大企業

火星・K

1

 地下鉄の階段を上がりきると、視界に飛び込んできた交差点に、懐かしささえ込み上げてくる。しかしよく目を凝らせば、道沿いのビルに入っているテナントや遠景の建物に見慣れないものが混じっており、それがまたひとしお時の流れを感じさせるのだ。

 出向社員として取引先に席をもらって、もうどれくらいになるだろう。次々と降って湧く仕事をこなす内に、成長を遂げた自分の会社は信じられないほど大きくなっていて、久方ぶりに開いたウェブページにはタワーマンションかと思うほどの天を衝く高層ビル。テナントとして入っていることだって信じられないのにまさかの自社ビルで、その周囲に広がる広大な敷地に至っては何かの間違いではないかとあの手この手で情報を探ったが、どうやら本当らしかった。泡を食っている間にも、まるで生き物みたいに会社は大きくなり、とうとう出向している取引先の目と鼻の先までその領土を広げてきた。さすがに飛び地だろうと思いきや地続きで、何がどうなっているのか、その接近も急なもので、気づいた時には道を挟んだ向こうに高い壁ができていた。本当に高い壁だった。どういう目的があるのか、向こう側はまるで見えず、ウェブページの写真が本物なのかどうかも分からない。その攻撃的なまでの秘密主義が、好奇心よりも不安を呼び、人々はわざと見えていないかのように振舞いながら、時折、誰にも見られる心配がない時にそっと、不思議そうな視線を投げかけるのだった。到底自分のいた場所だとは思えなかった。

 飼い犬に手を噛まれたというと、むしろ飼われているのはこちらだから何だかあべこべな印象が強いが、とにかく見知った存在に裏切りを働かれたようで、あまり穏やかでない心持のまま、一旦その景色に馴染んでしまえばやはり出向先でも話題にならないわけはなく、不意に顧客からその話を振られては狼狽しながら誤魔化す日々。事実こちらは何も知らない。情報など絶えて久しく下りてはこず、こう言っては少し大げさで気が引けるが、それでも自分では会社への忠義のつもりで全力を尽くしてきた。出向当時の自社の規模からすれば、今いるこの取引先にだって出向していることが奇跡なくらいの、零細企業だったのだ。出向社員をねじ込めるという段になって、抜擢された時は正直なところ誇らしかった。そうした感情もあって、どこか疎遠な印象を持つようになってからもとにかく頑張って来たが、予想外の再会はそんな自分の働きを虚仮にされたようだった。コンプレックスの肥大化かもしれない。出向する際にエースだ何だと言われて、その気になっていたのか。稼ぎ頭だと驕っていたら、会社の方は別の太いパイプを獲得していて、用済みを宣告するために目前へ現れたのかと、塞いだ気持ちで窓からその高い壁を眺めていたら、本社勤務の辞令が出た。

 事前の打診や相談は何もなく、郵便でも届くように。こちらの意向も何もあったもではない。けれど、裏を返せばそれは必要とされているのだとも取れる。今いるポジションには交代で出向者が来るらしい。自分で言うのも難だが、能力の低さが原因で交代させられるのだとは考えにくかった。これでも成果は上げているつもりである。よほど腕の立つ人物が来るのだろうか。だが今の会社の規模を考えれば、ここに注力するとは考えにくい。もっと他に利益を生む事業があるだろう。主戦力としてそっちへ迎え入れられるのだと思いたいが、さすがに自惚れが強い気もする。

 異動先の部署について、辞令には一言、『調査部』とだけあった。何の説明もない。腹を立てるべきなのだろうか。軽んじられているのだとしたら、わざわざ社内に戻す意図が分からない。やっぱり更なる適任者との交代なのか。

 まずは会社に戻って、代わりに出向する担当者へ引継ぎをすることになっている。そこで話してみれば、この疑問の答えも明らかになるはずだ。しばらく出向先は担当者不在の状態になるが、幸い繁忙期も過ぎ、また上手いこと仕事に一区切りついたタイミングだったこともあって、取引先からは文句ひとつ出なかった。

 信頼は、勝ち取っていると思う。戻った先が窓際部署なら、不当を感ぜずにはいられない。もしそうだったら……まあ、交渉の仕方は心得ているつもりである。切れるカードだって、無いわけじゃないのだ。

