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須郷はどうやら、猫が好きらしい。このところ、ペットショップに入り浸る時間が長い。種類はよく知らないが、白いのや茶色いのやトラや三毛、そして黒いのの横にふと名刺。
また、図書館にもよく行く。変な話だが、三つほど行きつけの図書館があり、何かそこでしかない本を読んでいるのかと思いきや、いずれの図書館でも、どこにでもありそうなありふれた小説や、実用書の類を読んでいる。戻された本を開くと、そこには名刺。
稀にだが、屋内プールを訪れた。日がな一日、街を歩き回っているのだからそこまで運動不足ということもないだろう。趣味なのだろうか。こちらは久方ぶりの全身運動で、初めて付き合った日は数日間にわたる筋肉痛に悩まされた。女子更衣室にでも置かれたら諦めるしかないと覚悟していたが、出入り口付近の自動販売機のそばに名刺。
よく通る公園があった。角地で、敷地内を通り抜けると近道になるのだ。遊具も何もない殺風景な公園だったが、ベンチだけが二つ、ぽつんと設置されていた。先客がいる時もあればいない時もある。座る時もあれば通り過ぎるだけの時もある。座ったとして、それほど長い時間ではない。けど、座った時には必ずそこに名刺。
川べりの遊歩道が定番の散歩コースだった。しっかりと整備されていて歩きやすく、ジョギングやデートや子ども連れがいた。途中には何かの碑やアート、もちろん休憩用のベンチもあった。そうした目印のところに、気がつけば名刺。
週に一度は足を運ぶ定食屋があった。昔ながらの、といった感じで、しかしそれでも内装はこぎれいなもので、シンプルな調度品で統一された店内は居心地がいい。唐揚げ、ほっけ、お刺身、サバの塩焼きと、定番の定食を巡る。頻度のわりに、オーナーやスタッフと知り合いということはなく、いつも黙々と食べては会計し、出ていく。米粒一つ残さず食べきった器の傍らに名刺。
コンビニの選り好みはなかった。その時、一番近くにあるものを利用しているようだった。必ず雑誌を眺めながら飲料へと回り、店の奥まで行ってから、目的の場所へ行く。おそらく新商品の確認か何かだろうが、無意識かもしれない。目的の商品を取ったあと、まるで代金でも払うかのように、そこに名刺。
壁はあっけなく見つかった。とはいえ、それは協力体制あっての話で、無ければ見つけることもできずに終わっていた可能性が高い。急に指揮を取り出した女に、命を救われた格好で、壁を見つけた後も全員、次の指示を待つように大人しくしていたのは、それだけ焦燥が強かった証拠だろう。
女はどこか不本意そうだったが、それでも引き続き指示を出した。形の上ではあくまで提案を装っていたが、内容の妥当性は高く、壁を見つけた実績を踏まえれば反対を唱える人間がいるはずもない。むしろ、その気遣いは返って苛立たしかった。
しかし、大多数の者は黙って指示に従い、負の感情などはおくびにも出さない。それどころか、心酔しているような様子も見られた。この状況で、特定の人間に支持が集まるのは面白くなかったが、面倒ごとを押し付けられると考えれば、そこまで悪い話でもない。そもそも、そんなことを言っている場合ではないだろう。
本当に出口があるのか。それすら分からない。引き返すのはどうかという意見も出たが、戻ったところで出入り口が開かなければ同じことだ。必死に鉄扉を叩いたところで、外にいるのは平気でこんな場所へ他人を送り込むような連中であり、助けは期待できない。そもそも連中の話が真実なら、鉄扉は向こう側からはどうにもできないはずだった。
結局、壁伝いに進むことになった。進むと言っても、おそらく進んでいるだろう以上のことは断定できない方向へ行ってみる、ということに過ぎない。同じ場所へ戻ってきてしまった場合それが分かるように、誰かが持っていた油性のマジックで壁に印を書いた。コンクリートむき出しのざらついた壁が、何度もペン先につっかかっていた。
成り行きとして、抜け出すのは難しそうだった。あまり自分のするような役回りではなかったが、仕方ない。やるからには最大限利用させてもらおう。大半はここを脱したら、健忘症にでもかかったように起こったことのほとんどを忘れてしまうだろうが、それでも数人、あるいは一人か二人にでも支持を残せれば、何かしらの役には立つかもしれない。
