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Ⅴ&Ⅴコーポレーションを出てから一度、先ほどの門まで戻ってみたが、すっかり人はいなくなっていた。競売は終了したらしい。見通しがよくなったおかげで、守衛の姿は遠くからでも分かった。気づかれる前に踵を返し、そのまま会社を囲む高い塀に沿って歩き出す。ひとまずは、壁沿いを進んでみようと思う。協力などといったが、能美からもたらされる好機を待つつもりはないし、期待もしていない。そもそも、協力者が見つかったらなどと呑気に構えていられる話ではなく、こちらは今すぐにでも会社へ戻りたいのだ。むこうの協力は得られれば幸運くらいに考えて、基本的には自分で方途を探すしかない。壁沿いに歩いて、別の入口が見つけてしまうのが最も楽な解決方法だが、簡単に通れる場所があるくらいなら、競売はあそこまで加熱しそうにない気もする。だが、広さを考えれば入口が一個ということもあるまい。
歩きながら、端末で地図を呼び出す。むろん、入り口など載っていないが、せめて歩くことになりそうな距離の、目算だけでもできないかと思ったのだ。手書きの略地図のように、だだっ広い空間が自分の会社として記載されている。輪郭の歪さが、急速な拡大を物語っていた。アメーバのように伸びたい方向へ伸びているといった印象。改めて見ると相当な規模で、一周しようと思えば小旅行になりそうである。けれど、ほかに手段があるわけでもない。早く見つかることを祈って歩き続けるか、あるいは、さすがに不審に思った会社が、電話を寄越すのが先だろうか。いや、それは希望的観測が過ぎるだろう。調べもせず無断欠勤扱いにされた挙句、いつの間にか席が無くなっていることの方が遥かに現実的だ。
問題点についての報告のためだけでなく、自分の陥った状況を客観的に説明するためにも、行動や聞いた話を記録しておくべきだという気がした。少し出遅れてしまったが、今からでも遅くはない。守衛とのやり取りを録音できなかったのは痛手だが、最悪、能美が証人になってくれるだろう。会社に入れず、連絡も取れない。これに酌量の余地が無いとは、いくら何でも言わないはずである。
いつの間にか市街地から住宅街へと入っていた。視界の左半分を覆う壁には何の変化もなく、ただもう半分だけが変化していくのは、何だか奇妙な感じだった。平日のせいか、車通りも人通りも少ない。壁が緩やかに曲がり、日陰に入る。暗さに慣れようと目を強く瞬いた直後、遠くの方で影の一部が動いた。人影。不意にそこに現れたかのようだった。十メートルほど先。奇妙な歩き方をしている。歩を緩めながら目を凝らすと、どうやら壁を叩いているらしい。電話を装って携帯を取り出し、道の脇へ寄りながら観察することにする。
盗み見るように小分けに視線を送っていたが、まるで気づく様子がない。携帯をいじる振りもすぐ面倒になった。夢中で壁を眺めつ叩きつ、ゆっくりと歩いてくる。手の甲で叩いている。外壁の打診でもするような、真剣な眼差し。ジーパンにTシャツと、ラフな格好。小柄で細身の男。そばまで来ると、染みついたタバコのにおいが微かに漂った。
そこでようやくこちらに気づいたのか、ぎょっとしてこちらを向くと同時に塀を叩いていた手を引っ込める。しかし、直後にその挙動を後悔したのか、挑むような顔つきになった。
「あの」
「何ですか」
威嚇なのか、険のある口調でかぶせてくる。
「この会社の入口って、この辺りにあるんでしょうか」
今にも横を通り過ぎて行ってしまいそうな雰囲気で、足止めにでもなればと、大げさな身振りと困り果てた口調をぶつけてみる。
「さあ」
半笑い。嫌味たっぷりな口調。どうやら同情を引けるような相手ではないようだ。それにしても、男のあからさまな拒絶は、手がかりを隠しているように思えてならない。そうであってほしいという気持ちが穿った見方をさせているだけだろうか。けれど、たとえこの男が何か情報を持っていたとして、現状の手札でどうやってそれを確かめられるだろう。
「実はここの社員なんですが、諸事情で中に入れなくなってしまって。もし、入口など教えていただけたら」
「バカにするな。誰がそんな話を信じる」
男は語気強く遮る。
「壁を叩いていたのは、何か」
「どけ」
突き飛ばす気満々といった勢いで突進してきた男を、思わず避ける。男は勢いそのままに、振り返ることなく競売をやっていた入口の方へ歩き去っていった。