 景色の懐かしさに緩みそうになった気を引き締めようと、歩幅を広げた。細部が変わっているとはいえ、概ね通っていた頃と同じ街並み。しかし、幹線道路から一本道を入ると、それが唐突に終わった。

 出向先でも見慣れた、あの高い壁。まるで街は撮影のためのセットで、ここでその範囲が終わっているとでも言うように、片側一車線の道路の向こうから先が断絶していた。以前は、もう少し先にあったビルに入っていたのだが、壁に遮られて行けそうにない。なんとなくそのまま昔の社屋に向かうような気分でいたが、迂闊だった。入口はどこなのだろう。携帯端末の地図を開いても、巨大な矩形の中に社名が記されているだけで、役には立たなさそうである。仕方なしに、壁沿いを歩き出した。

 少し余裕をもって出てきたが、入口にたどり着くまでどれだけかかるのか、予想できない。配属初日から遅刻という事態がちらつき、速足になったが、思い直して足を緩めた。焦って息を切らしながら登場しては、余計に侮られるきっかけを与えてしまうだろう。別段、遅刻ひとつが、交渉になった際に不利に働くわけでもない。むしろ、そうした従属的な意識を看取される方がずっと相手に地の利を意識させてしまう。いかに執着を見せないか。決裂なら決裂で、自分は一向にかまわないというくらいに思わせておかねばなるまい。

 壁は、ずっと続いている。ちょっと見ただけでは入口らしきものは見えない。世界の輪郭ででもあるかのようにまっすぐ伸びて消失点で曖昧に消えている。後ろを向けば、反対方向も同じ。手がかりはおろか、どちらの方向にありそうといった気配も掴めない。少し迷ったが、わずかとはいえ戻る時間も惜しいような気がしたので、そのまま歩き出した方向へ歩き続けた。

 それにしても、一体何が目的でこんなに高い壁を拵えたのだろう。閉鎖的な印象が強く、近寄りがたい。企業イメージとしてはマイナスになるとしか思えないが、これだけ規模が大きくなったということは、別の強みがあるのか。建築周りの法律への抵触も気にかかる。

 歩きながら、壁を撫でてみた。磨かれた大理石の表面は日が当たらないせいかひやりとして滑らかだったが、微かに埃のざらつきを感じる。その時、向かいの歩道にいる通行人から見られているような気がして慌てて手を引っ込めた。やってしまってから、なお不審に思われる動きを後悔する。少しペースを上げて歩き続けると、遠くの方に壁の切れ目と、そこに群がる人だかりが見えてきた。入口だろうか。集団は一様に会社の方を向き、集まっている人数の割に静かで、何かを待っているようだった。壁が窪み、奥には入口があり。閉じられた門は大きく、大型のトラックでも楽々出入りできそうだ。脇にあるドアが人用の通用口だろうか。こちらも閉まっている。そのドアのすぐそばに守衛室と思しき小屋。通行の際の受付のために設けられたのであろう窓の奥に人影が見えたが、ガラスに光が反射してよく見えない。

 集団の隙間を縫ってその小屋に近づいていく。

 入口を見ただけでも随分と立派なものである。守衛なんかがいるとは思ってもみなかった。それにしても、集まっている面々は何なのだろうか。まさか社員ということもないだろう。締め出しを食らって呆然としているのか、ただ入口が開くのを待っているのか。いずれにしても今は入口が閉まっているのだろう。何食わぬ顔で素通りしようかと考えていたが、手をかけたノブが回らなかったら少しバツが悪い。

 近づいても顔を見せる気配がなかったので、守衛室の窓を軽く叩く。

 ぬっと守衛の顔が出てきたと思ったら、窓が開く。

「競売ならまだだ」

 どけとばかりに、手で払うしぐさ。競売が何のことかは分からないが、とにかく取り付く島もない。後ろに立ち尽くしている集団は、その競売とやらの参加者なのだろうか。それにしても高圧的な態度である。

「いや、この会社の従業員なんですが、通ってもいいですかね」

 守衛は狼狽して、急に丁寧な言葉づかいで非礼を詫びる。そう期待したが、まるでそんなことはなく、少し目を細めてから、

「はいそうですかって通してたら、何で俺たちが雇われているのか分からないな」

 気のせいじゃなければ、バカにされている。もしかしたら、似たような手段で突破を試みる連中を、日々相手にしているのかもしれないが、それにしたって最低限のマナーはあるだろう。ムッとして、こちらも思わず敬語を忘れたことにする。