こんなことになっているのだ、無事に抜け出せたとして、それで社屋の中に入れるとは限らない。いや、そもそも社屋に通じているということがもう望み薄だ。いずれにしても、味方になり得る人間は、できるだけ多くいた方がいいだろう。
しかし、急に持ち上げられたのだから、反感を抱いている人間はいると考えるべきか。出しゃばり過ぎない気遣いくらいは必要かもしれない。そう考えただけで、今の役回りが損に思えてくる。無事社屋にたどり着けたら、今度はこちらに気を遣ってくれるような人たちであればいいが、期待するのは無理があるだろう。
壁は曲がらずに続いていた。あるいは気づかないレベルで曲がっているのかもしれない。どちらにせよ、元いた場所に戻ってくれば、それは分かるようにはしてきた。ただ、一周するのに膨大な時間を要する規模であった場合は、一周したと分かったところであまり意味はないかもしれない。壁を見つけたところで、厳しい状況はほとんど変わりないのだ。できることほとんどなく、それだけにかえってするべきことが明確なくらいだ。祈りながらでも進むしかない。
訪問先のレパートリーが尽きた。そう感じた。たまに行く新しい場所も、苦し紛れの観が強く、新鮮味はなかった。そこから得られる情報も。
名刺はすでに膨大な数になって宿の部屋を占領しており、様子見の延長は限界に達しつつあった。次なる一手は、もう先延ばしにできない。ここ最近は、ぐっと距離を詰め、接触の機会を窺っている。いや、以前も言ったように、機会などいくらも作れるのだ。懸念は、その接触が罠かどうか。結局、これだけ様子見を続けても分からないのだから、考えているだけ時間の無駄だという見方もあるが、どんな罠か想像も出来ない状況なのだから、それが致命傷にならないとも限らない。とは言い条、致命傷とは一体何かというところにも具体的な想定があるわけではないのだが。
埒があかないまま、別のチャンスが訪れた。日課を終え、部屋に戻った須郷がまたすぐに外へ出てきたと思ったら、鍵を閉めずにどこかへ行ったのだ。急いでいる様子だったので、うっかりしたのか、これも罠なのか。勘ぐりすぎとも油断しすぎとも取れた。しかし足は動かず、小走りで遠ざかる須郷の背中が小さくなっていく。
どれくらい時間があるだろうか。さっと確認するだけでも収穫が見込める確率は高い。入ったことに気がつく可能性は。さすがに別のリスクが無視できないだろう、見境がなくなっていないか。鉢合わせにさえならなければ露見する危険は低い。それでも……
幸か不幸か安アパートで、ドアの前に行くまでの障害は何もない。気づいたら、ノブに手をかけていた。心臓が喉元で鳴っているようだった。
女の指揮は、今のところ、うまくいっているようだった。
広い空間から伸びる通路を見つけ、どうやら前進している体制に戻った様子。むろん、まだ何も状況の好転を示す証拠は無いのだが、集団の中には早くも安堵の空気が醸成され始めていた。
何人かが両側に手を伸ばして、そこにある壁を確認しながら進む。周囲がグッと狭くなったせいか、足音が騒々しい。誰もが早くこの場所から出たがっている。もう、出口が社内に通じていようがいまいが関係はない。理不尽に押し込められた空間から抜け出ることだけを考えている。先達の骨が転がったりしていないのは、希望に思えた。
自分はどうするのか。ここを出たら。
これだけのことをされて、腹が立たないわけはなかったが、何人もの人間がここへやって来たはずなのに、それでもまだ自分たちがまんまと罠にかかっている事実には、同時に虚無感を覚えた。まるで勝ち目のない敵と対峙している。そんな印象だった。今後一切、この会社と関わることはやめようと思うくらいには、手に負えなさを抱いていた。のらりくらりと仕事をする振りを続けるだけであれば問題は無いが、現にこうして危険な目に遭っている。
引き際だ。
そう思わずにいられない。
手を引こうと考えた途端、先ほどまで指揮の女に抱いていた苛立ちが霧散し、ひたすらに出口がやってくるのを待つような気持になっているのは、自分のことながら浅ましく、思わず笑いだしそうになった。
不意に、先頭の方が騒がしくなってきた。