やり方が良くなかった。本気で不審な行動の理由を突き止めようと思ったら、気づかれない内にどこかに身をひそめ、隠れて後を追うくらいの狡猾さが必要だったのだ。
遠ざかる男の背中を見ているうちに、段々と逃がした魚が大きかったような気がしてきて、内心唇を噛むような思いでいると、唐突にすぐ後ろで忍び笑いが聞こえた。
振り返ると、いつ近づいてきたのか、別の男が立っている。隠れていたのだろうか。チノパンにYシャツで、先ほどの男よりは幾分フォーマルないで立ち。
「失礼。いやでも、そりゃ無理ってもんですぜ」
少し明るく染めた髪に、笑って細くなった目。外したシャツのボタンの間から、ネックレスが光った。よく見れば顔には齢を数えるように刻まれた皺。血管の浮いた手。恰好より随分と齢を重ねているようだ。へらへらとした笑いに、どこか胡散臭そうな軽薄さが漂うのはそのせいかもしれない。
「あの『壁叩き』を相手にそれは」
「あの人は、有名な方なんですか」
男は笑い止む。
「こりゃ、驚いた。お客さん、初めてですかな」
「客のつもりは無いですが」
「違うんですかい。まさか食わせってことはないでしょう。とすると徘徊、いや、ひょっとして同業者かな」
こちらを値踏みするような、したり顔。専門用語らしき単語を試験紙に、こちらの素性を伺おうという意図を隠そうともせず、口調、態度、笑い、思考、すべてに嫌気が差す。無視して歩き出そうとする足を踏み留めるのがやっとだった。
「よく分からないですが、ここの社員なんですよ、私は。随分長いこと出向に行ってまして、異動で久しぶりに戻ってきたら、普通に会社へ入ることすらできなくなっていて困ってるんです」
「お得意、お得意ときた」
「さっきから、何なんですか、それは。その、徘徊とか……」
「おっと、これは失礼。けど」
今度は無遠慮にまじまじとこちらを見てくる。
「嘘だとしたら、大した役者ですな、こりゃ」
「からかうのが目的なら、どいてくれますか。これでも忙しいんだ」
「その様子だと、もしかして食わせにも引っかかってるんじゃ」
いい加減、返事をするのも嫌で、男を避けて今度こそ壁沿いに歩き出す。
「そう怒らなくてもいいじゃないですか」
男はすぐ二、三歩後ろをついてくる。
「気づいてないようなら言いますが、あなたの話ぶり、聞いてる方は相当苛々しますよ」
「まあまあ、食わせにやられてんだったら、助けようって話なんです」
「だから、その食わせってのが」
「斡旋屋ですぜ。ここら辺にそれっぽい建物構えてさ、この会社に入る手助けしてるとかって」
早口にまくし立てられた説明を消化しようと、思わず足を止める。
「その斡旋屋がどうって言うんですか」
「あいつら、詐欺なんですよ」
振り返ると、男はまたへらへらした表情に戻って立っている。正直、この男の方がよっぽど詐欺師に見えた。
「よかったら、話だけでもどうです」
不意に地雷原の標識でも見つけたかのような気分だった。男が指さした先には、こじんまりした喫茶店。警戒が顔に出たのか、男は締まりのない表情を少し歪めて、
「そんなに信用できないですかね、俺は。まあ、もちろん、無理にとは言わない。けど、さっきのやり取りからも、そちらが何も知らないことは分かります。だからきっと、どうにかして情報を集めようとしていることも。だったら、色んな人間から話を聞くのが一番なはずでしょう。場所が気になるんだったら、そっちが決めてくれたって構わないですぜ」
「もちろん、タダという訳じゃないんでしょうね」
「あの会社の社員だってんでしょう。そりゃもう、特別サービスですよ」
「嘘かもしれないですよ」
「そうしたら、それはその時考えますよ」
男は余裕だった。逃げられることはないと、自信があるのだろうか。嫌な感じだ。しかし、悔しいが男の言う通り情報が欲しい。眉唾な情報かもしれないが、付け入る隙さえ見せなければ、聞いておいて損はなさそうに思える。
「あなた、食わせと同じこと言ってますよ」
男は声を上げて笑った。引き笑いが、やたらと耳に障る。
「ここにいる連中は皆そうです。あの会社が飯のタネなんだ。あの会社の社員ともなれば、誰だって目の色を変えてご機嫌取り。社員というのが嘘じゃないなら、こっちのことなんか、適当に使い捨てるくらいの気持ちでいたらいいんですよ」
説得されたような形になるのは腹立たしかったが、男の言っていることは的を射ていたし、詐欺にしては包囲網が緩い気がした。それも戦略の内と考え始めればキリがない。それに、能美たちが詐欺だという話は聞き流せないし、やはり話だけでも聞いてみる価値はあるだろう。