「じゃあ、どうしたらいいのかな。どうやって証明すればいい」

「証明も何も、従業員はここを使わないよ」

「別に使ったって構わないんだろう」

 守衛は軽くため息を吐き、窓を離れたかと思うと、すぐ横にあるドアから外へ出てきた。小人の家から出てくるみたいにして窮屈そうに出てきた。守衛というよりボディガードを生業としていそうな巨漢で、制帽や制服が無くとも十分に抑止力を持つ体格である。むしろ制服が抑えているのは当の男自身といった塩梅で、筋肉ではち切れそうな制服の肩回りは首輪につながれた猛獣を彷彿とさせた。

「構うさ。そのために俺たちはここにいる」

 肩へ置かれた守衛の手に力はこもっていなかったが、威嚇としては十分過ぎた。別に身分を偽って侵入しようとしているわけではないのだからと、平静を保とうとしても声が上ずる。しかし、だからといってそのまま引っ込む義理はない。

「社員なのに。弱ったな、それならせめてどこに正規の入口があるのか教えてくれないか」

「いつも使っている入口を使ったらいい」

「それができれば苦労はないんだよ。いいかい、私はずっと出向で他社へ通勤していた身で、異動に伴って久しぶりに本社へ来たんだ。ほら、こうして名刺もある。保険証の方が確実かな」

 焦りと苛立ちを込めたつもりだったが、かえって言い訳がましい印象を与えてしまったかもしれない。説得力を持たせようとして取り出した名刺にも守衛は反応を見せず、むしろより怒りを露わに顔をしかめた。怒りたいのはこっちである。しかし、振るわれそうな膂力に対して、その感情を維持するのが難しい。

「いい加減にしろ、こっちは忙しいんだ」

 肩に置かれた守衛の手に力が入り、思わず身をよじったが、簡単に逃れられそうにはない。いっそ苦痛を理由に声を上げて騒ぎを起こしてやろうか。あんまり博打が過ぎる気はするが、これだけ意思の疎通が困難では……

「すみません、うちの者が。ちょっと何やってるの」

 横合いから女が現れ、何度も頭を下げながら守衛の腕に手を置いた。守衛の力が抜け、手が離されたが、その場から逃げ出すには突然現れた女の存在が気にかかった。黙っていると、女は私が女の会社の新人で、何を勘違いしたのかここを社屋と思いこんだらしいという苦しい言い訳を展開し始めた。否定してやりたかったが、肩に残る痛みに口を塞がれる。

 言い訳の苦しさとは裏腹に、守衛は納得したようで、とにかく早く去るように身振りを加えて強調した。直後、女に手首を掴まれ、崩しかけたバランスを取り直している内に人込みを抜け、道へ戻ると女はそのまま壁沿いを進んでいく。

「そろそろ放してもらってもいいですか」

 無視されるようなら足を突っ張って振りほどこうと思ったが、女はすぐに手を放して振り返る。微かに眉根にしわを寄せた、呆れ顔。三十代後半といったところか。

「研修もなしに放り出されたというところね」

「どういうことです」

「だってあんな、なりすましなんて古い手段、まさか本気で通れると思ったわけじゃないでしょう」

 砕けた、という表現では承服できないくらい、侮りの調子があった。様子見で敬語を使ったことにすら後悔を感じ、相手の口調に合わせる。

「社員だという話のことを言っているのなら、本当だよ」

「そう」

 薄ら笑いが癪に障ったが、何やら情報を握っていそうな雰囲気である。どうせ一度引いてしまったなら、まずは状況を知ることに努めるべきだろう。自分の会社へ入るために情報収集をするなんて、どう考えてもふざけているが、現に入れないのだから仕方ない。それに、報復というわけではないが、あの守衛の対応についても、しっかり報告を上げねばなるまい。となれば、報告の精度を向上させるためにも会社の現状を知っておく必要がある。そうでなくとも、すっかり浦島太郎状態なのだから。

