無機質で高いコンクリートの壁。
「つい最近だねぇ。何だろうな、って思ったら、次に気がついた時にはもう壁ができてたんだよ。ねぇ、どれくらい前だっけねぇ」
他の客が訊ねたのか、給仕の女将が厨房に向けて声を張り上げる。亭主との要領の悪いやり取りは結局、明確な答えが出ずに終わった。どれほどの勢いで大きくなっているのだろうか。もしかしたら、ここに表示されている地図情報すら、会社の成長速度に追いついていないのではないか。無機質なコンクリート壁が、生物じみて見えてくる。その外皮を這う、蟻が一匹……
壁叩きだった。
以前と同じように、塀を叩きながら歩いている。規則性がありそうで、しかし掴めない。無いのかもしれない。気がついたら、店を飛び出していた。金をちゃんと置いていくくらいには、まだ余裕があった。釣銭を受け取らずに出たのは初めてだった。小走りで道路を割り切り、ガードレールを乗り越える。
「あの」
壁叩きが振り返る。露骨なしかめっ面。接近を拒むように手を挙げたと思ったら、指がこちらの背後を指さしている。今出てきた中華料理屋か。釣銭を渡しに女将が追いかけてきているのかと振り返ったが、そんなことはない。別の場所を指しているのか。両隣は民家。通行人もいなければ、格別変わったような物も見当たらない。一体何を指したのか、しばらく視線をさ迷わせたが、まるで見当がつかない。
再び男の方を向くと、そこに姿はなかった。少し先に、壁沿いを走る姿がすでに小さい。見ている内にどんどん小さくなる。
一杯食わされたことを理解するのに一瞬、間が必要だった。遅れて怒りがこみ上げ、後を追うように屈辱感が滲んでいく。その時にはもう、走り出していた。漫画みたいな手に引っかかった羞恥心と、それを見舞ってくれた壁叩きに対する腹立ちが脚を動かした。追いかけることでさらに恥ずかしさが募ったが、捕まえて意趣返しをしたいという復讐心が、それをわずかに上回った。
こちらを振り返った壁叩きが速度を上げる。
追いかけられるのは、予想外だったのだろうか。だとしたらいい気味だ。これでも体力にはまだ自信がある。中高でサッカー、大学ではフットサル、最近サボり気味ではあるが、社会人になってからは、ジム通い。しかし、いきなり逃げ出すとは、よほど後ろ暗いことがあるのか。関わりたくなければ適当に話を合わせるなり、嘘でやり過ごすなりした方が楽だろう。そこまで話が通じないように見えただろうか。正直、むこうの方がよほど変人に見えるだけに、少し心外である。いや、考え過ぎか。そもそもそんな思慮の上での行動ではないかもしれない。それに、何となく面倒を躱すことができない奴は、他にいくらだって見てきた。
少しずつ、壁叩きの姿が大きくなってくる。
いい調子だ。これは思ったよりも早くカタがつくかもしれない。気分も大分落ち着いてきた。どうやって問いただそうか。怒りに任せて問い詰めたって、何の効果もないだろう。そもそも何で逃げるのか。そのあたりを考えた方がいい。付きまとわれるとまずいことがあるのか。中に入る方法を知っているのか。いや、それならなんで、こんな長時間外をうろついているのだろう。やはり壁叩きは、同じように社内に入れなくなった社員なのかもしれない。いや、もしかしたら壁叩きだけじゃなく、徘徊は全員が。ならなぜ逃げる。羞恥心。劣等感。同族嫌悪。
大分、近づいてきた。もう、こっちの足音も相手に届いているはずである。焦ってペースを乱してくれれば、より捕まえやすくなるだろう。
あるいは壁叩きもグルなのか。しかし何とグルなのか。食わせや釣りか、あるいは会社と。一体どういう目的で。目的が分からないにしても、逃げるのはおかしい気がする。いや、あまりに予想外の事態が連発して、被害妄想に近い発想になっているかもしれない。徘徊はただの浮浪者だってことも、あり得るのだ。いずれ確認してみるまで分からない。しかし、距離は、あと少しのところが縮まらない。