「それじゃあ、少しだけ」
「場所は」
「いいですよ、そちらが最初に指定したところで」
半ば意地になって言う。
「そりゃ助かります」
男と連れ立って喫茶店に入ると、内装は昔ながらの食堂といった感じだった。詐欺師のねぐらにしては、普通過ぎる。どうやら、この場所を提案したことに、特別な意図は無さそうだ。コーヒーを二つ注文してから名刺を寄越す間も男はへらへらしながらしゃべり続け、その饒舌ぶりに些か辟易する。
「挨拶が遅れました。宇野沢と言います。ここらで案内人をやらさしてもらってますわ。これについては、ちょっと、後で詳しく話しましょうか。で、何から行きましょう。そうか、『壁叩き』。でもまあ、そしたらまずは徘徊からですな。徘徊、あいつらは正味な話、よく分からないというのが本音です。とにかく壁の周りをうろついている。傍から見たらそれだけ。驚きでしょう。一体何をやってるんだか。それでも少なくない数がいるんだから、本当に分からない。各々が何か目的を持って歩いているのかどうなのか。それで『壁叩き』ってのは、その徘徊の一人で、あだ名の通り壁を叩きながら歩いている。徘徊の中でも古参で、それなりに有名ですよ。まず話しかけようと思う人があまりいないですけどね。取っつき辛い、なんてのは控えめな言い方、正直なところ、まともにコミュニケーションすら取れないですよ実際。知ってる人間は大抵見かけても、見ないふりをします。といっても、それは『壁叩き』に限った話じゃないですけどね」
「ちょっと待ってください」
とは言ったものの、何と言葉をつないでいいのか分からない。どちらかというと、男の話を飲み込むだけの時間が欲しかった。先ほどの男みたいに変な輩がそんなに大勢会社の周りをうろついているのか。だとすれば異常事態である。会社はこの事態を知っているのだろうか。アポの競売なんていうのもおかしな話だが、会社の方針であれば仕方ない面はある。しかし、そのやり方のせいで締め出しを食らった連中が、穏やかならざる気持ちを抱えて周囲をうろついているのは、看過できる話ではないだろう。
「徘徊が何か問題を起こしたことは」
「問題、というと」
「その、たとえば会社の壁を壊そうとしたりだとか」
宇野沢は笑いながら、分かってないとでも言いたげに、手を振る。どうも動作の一々が癇に障る。
「それは無いです。ご心配なく。あいつらにそんな度胸はないですよ。おっとこんな言い方はよくないか。へへへ。そんなことをするほど常識のない奴らじゃない。本当にただ、徘徊してるだけです。名前のとおりね」
「さっきは壁を叩いていたじゃないですか」
「だからあいつは例外で有名なんです。けど、いずれにしたって、何か問題が起こるような話じゃない」
そう言われても、会社の周囲を歪な執着を持った無数の人間に歩き回られるのは、とても気持ちのいいものではない。けど、対策しようにも、ただ歩き回っているだけなら、それも難しいのは確かだ。考えているうちに慣れてしまったのか。これだけ大きければ、その周囲を歩き回る人間なんて気にもならないのかもしれない。クジラの身体の上を蟻がたくさん這い回ったとして、クジラにはその蟻走感すら届くまい。
「分かりました。食わせという詐欺については」
「あぁ、そうです、そうです。こいつは本当にひどい話なんですよ。あいつら、いかにもガイドですって顔しやがって、やってることは守衛たちの手先だからな」
「どういうことです」
「競売でアポを落札する手伝いをとか言われたんじゃないですか」
「ええ。まあ」
自分の場合は状況を説明して、情報提供などのサポートという形に落ち着いているが、それをここで説明する義理もない。
「あの競売はね、操作されてるんですよ。ここに営業にきた奴らは、まず間違いなく食わせと契約する。なんてったって、あいつらには実績があるんです。けどその実績はというと、守衛とずぶずぶの関係で成り立ってるんでさぁ。やり口はこうです。まずは契約者からアポ取りしたい相手や落札に使える予算を聞き出す。それを守衛に伝えて今度は守衛から食わせに、ここはまあドンピシャとはいかないでしょうが、それなりに契約者の関心が高そうなアポの出品される日が伝えられる。食わせは、その出品情報と契約者の予算情報から、最大限の利益が出るようにスケジュール調整をするだけ。いついつの競売が狙い目ですって情報で呼び出して、出来レースとも知らずに落札して大喜びって寸法ですぜ」
「けど、守衛にメリットがないじゃないか」
「情報提供料はしっかりせしめているでしょう」