「良ければ教えてくれないか。あの集まりは、一体何なんだ。競売とか言ってたが」

「社員なのでしょう」

「言っただろ。いや、あなたは聞いてないかもしれないが、長いこと出向していたんだ。急に本社勤務になって、久しぶりに戻ってきたら中にも入れない」

「それを教えて、こっちに何のメリットがあるの」

「無理ならいいさ。もう一回、守衛と直談判だ」

 振り返って道を戻ろうとすると、

「待って。分かってないのね。警察沙汰になりたいの」

「そこまで騒ぎが大きくなれば、職員だと証明するチャンスも生まれるだろう」

「私が知っていることを教える」

 やはりそうだ。この女が他の者と同様に、競売とやらに参加する目的であそこにいたのなら、守衛との諍いに介入する必要はなかった。それに介入しただけでなく、あの場から自分を連れ出し、その後も戻る様子を見せない。これは守衛と繋がっているか、もしかしたら同じ社内の人間という可能性もある。

「助かる」

「立ち話も難だし、ついて来てちょうだい」

 女は、こちらの答えを待たずに歩き出す。まさか、入り口から引き離すための口実というわけでもないだろう。そうだったとして、あとでいくらでも戻れる。ひとまずは女についていくことにした。

 すでに始業時間は過ぎていたが、やみくもに突撃するよりはこちらの方が近道に思える。

 途中で反対側の歩道へ渡りながら壁沿いに道を進み、道を曲がると程なくして女は止まった。民家のような二階屋。正面の出入り口は広く、おそらく八百屋か何かだったのだろう、磨りガラスを嵌めた観音開きの扉は後付け感がありありと伺えた。古い家をリノベーションし、そのリノベーションも少しずつ経年の痕が見えつつあるといった様子で、出入り口の上には建物に不調和な看板が掲げられている。


『Ⅴ&Ⅴコーポレーション』。


「ようこそ。雑貨屋だった持ち主から買い上げてリノベーションしたの。どうぞ」

 社内の人間という線は消えたが、案内された先が会社とあって、俄然興味が湧いてきた。女の後ろから中へ入ると、思った以上にオフィス然としている。床に敷き詰められているのはアイボリーのタイルカーペット。向かい合うようにおかれたデスクの一つ一つにパソコンが置かれ、八人の従業員がそれに向かって作業している。空席もあり、奥には二階への階段もある。見た目の印象より規模は大きいかもしれない。

 いらっしゃいませ、と従業員の挨拶がこだまする中を、女に導かれて奥の小部屋へ通される。どうやら応接室のようで、ガラスのローテーブルを挟む配置でソファが二つ置かれ、腰を下ろすと、すぐに従業員の一人が飲み物を持ってきた。小ぶりなペットボトルのお茶が二本。

「改めて、挨拶を。Ⅴ&Ⅴコーポレーションの能美です」

 不意を打たれた気分だった。てんで信じていない人間に名刺を渡すのは嫌だったが、いきなりビジネスライクに名刺を差し出されると、身体の方が反射的に動いた。

「あくまでくれるのはこっちなのね」

「こっちも何も、それしか持ってない」

 能美は例の薄ら笑いを浮かべながら渡した名刺を見ていたが、矯めつ眇めつ眺めるうちにその表情から徐々に笑みが消え、ひっくり返したり、一部を指でこすったりする段になっては、まるで骨董品を鑑定するような顔つきだった。

「それで、一体入口の集まりは何なんだ。競売というのも」

「驚いた。こんなクオリティの高い偽物、見たことない」

 能美がこっちの顔と名刺を交互に見る。

「そりゃ本物だからね」

「沢山あるっていうことは、あの会社が名刺を発注している業者に頼んだってわけね。どうやって突き止めたの」

 こちらの言葉は完全に無視される。頭から否定しようとしている連中に対しては、どうやったって証明する手立てがない。いずれ何を出しても偽物扱いだろう。こんな時は真実を証明しようとすればするほど泥沼で、こちらが不必要に苛立たねばならないのだ。まともに取り合うのはやめて、どっちとも取れない態度で適当に話を合わせておくことにする。