視界の左半分を、壁面が後ろへ滑っていく。改めて見ると、凹凸の無い、滑らかな壁である。よじ登るという発想さえ、拒んでいるかのようだ。きれいな壁面に突如、誰かが汚したのか、細長く垂れ下がった染みが現れ、後ろへ流れていった。
反射的に仕掛けた。
足を強く踏み込み、ストライドを広げる。勢いにのって加速する。
距離をぐんぐん縮め、伸ばした手で、その肩を掴む。
イメージは完璧だった。
しかし、いくら加速しても距離が縮まない。相手も同じだけ加速していたのだ。
やられた。
長距離走は駆け引きなのだと、聞いたことがある。駆け引きである以上、経験値が物を言い、加齢とともに身体能力が低下するという生物的な制約を無視できれば、経験年数の長い人間の方が圧倒的に有利だという。
今まさにその駆け引きに敗れたのだと実感した。膠着状態を打開するために、カードを切った瞬間、見事にカウンターを食らった格好だ。実際、追いつけると思ったところで追いつけないのが、予想の倍辛い。速度を維持する精神力が揺らぐ。まさか、追いつくところからすでに術中だったのだろうか。慎重に機を見て、同時に加速。十分だ。素人なら、これだけで、まず心が折れる。喉の奥から血の味が口中に広がってきた。さっきまで気にならなかった自分の呼吸音が、やけにうるさい。心なしか、相手の姿勢が堂に入っている気がした。わざと追いつかせたのか、それなら向こうはまだ余力があるのか、そんな無意味なことを考えながら、じりじりと離されていく。諦め悪く走り続けても、差は開くばかりだった。壁叩きの姿が、走り出した時と同じくらい小さくなったところで、ついに足が止まった。
男は、伸びる壁に沿って、吸い込まれるように遠方へ消えていった。
足を強く踏み込み、ストライドを広げる。勢いにのって加速する。
そのままトップスピードを維持し続けると、背後の足音は少しずつ遠ざかっていった。
定期的に好奇の的となるのは堪らない。最初はちゃんと説明していた。けど、丁寧に説明すればするほど、相手は疑った。
何か知っているではないか。それを隠しているのではないか。
しつこく付きまとう。説明しても疑われるなら、逃げたって変わらない。むしろ時間が無駄にならない分、そっちの方がはるかに合理的な対応だった。
足を緩めていき、そのまま通常の歩行速度まで落として振り返ると、追ってきた奴はとっくに見えなくなっていた。左手を壁に近づけ、手首を使って叩いていく。
探し物だったかもしれないし、通勤か、はたまたただの散歩なのかもしれない。歩いているうちに目的を忘れ果て、それでも不随意運動のように脚が交互に前へ出る。合わせて、手は甲ですぐそばの壁を叩いている。それで思い出すんだ。中に入る方法を探していたのだと。けど、どうして中に入ろうとしているのかまでは思い出せない。きっと、入れば思い出すだろう。きっと。入れば……
息が戻るまでには、思った以上に時間がかかった。シャツと一緒に身体へ貼りついた敗北感が不快だった。惨めな気持ちのまま、給与振り込みが確認できていなかったことまで思い出し、半ば自棄になって再び口座を見ると、どうしたことが給与が振り込まれていた。
敗北感が吹き飛んだ。しかし、すぐに困惑で上書きされる。
どういうことだろうか。また一つ分からないことが増え、返って気が滅入る。携帯を睨みながら思案していると、能美からの着信でそれが震え出した。
「これは役に立つ情報か分からないけど」
電話に出ると能美は開口一番に言い、こちらが口を挟む間もなく説明を続けた。
「徘徊の目的について、こっちで以前調べたことを共有しておこうと思って」
タイムリー過ぎて作為を疑いたくなる。
能美の主張は、徘徊が会社の周囲を見張っている、いわば覆面の警備員ではないかというものだった。そもそもが侵入など試みられるような高さの壁ではないが、それでも不審な動きをする者がいないか、常にチェックして回っているのだと。確かにそうであれば、会社が徘徊を放置していることに説明がつく。けれど、こちらは今しがた警備員にあるまじき態度を目の当たりにしたところである。
「なるほど。声をかけたら逃げた。でも、あなたは追いかけた」
「それが」