「契約もしていない営業が、たまたま大金を持ってきていて落札してしまうことは」
「それはそれでいいんですよ。あくまで狙い目だって言ってるだけだから。むしろ百パーセントじゃない方がやらせっぽい印象を与えないで済む。契約料も成功報酬にしておけば、それほど不満も出ないでしょう」
「確かに」
完全な自由競争にしたら、諦めてしまう者も出てくるところを、取りこぼしなく徴収できるというわけか。守衛の立場からすれば、社内に向けてはしっかり売上貢献をしつつ、情報提供料で小遣い稼ぎができる。情報を渡すというリスクだけで手間はほとんどないとなれば、誘惑が強いのも頷ける。
「ひどい話じゃないですか、これ」
「それが本当ならですが」
宇野沢は鼻からフッと息を吐いただけで続ける。
「客は簡単な話で、あの会社へ営業に来る人たち。お得意は、あの会社の社員をそう呼んでます。そう、ちょうど、えー、そちらさんのように」
見え透いた催促だ。証拠を出せるのか、試しているつもりか。手帳に聞いた話をメモしながら、すっとぼけたい気持ちはあったが、相手が胡散臭いだけに怪しまれるのは癪だった。渋々名刺を渡してやると、能美と同じようにそれを仔細に眺め、驚いた表情になる。それを見て少し溜飲が下がった。
「まだあなたが何をしているのか、聞いてない。こうやって情報を売っているだけですか」
「まさか、旦那」
露骨に愛想がよくなる。怪しさは増す一方だが、悪い気はしない。思えば、もう慣れていたとはいえ、自社より大きな企業へ出向し、自分が上の立場で話すことはほとんどなかった。だが、こんな上っ面のおべっかにのせられていては、いつ足元をすくわれるか分からない。正直、他を落として自分の信頼を得ようとするやり口も気に食わないし、より一層疑うくらいの感覚でいいのだ。
「私どもこそ、ちゃんとした案内人ですよ。食わせだって案内っちゃ、案内だ。けどこっちは、ちゃんとしてます。あの会社とつながりはないから、やらせみたいなことはない。価格だって、食わせの連中と比べたら大分まともはずですぜ。ただし、時間はかかる。まあ、運しだいですけどね」
「要領を得ないですね。具体的にどういう方法なんです」
宇野沢は芝居がかった小声で、
「あるんですよ、社内に通じる道が」
「どこに」
「地下です」
宇野沢の話は、本人の雰囲気に輪をかけて胡散臭かった。ほとんど話半分に聞いていたが、もし真実なら、徘徊や食わせなど問題にならないくらいの重大事である。
地下とは言葉通り地下で、壁の外から中へと通じる地下通路があるらしい。とある建物の地下から伸びているその通路には、自動開閉式の鉄扉がついており、こちら側から開閉できないものの、不定期に開くのだという。宇野沢たちは扉が開くタイミングで契約者に即時連絡をし、中へ入るチャンスを提供していると話した。
「不法侵入だろう、それは」
「人聞きが悪いですぜ、旦那。これは飛び込み営業の一種なんです」
扉が開く頻度は均せば月に一度くらいになるというが、間隔はまちまちらしい。けど、均して月に一度になるのなら、よほど緊急でなければうまい話だ。不思議な話で、扉が開く時間は会社の営業時間に対応しており、営業時間外に開いたことはないそうだ。契約金は、競売の額と比べればよほど現実的で、もし連絡してから到着までに扉が閉まっていたら当然それについては金をもらわないとのこと。一度扉が開いてしまえば、契約している全員を分け隔てなく送れるからこその金額設定だと、宇野沢は強調した。
しかし、個人で負担できなくもない金額ではあったが、一時的とはいえ、調査のために軽々と払える額ではない。それに、そもそもこんな通路を放置しておくことの問題が、どうしても頭をもたげる。社内に戻った際には、真っ先に報告を上げて潰さねばならないだろう。窮状だからといって、この話に乗っかれば、弱みを作るようなものじゃないか。いざ潰すという時に後ろ髪を引かれる要素になりかねない。一方で、とにかく社内に戻らなければ何も始まらないのも事実である。
宇野沢は余裕たっぷりに、その気になったらいつでも連絡をくださいと言った。地下通路を潰されることなど、まるで心配していないようである。微塵の後腐れも残すまいと、制止する宇野沢を抑えてコーヒー代を置き、店を出た。
そしてまた、会社の塀をなぞるように歩いている。
いつの間にか昼を回っている。転属初日から半日も姿を見せていないことになってしまった。最初の胸を締め付けるような焦りは乗り越えたが、今度は無人島に置き去りにされたような心許なさに駆られている。生憎と救助を呼ぶ手段がない。だが、たまたま通りがかる船を待ちながらも、筏を作ってみることくらいはできるはずだ。