リーダー役を背負い込んだ途端に、知らず知らず、責任みたいな感情が芽生え始めていたらしい。壁を見つけてから通路に入るまでの間は、もし見つからなかったら、ということばかり考えていた。最善の判断をしているという自信はあったし、自分ひとりの落ち度がどうこうする話ではないと頭で分かってはいても、自らの指示でこれだけの人数がここで失踪することになれば、それはどうしてもわだかまりにならざるを得ない。出られなければそれどころではないはずだが、歩きながらそんなことばかり考えた。
だから、通路が見つかった時は安堵したし、思わずそばの人に話しかけていた。その口調から安堵が伝染してしまい、変に弛緩した雰囲気になってしまったが、まだ何も解決はしていないのだ。けれど、気を張りながら進むよりは精神的に持久力を発揮するかもしれない。
それを確認するより先に、壁にぶち当たった。扉だと気がつくのに、少し時間が必要だった。足を止めてから扉に気づくまでのラグをそのまま維持しながら、興奮が列の後ろへと伝播していった。
ごく一般的な内装だった。いや、本当にそうだろうか。自分でも分かるくらい、視線がさ迷っていた。鏡、歯ブラシ、歯磨き粉、剃刀、ドライヤー、洗濯機、机、ティッシュ箱、椅子、コート、冷蔵庫、室内用物干し台、バスローブ、カバン、掃除機、電子レンジ、蛇口、タオル、ゴミ箱、時計、皿……
噛み切れない物を飲み込むように、見たものの名前を思い浮かべて、半ば無理矢理頭に押し込んでみても、その作業のためにかえって何のために部屋へ入ったのか分からなくなる。何のためだったか。物の少ない、シンプルな部屋である気がした。胸の辺りが痛いほどの動悸。手がかりを探しに来たのだ。単身にしては広めの2ⅬⅮK。思えば、単身であるとの確定情報はない。自信があったとはいえ、とんだリスクを取ったものだ。情報なら電子か。冷静ではなかったかもしれない。今どき紙ということもないだろう。顔が熱い。寝室の隣が作業部屋のようだった。部屋の隅に段ボール箱の山。開かれた一番上の箱から、名刺が覗く。これ全部がそうだろうか。デスクの上にラップトップ。あとどれくらい時間があるだろうか。今どれくらい時間が経っただろうか。緊張で震えるのは初めての経験で、スイッチを押す指を見て、それに気がついた。当然要求されるであろうパスワードに当てなどない。知っているのは名前くらいなのだ。
須郷優、須郷優、須郷優……入れなかった時点で撤退しよう。
しかし予想が外れ、何を要求することもなくPCは開いた。ほとんど使用感のない簡素なデスクトップ。メールには何もない。削除済みか。文書ファイルがある。これだ。
その時、玄関のすぐ外に足音が聞こえ、心臓と同時に身体が椅子から跳ね上がった。脊髄反射的に玄関まで大股で戻る。須郷か、他の部屋の人間か。ひとまずドアを封じて様子見か。この際、気づかれないことはダメでも自分だとバレなければまだ……
全力で伸ばした手が届く前にノブが回り、ドアが後ろに引かれた。
外には、須郷が立っていた。
前の奴の背中から伝わってくる熱が不快だった。どうやら先頭が扉にぶち当たったらしいという情報が流れてきてからしばらく間をあけて、今度は押せという指令が流れてきた。扉が相当に重いということで、協力して開けるのだという。全体の人数は把握していないが、全員で押したとして、先頭やその周辺にいる人間の安全は保証できない気がした。
しかし、出口かもしれないという事実が、集団から冷静さを奪っていた。かもしれない、ではなく、ほとんど確定的事実として認識され、重い扉が最後の関門とでも言わんばかりである。叫びとも呻きともつかない音が、列のあちこちから漏れた。自分がいるのは、後ろの方だと思っていたが、それでも背後からかかる体重で体が痛い。先頭は大丈夫なのだろうか。鍵がかかっていたりはしないか。そもそも押戸なのか。そんな疑問ごと扉を粉砕するとでも言うように、押す側に迷いがない。
力を抜けば押し潰されそうだった。サウナみたいな熱気と息苦しさに、汗が滴った。ここから出るという強固な目的意識から、掛け声が生まれ始めていた。
せーの、せーの、せーの。
その必死さが滑稽に思えたのも束の間、気がついたら声を張り上げていた。
動いた気がした。いや、気のせいかもしれない。掛け声が浸透するにしたがって、力の入れるタイミングが合い、少し引く瞬間が生じ、それで動ている気がしているだけだろうか。それでも、動いていると信じた方が力が出るかもしれない。
まただ、また進んだ気がする。これも錯覚か。