「追いかけたことで、会社から注意を逸らしたでしょう」
納得できないことを沈黙で示すと、能美はさらに続ける。
「物理的に追いかけるだけじゃない。こうして徘徊について、探ってる。それがただの煙幕だとしたら見事に術中じゃない。内部事情を知る人間を使う訳はないから、どうせ外注でしょうけど」
どうやるのかという現実的な話はさておき、たとえば壁を超えるという力技を使おうにも、近くに人がうろうろしていたらやりにくい。かといって追いかければ逃げるし、その上、徘徊自身を調べ上げても何も出てこないのなら、それは優秀な煙幕ではある。
「なるほど、けど」
「憶測にすぎない、でしょう。分かってる。けど憶測以上のことができないのだから、仮説検証といきましょうよ」
「どうやって」
「それはやっぱり、徘徊に接触するしかないでしょうね」
「それが急に情報を伝える気になった理由か」
「もちろん、こっちでもアプローチはする。取引先を取り巻く環境を調べるのは業務の一環だから。持ちつ持たれつでいきましょうよ」
能美との通話を終えると、いつの間にか周囲がにぎやかになっている。街中に入っていた。会社の敷地沿いを歩いているだけなのに、別の地域へたどり着いてしまったことに今更ながら面食らう。競売が行われていた入口はオフィス街にあったが、そこから歩くにつれ道を行く人が減っていき、ここしばらくは閑静な住宅街の中を進んでいた。地図を確認すると付近に規模の大きい鉄道駅があり、複数の路線が乗り入れているらしい。もしかしたら、入口はこういう場所に構えているかもしれない。そう思ってしばらく歩いてみたが、壁の切れ目は一向に見えてこず、諦めて道沿いのカフェに入った。
窓際の席に陣取り、往来を行く通行人を眺めてみる。人通りは格段に増え、この中から徘徊を見つけるのは、至難の業だった。雑踏が壁の前を右に左に流れていく。壁に埋め尽くされた背景が奥行きを殺し、まるで一枚の絵画だ。複数の勢力があの手この手で利用し、無数の営業が詰めかける会社が、ここではただの背景である。常識外れの規模。拒絶を隠そうともしない造り。しかし当然湧いてくるはずの警戒心や好奇心は、ここではまったく感じられない。馴化によって摩滅してしまったのだろうか。それとも、いつの間にか社内に入っていて、周りは皆、社員だということは……
眉のあたりを指で揉み、コーヒーを流し込む。
注意力が散漫になり、ありもしない事柄へ、発想が飛躍する。何ひとつ好転しない事態に思ったより参っているのだろう。けれど焦ることはない。どうやら自分はまだ社員らしいのだから。しかし、いま最も不思議なのはその事実かもしれない。一体どういうことなのか。給与が振り込まれたということは、ちゃんと仕事をしていると認められたということだ。調査部、業務、まさかこうして会社の周りを調べ回ることが仕事なのだろうか。けどそれに一体何の意味が……いや、そんなことを考え出しても始まらない。今は給与の支払いがあったという事実から逆算していくことが肝要なのだ。もし、これが業務なのだとしたら、報告書の準備くらいはしておいた方がいいだろう。
手帳を取り出し、転属初日から今日までに分かったことや、そこからの考察などを書いてみる。するとどうも、流れに任せて飛び込んできた情報を書き溜めただけの印象が強い。せっかく情報を手にしても、それに基づいて何かを調べているという感じがしない。実際にただ壁の周囲を歩いているだけなのだから、当然だろう。このままでは箇条書きのメモに毛が生えた程度のものにしかなるまい。こんな理不尽な状況で無能扱いされるのも業腹だ。文句のつけようがない仕事を見せれば、たとえそれがこちらの勘違いだったとしても、向こうの落ち度を自覚させる材料にはなるかもしれない。
自棄になったわけではない。壁沿いに歩いたって、解決する見込みは薄いのだ。それならここらで少し、腰を据えて調査といこうか。奇妙な話ばかりで混乱もある。せめて真実の尻尾だけでも掴んでやりたいところだ……