携帯で能美の番号を呼び出し、発信した。
「随分と早い連絡ね。何かあった」
「いや、興味深い話を聞いて」
「何」
「そっちが詐欺を働いているという話」
深くため息を吐く音。
「もしかして、釣りじゃないの、それ」
また新しい用語が出てきたことにうんざりする。
「どうせ、私たちのことを食わせとか何とか言ってたんじゃないの」
「確かに、そんなこと言ってたな」
「釣り、っていってね、悪質な詐欺集団はそいつらの方」
「会社に通じる地下通路を持ってるって」
「最低限、競売に参加するためのお金も揃えられない人たちをカモにしてるの」
「カモったって、通路が嘘なら、そんなことをあっという間に知れ渡ると思うけど」
「通路があっても、それが壁の向こうに通じているかも分からない。自動で開いて自動で閉まるといっても、そもそも手動で開閉できない構造だったら、閉まった後に入った契約者たちが無事にたどり着けている保証がないでしょ。あの人たちは扉の前まで連れていくだけで、そこから先、会社の入口までを案内してくれるわけじゃない」
「詳しいな。まるで見てきたようだ」
「向こうがそうするように、こっちも向こうの情報は集めているの」
「扉が手動で開かないとして、それじゃあ中の人たちはどうなる」
「さあ。白骨死体じゃないの」
「冗談はよせよ。そんなことして、表沙汰にならないわけないだろ」
「そうね。でも黒い噂ならたくさん出てくるから」
指の腹でナイフの刃先を撫でたような気分だった。もし、あの場で調査のために契約をしていたら。本当に紙一重の状況だったのかもしれない。しかし、能美の嘘であることも十分に考えられるわけだ。お互いを詐欺師だと言い合っているような仲。この様子だと、やはりどちらも信じないくらいが丁度いいのかもしれない。
「食わせは守衛とグルで、裏でつながっている。実際どうなんだ」
「それが真実だったとして、あなたとの協力関係に何か問題があるとは思えないけど」
「どうなんだ」
「まあ、ほとんど真実と言える、というところね。もちろん、詐欺をしているつもりなんかない。自由に競らせれば、チャンスを得られる企業は格段に少ないんだから。それと、勘違いしてほしくないのは、私たちはあの会社の社員ではないってこと。傘下でもグループでもない。取引先ね。それも守衛としか関わりはない」
思いのほかあっさりと白状した能美の口調には、自嘲的な響きがあった。信じさせるための演技だとしたら、大したものである。
「今までの出品履歴から予測して情報を提供していると聞いた気がするけど」
「それは社外秘ですもの。それに関係ない話よ、これは。あなたとの取引は私個人とのものと言ったはずでしょう」
「人を騙すような仕事をしてると聞いたら、警戒せずにはいられないじゃないか」
「それを私に直接問いただしたところで、その内容を信じられるわけ」
「それは……」
予想外の正論に、言葉が詰まる。
「こっちは、約束を果たしてさえくれれば、構わないの。どうぞ存分に疑って、警戒してください。ただ、成功報酬にしている以上、私の方だってあなたを社内に送り届けなきゃ、徒労になるんだから。じゃ、何かわかったら連絡する」
それ以上何も言わせないとばかりに、通話が切れた。
気づくと頬が熱くなっていた。一人逸って駆け引き気分で話を持ちかけ、まるで相手にされなかった格好だ。けれど、あっけない白状は、もっと大きい嘘を隠すための煙幕かもしれない。能美にとって、こちらの価値は徹頭徹尾、社員であることだけで、そこに騙す要素も意味もないと言われれば、その通りである。しかし、鵜呑みにはできない。こちらの思ってもみない所に、むこうの利益があり、それが単にむこうの利益になるだけならまだしも、そういうものは得てしてこちらの不利益に繋がりかねないのだ。少なくともそれを活かすチャンスを潰すことにはなる。むこうの狙いを知れば、それを利用した立ち回りも可能だ。能美と話した段階では、疑い出せばキリがないと思っていたが、これはそんな温い考えでは身の危険すらあり得そうである。
情報を集めれば集めるほど、全部が疑わしく思えてくる。どこまで歩いても終わらない、視界の左半分を覆う壁。冗談みたいに長く続くその景色が、まるで蜃気楼のように見えてきた。
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