「名刺なんて、本物が一枚あればいくらでも複製できるじゃないか」

「しらばっくれないでよ。この会社の名刺は、いろんなところに偽造防止が施されてることくらい、常識なんだから。本物を一枚手に入れることさえ、難しいことは別にしても」

 確かに名刺のデザインは出向している間に何度か変わったが、そんな仕様になっているなんて話はまったく聞いていない。

「その話が本当だとしたら、一体何を目指しているんだろうな、うちの会社は」

「この名刺を作ってる業者、教えてくれない。情報の見返りだと思って」

「総務にでも聞いてくれよ」

「あら、がめついのね。他に何がほしいわけ」

 深呼吸する。感情的になっては話が進まない。とはいえ、なりすまし社員になりすますというのは、あまりにもバカげている。

「こっちから言えるのは、その名刺が本物であり、普通担当者以外は知らないのと同様に、自分も自分の会社がどこに名刺の作成を依頼しているのか知らないということだけだよ。本当に。信じてもらえないなら話も進まないし、こっちは情報をくれるというから付いてきたんだから、そうなったらお暇させてもらうしかない」

 膝に手を置き、気持ち前かがみになって、相手の答えを待つ。返答次第ではすぐに席を立って出ていく。そう思わせる、というより実際にそうするつもりだった。能美は腕組んで深々とソファにもたれ、こちらをじっと見つめる。名刺を確認している時のような目。ようやく、少しは検討の余地を認めたらしい。まっすぐに見返したまま辛抱強く反応を待つ。能美の脚が、幾度か組みなおされる。

「悪かった。でもそれくらい信じがたいことなの、あの会社の社員が目の前にいるというのはね。守衛の対応からも分かるでしょう。気を悪くしないでほしいんだけど、それなら出向の話について詳しく教えてくれない。情報の見返りとして、これくらいは要求してもいいでしょう」

 せめてもの与信管理だろうか。応じる必要もないが、進みかけた話を滞らせるのも面倒である。それにまあ、情報だけ一方的に寄越せという態度に横暴さを感じないでもない。いずれにしても速やかに社内へたどり着くことが今は肝要なのだ。社外秘に触れる部分を秘して簡単に話すことにする。能美はこれまでの態度から一転、黙って最後まで聞き通した。

「なるほど」

 能美は自分のペットボトルを開けて、話の内容を一緒に流し込むように飲んだ。

「じゃあ、そろそろこっちが聞きたいことを」

「ええ。競売の話ね。あれはアポイントメントの競売。つまりは、あの会社の社員とのアポを競りにかけてるの」

 能美の説明に、理解が追いつかない。

「それは……本当か」

「立場逆転ね」

 能美は笑ったが、さきほどのような侮りはなく、今回は幾分楽しそうだった。

「今や世界有数の規模を持つ会社なんだから、当然取引を望む企業は多い。けれど、門戸は固く閉ざされていて、営業をかけるのも難儀なのが実態。アポの競売は、最も確実で優しい方法よ。むしろそれ以外の方法は現状考えられないと思う」

「そんなこと、到底受け入れられるとは思えない」

「さっきの集団を忘れたわけじゃないでしょ。あれは全員競売の参加者なんだから」

 情報を集めているのに、そのせいで自分の会社が遠のいていくようだ。殿様商売といっても、ここまでのことがあるだろうか。どうして成り立つのか、不思議でならない。自分なら、そんな企業の相手は絶対に願い下げである。相手側が納得しているのだから、それほど感情的になる話ではないのに、自分の会社がやっていることと思うとどうしても揺さぶられた。それに、長期的な視座に立てば、やはりマイナスになるとしか思えない。守衛の報告と一緒に上げて、是非は問うことにしよう。今は感情を抜きに中へ入る方途を考えなくてはならない。

「競売はごく一般的な競売を想像してもらえればいい。もちろん、職位の高い人のアポほど競争も激しくて高額になる傾向がある」

「なら、そのアポを落札してしまえば、社内へ入れるわけだ」

「個人では難しいと思うけど」

「一番安いので構わないだろう、中に入れさえすればいいんだから」

「安くっても、そうね……」

 能美が言った参考金額は、それだけで十分会社の売り上げとして成り立つような額で、確かに個人では立て替えることも現実的ではなかった。同時に自社の命知らずな強気に、改めて身がすくむような恐れを感じる。足切りのつもりなのだろうか。こんなものは知れ渡ればすぐに企業イメージを落としかねない。いや、すでにそうなっている可能性もある。義憤に駆られた一般人からの、クレームの電話だって……