分厚い鉄扉だった。開いた時の重々しい音は見た目通りで、人の力じゃビクともしない訳だと、合点がいった。鉄扉のこちら側でさえ、申し訳程度の照明があるのみの、うす暗い空間だったが、向こう側には何の明かりもなく、扉が開き切ってしまうとそれは洞穴のようだった。開いたらすぐに乗り込んでやろうと構えていた連中も、その暗さに気勢を削がれ、バツ悪そうに尻込みしていた。
想像と違ったのだ。塵ひとつない、明るい廊下。具体的な想像は無いが、近未来を想起させる装置。快適さを追求した空間。誰も言葉にしないけれど、そんな妄想を膨らませていたのだった。それが、どうだ。真の闇と言ってもいいくらいの非日常的な暗さ。第一、こんな場所、どうやって進めばいいのだろう。危険は無いのか。明かりはどうする。迷ったら。困惑が怒りの色を見せ始めた時に、「どうしました。いつまで開いているか分かりませんよ」と声が響く。
好機なのだった。しかし、本当に好機なのだろうか。
やり場のない感情を抱えて膨張したストレスが決壊するように、集団から一人が、叫びながら飛び出した。そのまま鉄扉の向こうの闇へ消えていった。空気とは違う媒質に、呑まれるようだった。
一拍遅れてどよめき、もう一拍遅れて闇への行軍が始まった。
話しかけやすそう、というのは朗らかや友好的といったポジティヴな意味合いではなく、騒ぎ出したりする心配のないもの静かな、言ってしまえば自己主張が苦手なタイプとの表現が正解で、弱みに付けこむような考え方に罪悪感が拭い切れなかったが、それでもいくつかの候補の中から須郷という女に的を絞ることにした。
腰を据えて調査することに決め、しばらくの間この街で過ごしてみたが、何から始めたものか、正直見当もつかなかった。苦肉の策で始めたのが、他人の会話に聞き耳を立てることだった。壁や会社を話題にしている人間を探すつもりで、けれど、河原で落とした石ころを見つけるくらいの期待もしていなかった。しかし、ほどなくしてそれらしい会話を拾うことができ、一度拾えると、今度は結構な頻度で聞こえてくる。内容自体は、大したものでなく、数往復で別の話題に切り替わってしまう程度の、話のきっかけに過ぎない。それでも、糸口には違いなかった。聞き込み。そんなやり方が頭をよぎった。
問題は聞き込む内容だったが、主旨が不明のまま調査という行為だけが先行しているせいで、照準が定まらない。仮の趣旨を設定しても良かったが、せっかく取り組むのだからある程度潰しが効くようにしたい。そこで対象の数を絞り、内容の方を充実させることにしたが、そうなってくると無関係かもしれない人間に声をかけるのは気が引けた。一人当たりにかかる時間は長くなるだろうし、手当たり次第に声をかけて付き合ってくれる人間を探すというのも、違う気がする。
リスクを考え、慎重にターゲットを選定していると、自然、気の弱そうな人間を探すという形になった。情けない状況だと思わなくもないが、感情に流されてリスクを背負っているようでは、話にならない。聞き耳を立てながらカフェや飲食店などを巡り(白状すると時には尾行もして)、須郷に白羽の矢を立てたのである。
どうやって須郷の名前を知ったのか。簡単な話だ。名刺が落ちていたのである。落ちていたというのは、語弊があるかもしれない。置いてあったのだ。とあるカフェの窓に面したカウンター席。こちらがトイレに立って、戻ってきたら相手はいなくなっていて、席に一枚名刺が置かれていた。
実際、忘れ物というには無理がある。けれど、こちらに気づいた上でのメッセージにしては雑だったし、やり方が気質にそぐわない。名刺は持ち帰り、接触については一時保留とし、しばらく観察を続行することにした。
持ち帰った名刺はおかしなもので、『須郷優』という名前以外には何も書いておらず、名刺というよりは名札に近かった。本当にあの女の物なのかも怪しい。となると、二重尾行の体で女を追うこちらを追う何者かからのアプローチという線も、なくはない。むしろ女自身が誘いをかけてきているというよりは、よほど信じられる。けれど、そんな人間の影さえ見つけられない内に、今度はこちらが見ている前で、女が席に同じ名刺を置いた。