そう思った瞬間、まるで前が支えを失ったように前進した。危うくつまずくところを、踏ん張って持ち直す。前方から響き渡る歓声。その下には明らかに悲鳴と思しき音も聞こえた。けれど、誰一人聞こえたような素振りはせず、押し合いへし合いしながら進んでいった。
ようやく扉のところまで来た時に、明らかに何かを踏んだ。ぞっとする柔らかさだった。それに躓いている奴もいた。しかし誰も、それを気に留めた様子はなかった。
扉はビクともしなかった。扉に見せかけた壁なんじゃないかと思うくらいだった。困ったことに、どういう方向に開くのか分からず、鍵がかかっているかどうかも把握できなかった。扉前の空間は狭く、押戸以外であれば人数の利を活かせる余地はない。いろいろ触って調べた挙句、自然と一番力の入る「押す」を選択することになる。
それが正解という自信は全くない。しかし背後で見ていた人たちには、足りないのは力だけといった伝わり方をしたらしく、一人また一人と扉に取りつき、スペースがなくなるとその後ろについて背中を押し始めた。
嫌な予感がして、扉の脇に避けた。
すんでのところだった。すぐに扉の前には、到底自力で逃れられないくらいの圧力が、後ろからかかり始めた。押せ、という指示が後ろへ伝播していっているのは明白で、圧力は刻一刻と強くなっているようだった。扉を照らす者がいなくなり、扉の様子も分からなくなった。闇の中、うめき声だけが聞こえた。最前列は大丈夫だろうか。声もあげられないほどに押し潰されているかもしれない。止めるべきか。
不安になってライトをかざすと、鬼気迫る表情が照らし出されて、思わずすぐにずらした。しかし、その後ろや横、そのまた後ろと、皆凄まじい形相で扉を押している。こちらの光にも気づいていないみたいで、罪悪感が喉に蓋をした。
居心地の悪い時間だった。黙って押し潰されるいわれはないと、いくら考えてみても、逃げ出したような感覚がつきまとった。扉が開かなければ、体力が尽きるまで押し続けるのだろうか。そうなれば、新しい方途を探るのも難しくなってくる。集団からは、掛け声があがっており、なおのこと今さら止める雰囲気ではなくなっていた。
熱気と不安から、立っているだけなのに汗ばみ始めた時、石を引きずるような音を立てて扉が開いた。
短い叫び。先頭の人間だろうか。支えを失って転んだのかもしれない。直後に悲鳴。しかし、集団は止まることなく扉をくぐり進んでいった。
どうしようもない。
そう自分に言い聞かせて、移動する集団に飛び込んだ。
柔らかいものを、踏んだ気がした。
何も言ってこなかったし、かといって逃げるわけでもなかった。じっとこちらを見ていて、その表情は思案中とでも言った方がいいか、とにかくこれから取る態度を決めかねているようだった。
須郷でなければ、いかようにも言い訳のしようはあった。しかし、当の須郷本人とあっては、どうしたものか。そのリスクは決して低くなかったにもかかわらず、対策はまるで考えていなかった。何度か口を開きかけて、やめた。無暗に先手を取ろうとして、藪蛇になっては後戻りできない。すでに後戻りが難しい位置にいることは確かだが、それでも須郷がどう出るかによっては、挽回のチャンスがないとも限らない。狙うのは先の先ではなく、後の先。むこうの出方に細心の注意を払って対処する。
神経を限界まで張りつめる緊張が続いた。時間感覚が麻痺し、数秒後なのかあるいは数分後なのか、まさか数時間後ということはないだろうが、とにかく須郷が口を開いた。
「須郷……さん、ですか」
「えっ」
どちらかと言えばディフェンシブな対応をいくつか考えていた中で、完全に意表をつかれ、思わず問い返していた。
「須郷さん、でしょうか」
聞き違いではなく、紛れもなく須郷は、こちらが須郷であるかと問うていた。それは、そちらのことでは、というのもおかしく、しかしそれなら何と言えば正解なのか分からない。正解を考えるような類の質問でないことの方が、可能性としては高かった。
「えぇ、まあ……」
できる限り間を取って思案した結果、曖昧に肯定するという、困った時に出てしまう悪い癖が出た。
パッと、須郷の表情がほころんだ気がした。気のせいだったかもしれない。一瞬のことだった。
「そうでしたか」
やっぱり、と小声に続く。プロファイル通りの内気な印象。しかし、それを喜ぶ場面でもない。言葉を探しながらしゃべっているように、次の言葉はさらに小声で、