 ハッとして思わず身体が小さく震えた。

 どうして失念していたのだろう。電話だ。代表番号くらい、確か携帯にも入れていたはずである。

「ちょっと電話を」

「どうぞ。でも、会社の代表番号だったら無駄だと思うけど」

 澄ましたような言い方が、理由を尋ねる気を削いだ。登録された代表番号へ発信をし、耳にあてる。いつ以来だろうか。思わせぶりな能美の言葉のせいで、声帯を引き絞るような、変な緊張が込み上げくる。

 上ずった声が出ないよう咳ばらいをした途端、呼び出し音が途切れた。しかし、こちらが声を出すより先に録音音声が流れ、電話が混み合っているため時間が経ってからかけなおしてくれとのことを伝えるメッセージが流れた。二周ほどその全文を聞いた後、電話を切る。

「これは、いつかけても」

「営業時間外は、『営業時間外です』というバージョンがある」

「あそこ以外の入口はどのあたりにあるんだろう。見た感じ、正門というわけではなさそうだったけど」

「残念ながら、それは知らない。規模が大きい上に、いつもどこかしらで拡張工事をしているような会社だもの」

「とはいえ、案内図くらい無いと、訪問する方だって困るじゃないか」

 そう言ったものの、そんなことを考える企業ではないことはすでに痛いほど分かっており、尻すぼみな口調からそれを感じ取ったか、能美は何も言わない。

 命綱が少しずつ断裂していく音を聞いているような気分だった。想定しているよりも深刻な状況なのかもしれない。自分が社員であることは間違いのない事実なのだからと、高を括っていた部分もある。今さらながらに電話帳を眺めてみるが、出向先の人々の番号ばかりで、自社の番号は代表番号しか入っていない。特に必要を感じずに過ごしてきたことが仇となった。会社側からの連絡は期待しない方がいいだろう。

「協力できないわけじゃない」

 不意に、能美が切り出す。

「何に」

 分かっていながら、質問をした。こっちの顔に出た焦りを見て、言ってきたような気がしたのだ。表情を直し気持ちを切り替えるための、咄嗟の時間稼ぎ。弱みに付け込まれるようなことだけは、あってはならない。

「もちろん、中に戻ること」

「落札したアポに同席でもさせてくれるのか」

 自分で言いながら、良いアイディアだと思った。

「それは無理ね。ウチはアポの落札をするんじゃなくて、アポの落札をサポートする会社だから。手伝えるというのも、情報的な話」

 能美の会社はアポの落札を狙う企業のサポートをしており、出品されるアポの傾向や参加者情報から、いわゆる狙い目をはじき出して契約者に伝えることを主たる生業にしているらしい。そんなことで事業が成り立つのだから、やはりこちらの常識から修正していかねばならないのだろう。

「個人でも落札できそうなものを見つけて教えてくれると」

「それは望み薄。ウチの得意先に同行できるように取り計らう方が現実的かも」

 出来るなら、それに越したことはない。立て替えとはいえ、出社するために高額の入場料を払うのは釈然としない。あの守衛に払うのだと考えるとなおさらだ。

「ありがたい申し出だけど、そっちの意図を示してもらわないと、素直に受けることができないな」

「それは、あの会社の社員に恩を売る機会を逃す手はないでしょ。本当に社員なのかは、もう一種の賭けではあるけれど」

「そんな言われ方をすると、ますます受けられない」

「勘違いしないでよ。弱みに付け込んでふんだくろうというわけじゃない。そんなこと出来るほどウチの会社に力があるわけでもない。出して問題ないような情報をもらえれば、十分なの。会社として契約するわけじゃなくて、私個人との情報のギブアンドテイクとして見て」

「それがそっちにとって何のメリットになるんだ」

「それはもらってから考える」

 能美の表情から、何か裏がありそうな感じはしなかった。警戒しすぎだろうか。そもそも戻ってしまえば、こちらから一方的に関係を断つことだって難しくない相手だ。そんなリスクを恐れるより、今は少しでも手札を増やす方が先決じゃないか。ここで聞いた話だけでも、この締め出し状態に対しては、自分一人の手に負えない印象を抱きつつある。

「それじゃあ、お願いしようかな」

 能美は表情を変えずに頷いた。

 時計に目をやると、始業時間を過ぎてから大分経っている。会社から連絡が来そうな気配はまるでない。

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