警戒をさらに強めた。名刺は回収した。相手の動きに不自然なところはない。というか、不自然なのはその名刺を置く動作だけである。それ以外は日常と何も変わらないのだ。罠を仕掛けた人間から滲み出る期待感や、見られていることを理解している人間の恐怖など、まるでない。これが演技だとしたら、大した役者である。
足音と吐息だけが渦巻いていた。最初こそ肩がぶつかったり、足を踏まれたりしたものの、次第にそれもなくなっていった。空間が広くなっているのか、単に脱落者が増えてきたのか、よく分からなかった。ただ、それでも吐息と足音だけは、よく聞こえた。
暗い中を恐る恐る進むせいか、目的地にはなかなかたどり着かなかった。正直、どこが目的地なのかさえ、誰一人分かっていないきらいはあるが、それでもこの暗闇から出ることが、ひとまずは歩いている理由と言えた。
携帯端末の明かりを頼りに先頭を行く者が、バッテリーの低下を気にして交代を求め始めたあたりから、嫌な予感が無視できなくなってきた。実際、誰もが思っていたに違いない。
自分たちは、ひょっとして担がれたのでは。
けれど、金を騙し取るとはいえ、これだけの人間を失踪させるリスクに見合う金額とは思えない。それとも、絶対に見つからない自信があるのだろうか。それは裏を返せば、自分たちが絶対に外へは出られないことを意味する……
同じような気持ちだったのか、交代の呼びかけに応える者はおらず、いざこざが起き始めていた。先頭の奴が、近くの奴と無理矢理交代しようとしていた。集団の歩みが止まった。誰も彼もが見て見ぬふりを決め込みたかったが、それではここを動けない。動こうとすれば必然的に自分が先頭に立つしかない。いつまで続くかも分からないこの暗闇で、自分の自由になる明かりを失うことには、言い知れない恐怖が付きまとった。
しかし、ずっと止まり続けるのが余計に危ないことであるのは、目に見えて明らかだった。結局、誰かの中で、止まっていることの恐怖が明かりを失うことの恐怖に勝つまでのチキンレースだった。
途端にバカらしくなって、先頭に躍り出た。いさかいの脇を抜けて進むと、背後からどよめきが起こり、次いで復活した足音が追いかけてきた。
名刺そのものに気を取られ過ぎたせいか、名刺を置く行為の規則性に気づくまで、時間がかかった。何のことはない、三日に一度という頻度なだけであるが、それが意味するところを考える必要性はありそうな気がした。
一方、置く場所の方には規則性が見いだせず、何度も同じ場所に置いたかと思いきや、唐突に初めて訪問した所へ置いてくることもあり、下見のように幾度か訪問してからまるで慎重に事を進めるかのように置く場所があった。場所を地図上に記録しても何も浮かび上がらず、即座にこちらが回収しているのに不都合が出ている様子もない。現状、須郷の行動から目的を推察するのは難しかった。
警戒して一時保留していたが、そろそろ次の段階に進むべきかもしれない。実際、声をかけようと思えば、機会はいくらもあった。置いていった名刺を「忘れものですよ」という感じで後ろから。そんなのでもいいのだ。何と答えるだろうか。
けれど、どうにも踏み切れないのは、やはり名刺を置く行為の際立つ不自然さである。他に目的が考えられないなら、声をかけを狙った誘いの可能性が最も高い。こちらを狙ってやっているのか、それとも不特定多数に向けているのか。声をかけた先にあるのが罠なのか何なのか。分からないことだらけの状況が、様子見の継続を強いる。
須郷の名刺を入れているケースが、ずっしりと重みを増していく。
大股で歩いた。時間をかければかけるほど不利な状況になる。それは灯火のバッテリーもそうだし精神的なことでもそうだった。足を緩めれば、足の引っ張り合いに飲み込まれる。だから、引っ張られる心配がない速度で足を振るしかなかった。当然、恐怖はあった。半分は冷静な現状分析で、もう半分は自棄だった。飛び出した以上、今さら引っ込むわけにもいかず、弱気を悟られるのも癇に障る。結局、後ろを引きちぎるような速足になった。