「あの、では、その、よろしくお願いします」
そのままドアを閉め去っていった。
あまりのことに、ハッと気づいてドアを開けた時には、アパートから大分離れたところを歩いていた。
大声で呼んだ。
しかし、聞こえないのか、聞こえないふりなのか、須郷が振り向くことはなかった。
扉の奥は階段だった。段差の始まりで、前が躓いた気配で階段だと分かったが、それでも階段まで距離感が掴めず躓いたり、踏み外したりした。進行は極端に遅延した。真っ暗闇の階段というだけで難儀なのに、その長さが不明であるという事実が疲労を倍にした。しかし、希望もあった。上っているということだ。入り口の鉄扉は地下にあり、結構な長さを下っていた。上っているということは、おそらく出口に続いていると考えてよかった。ここでも女が指揮を取って、適宜休憩を入れた。
冷静な判断だった。抜かし合いが始まれば、収集がつかなくなるのは目に見えていた。最悪、誰かが階段から転がり落ちてくるなんてことになれば、目も当てられない。いかに何も考えずに進むかが重要だった。
気がつくと階段の段差が随分と低くなり、次に意識を向けた時には、ただの坂道になっていた。同時にコンクリートが地面に変わっていることに気づいた。壁も同様で、地下室から一転、洞穴にいるようだった。
傾斜が緩やかになっていき、周囲が薄明るくなってきた。
壁から飛び出した木の根が見えた。地面のぬかるみや、誰かが壁についた手のあとが。やがて道の先が白くなり、ペースが緩んだ前を押すようにして進み続けると、とうとう外に出た。
山の中だった。出てきた穴倉は高い断崖にぽっかり口を開けていて、その断崖に沿って獣か、はたまた前回の人たちかが踏み固めた道が伸びている。先頭はすでにその道を降り始めていた。
決して歩きやすい道ではなかったが、真っ暗闇に比べれば何ほどのものでもなかった。ふくらはぎが攣りそうなのに、足取りは軽かった。いつの間にか登山道に合流していて、下り続けるとコンクリートの階段、そしてついに舗装された道路へ出た。断崖はそこで高い壁に変わり、道に沿って続いていた。
見覚えがあると思い、すぐに思い当って愕然とした。
会社の周囲を囲む壁だった。
少し距離を取って見上げると、見間違いようのない高さ。もはや何も期待してはいなかったが、完全に騙されたことが分かり、しかしすでに腹を立てる気力もなかった。他の連中も同じようで、というより最早無事に出られたことの喜びの方が強いらしく、壁のことを気にしている人間の方が少なかった。
何人かが、例の女のところへ集まっていた。
塀に沿って歩き出した。苛立ちから壁を殴ったが、手が痛いだけだった。それでも、やめるのが悔しく、今度は軽くノックするように叩いた。
しばらく歩く内、それが手癖になった。
気がついたら壁叩きと呼ばれるようになっていた。
想像以上に慕われていた。命の恩人と見る人も少なくなかった。扉の先が結局会社の外であった今、いくら慕われても何の得もない。煩わしいだけ。いつもならそう思っているはずだったが、今の自分は何故かそこに好機を見出そうとしていた。
これだけやって中に入ることはできなかったのだ。もはや、アポを競り落とす以外の手段で入ることは無理に思えた。もう、取り組む気力もなく、地下を歩いている時から転職しようと決意していた。次をどうするか。そんなことを考えながら山を下ってきたが、強固に自分を信頼してくれる複数の人間を前にして、魔がさした。
今思えば、それは本当に魔がさしたとしか思えない。あるいは彼らの感じている恩がどれほどのものか試そうとしていたのだろうか。最初からそうするつもりだったかのように自然な流れで起業を提案し、付いてくる人間を募っていた。自分たちが経験した、この危険に他の人が陥らないようにするためとか、そんな主張をしていた。
予想通り、反応は芳しくなかった。
しかし、地下へ入っていった時と同じく、一人が決断すると、我も我もと芋づる式に同調した。嬉しかったが、内心何も学んでいないことに苦笑した。
何をしたものか、正直プランはなかった。それでも例の会社の近くにオフィスを構え、とにかく中へ入ろうとやってくる営業たちに、自分たちの経験を話すことから始めた。会社の名前はV&Ⅴコーポレーションにした。
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