幸い、唐突に壁にぶち当たったり、穴に落ちたり、急な傾斜に遭遇したりということはなく、道は平らかに続いていた。問題は、どこまでも平らかに続いているという点である。暗闇で先の見通しはなかったが、足音の反響を聞いている限りでは、その終点が容易に到達できる距離にはないように思われた。
その足音も気づけばずいぶん減っていた。それを深く考えることは、本能が拒否した。ただ進むことに集中した方がいいと感じた。どうして一企業の社屋に入るだけで、こんな命がけなことになっているのか。それは誰もが疑問に思っていたかもしれないが、いずれ後ろ暗い方法を選択した自己責任という反論を逃れられず、口にする前に飲み込むしかなかった。歩きたくもない暗闇を歩かされているせいか、思考は高頻度でループした。別のことを考えようとしても、すぐにまた同じ場所へ戻ってきた。
そんなことを繰り返しているうちに、誰かが、左右の壁がなくなっていることに気がついた。
名刺入れ用のケースを買い足した。買い替えたのではなく、買い足した。須郷の名刺を入れる専用のものだ。別段、回収を続ける意味があるわけではなかったのだが、不思議なもので、続けていると今度は見逃すことに抵抗を感じ始めるのだ。まるで仕事のようにと考えて、そういえば仕事だったと思い出す。地図上に打った点は相変わらず何も示さず、それどころか、名刺を置くスパンにあった規則性さえも、いつしかなくなっていた。
最初は須郷の方で数え間違いでもしたのかと思ったが、これまでにない間隔の置きが続き、気がつけば一日一枚のペースになっていた。変化が起き始めたころの記録と記憶を頼りに原因を探ってたが、それらしいものは見当たらない。単純に、こちらの回収に気づいたのだろうか。しかし、それなら置く数を増やすのではなく、減らすのではないだろうか。いずれ須郷の目的は分からないので断言はできないが、こちらが回収していることが関係している線は薄そうだ。
もうひとつ不思議なのは、須郷が仕事らしい仕事をしていない点である。これは、早期に気がついたが、理由のある長期休暇なのか、転職活動中なのか、そもそも働く意思もないのか、何にせよ観察を続けていくうちに分かるだろうと見積もっていたが結局判明せず、その期間が延びれば延びるほど説明がつかなくなるばかりで、いまやこの名刺を置いていく作業が仕事なのだというのが、ほとんど唯一の、整合性を取った説明である。それだって、形ばかりの整合性で、その仕事の意味などを考え始めると、すぐさま荒唐無稽な姿が露わになるのだ。
名刺を置く頻度が増えたのと同時に、置く場所のレパートリーも増えた。須郷の行動範囲は、確実に広がっていた。
通路だったはずなのだ。『壁』に挟まれた『道』を通っている。その一事が、自分たちが前進していることの証左で、それは同時に精神的な拠り所でもあった。
その壁がなくなっていて、通路はいつしか広間になっていた。動揺が足を止め、細長く伸びていた集団が膨らんだ。四方八方に灯火が伸びたが、その空間の輪郭を捉えることは叶わなかった。暗かったとはいえ、迂闊だった。このまま闇雲に歩き出しても、いつの間にか元の場所へ戻ってきてしまうように思われた。これだけの広さならなおさらだ。それでも、戻ってきていることが認識できればまだマシだったが、それにさえ気づけない公算が高い。考えるほどに、足は前に出なくなった。
間隔を開けながら一列に並び、リスクを回避しながらこの空間の広さを探るのが適当な打開策に思えた。ただ、それだけのチームワークを持ち合わせているのかという点が懸念だった。
単に移動の先頭を切るのとは別種の思い切りが必要で、この集団を仕切る面倒を考えると逡巡せざるを得ない。まるで潮の満ち引きに合わせて、濡れずに汀へ肉薄しようとしているかのように、集団を見失わないぎりぎりのところまで、恐る恐る進んでいく者も何人かいたが、誰も協力しようという発想を見せようとはしなかった。
仕切り役を押し付け合うかのように、無数の灯火が暗闇をちらちら揺れていた。
行動範囲が増えたことで、最初は須郷の人物像がより立体的になっていくような感じがしていた。しかし飲食店の他に、スーパーやコンビニ、各種娯楽施設に役所、服屋、雑貨屋、書店、公園、寺社仏閣、山河の景勝地、ジム、スポーツ施設と、移動先のレパートリーが急速に拡大するにしたがって、須郷が自分の趣味からそういった場所へ赴いているのかは怪しくなってきた。
今までは、私用のついでに名刺を置いているものと、無前提に思い込んでいたが、本当に仕事なのであれば、そもそも名刺を置くためにそういった場所へ出向ていることになる。行った先の滞在時間はまちまちであるが、本当に名刺だけ置いて出ていくことはない。けどそれだって、何の保証にもならないだろう。仕事がきっかけの趣味なんて、いくらもある話である。しかし全部趣味にしているとしたら、多趣味過ぎた。だからといって、仕事がメインの訪問であると断定はできないし、断定したところで、その狙いの方をはっきりさせなければ意味がない。
結局、須郷がより多くの場所へ名刺を置くようになったという事実は、進展に見せかけて、一層こちらの逡巡を強いるものだった。
「一列になって、出来るだけ広がってみましょう。広がってから、最後尾が先頭へ一人ずつ移動して、とにかく壁を見つけないと」
進退窮まっているところへ、女の声で提案があった。語気鋭く、という訳ではないが、強い調子があり、提案というよりは、指示くらいの強さがあった。しかし、全員不安で参っていたのか、思いのほか反発が出ることもなく受け入れられた。こんな訳の分からない所で遭難して餓死するというのは、現実感の湧かない話だった。けれど、現状を打開する方途はなく、その延長線上には遭難や餓死が確実にあるのだと意識せざるを得ない。身内が捜索願を出してくれることは期待してもいいかもしれないが、すんなりここが見つかることを想定するのは甘いだろう。裏口というだけあって、見つかりづらい場所の上、秘密の管理も徹底されていた。待っていれば助けがくるだろうことを望めないのなら、やはりどうにかして行動を起こすしかないのだと、ちょうどそんなことをこの場の多くが認識し始めていたところだったのかもしれない。女もそれを察して切り出したのか、タイミングは完璧であった。
集団が、指示通り一方向へ伸び始めた。
冗談じゃない。どうして自分がこんなことをしなければならないのか。原因はすべてあいつだ。定期的に開く入口。格安で社内へ。今思えば露骨に怪しい甘言だった。騙されたことが悔しくてならない。だけど思い起こせば、確かに百パーセントの保証はしていなかった。自分を納得させるため、返ってそれを誠実さと見做して、信用してしまったのだ。
振り返ってみれば、自分の落ち度の方が大きく、それが余計に業者への憎しみを煽った。人の弱味につけ込んだ騙し討ち。アポの競売も大概だが、完全に他者を利用して儲けているという点で、より悪質な気がした。
同調圧力とは恐ろしいものだ。入口で引き返すという手もあったのに、完全に周囲の勢いに流された。先陣を切った男は、おそらくサクラだろう。一度暗闇の中に入ってしまえば後発に追い越させて、すぐに踵を返しても気づかれない。いつもこんなことをやっているのだろうか。
ただでさえ体力の無駄ができないというのに、いさかいが起きた時は絶望したが、誰かが先頭につくことで最悪の事態は免れた。気の利く人間もいるらしい。散り散りになっていくのが最悪で、人数が減った分だけ、この場所から抜け出せる確率も減ると考えた方がいい。何をするにも人数が能率に直結し、それには協力が前提となる。当たり前の話だが、このおかしな状況にどれだけの人間が危機感を抱いているかは不明だ。協力の成立には意識の統一が不可欠だが、それをゆっくり確認していられなくなった。
一か八かでも協力を依頼して、とにかくこの空間の輪郭を把握しなくては……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます