第82話 新たな道を

 高天原家当主でさえ場所を知らない、その氏神を祀る社。


「巫女姫様。高天原本家から、依頼のお荷物が届きました」

「ええ。……そんな気がしていたわ」


 巫女は、母が付けた名で呼ばれることは無い。神の妻に、俗世の名は不要だからだ。

 素っ気ない木箱の蓋を神官たちに開けさせて、クスリと笑った。


 手紙が一通。『これお祓いするか供養するかしてくれ。 高天原家当主 高天原直人』

「ふふっ、供養するならお寺に頼まなきゃ」


 神官達が、茫然として箱の中を見ている。

 中には、十本の『神剣だったらしきもの』が、豪快にバキバキに折られて入っていた。


「巫女姫様……如何致しましょうか……」

「滅茶苦茶ね。よくも神剣に祟られずに済んだものだわ」


 呆れて言ったが、知っている。

 直人は、高天原家の人間の中で、最も神剣と親和性が高かった。

 神剣が象徴や飾り物ではなく、武器だということを本能で理解した、唯一の人間だった。


「新しい当主様だから、許されたのね……。いいわ、神剣の御魂を鎮めましょう」


 唯一使いこなした直人が、神剣を手放した。

 それは、戦いの時代が終わったことを意味するのだから。


 巫女は、社に着いてすぐに《予言》していた。

 次の巫女は生まれない。神の妻は、自分が最後になると。歴代の巫女の中で最も氏神に愛された巫女姫の魂は、永遠に神の元に留まると。


 二度と俗世に還らない巫女は、祈った。

「高天原家に、末永く平安があらんことを……」





 直人と紅は、心人のアトリエ兼自宅を訪れた。


「わあ……!お母さんの絵がいっぱい」


 そこは、心人の絵の中でも、非売品や個展にも出さない絵が飾られている部屋だった。

「藍にモデルを頼んだんだよ。でも、決して公開しないこと、っていうのが条件だったんだ」


 藍は、識という、切れたはずなのに纏わり付く悪縁から逃げ続けていた。少しの手がかりも残してはならなかった。


「もー、お父さん鈍いよ。手がかりを残したくなければ、どんな有名画家でも断るよ。でも、お母さんはお父さんには覚えていて欲しくて、絵の中の想い出でもいいから、お父さんの傍にいたかったんだよ」


 心人は、驚いた顔をした。そして、懐かしく微笑んだ。


「僕は、片想いだとばかり思い込んでいたから……別れも、振られたんだとばかり思っていたから、藍のメッセージに気付けなかったんだね」

「どうして、振られたって思ったの?」

「僕なりに、勇気を出して告白したんだよ。僕は、兄さんの身代わりじゃない、愛しているから、これからも傍に居て下さい、って。でも、その次の日の朝、藍はいなくなっていたんだ。失うのなら、いっそ何も伝えなければよかったのかって……思ったんだよ」


 出て行く時、藍は心人の子を宿したことに気付いていた。

 本当の愛の告白を聞けたのに、去らなければならなかった藍は、胸が張り裂けるように辛かっただろう。


「お母さんは、何も返事をしなかったの?」

「返事は無かったよ。ただ、その時に教えてくれたんだ。『ラン』というのは通称で、本当の名前は藍色の『藍』だって。それで、一度は自惚れたんだけど、藍が出て行ったことが自体が答えなんだと思って……」


 弥栄の女達にとって、本当の名前を伝えることは、特別な意味を持っていた。

 同じ愛しているという言葉を返してしまえば、別れる時に一層心人を傷付け苦しめる。だから、本当の名を明かすことが、藍の精一杯の返事だった。


 直人は、父娘の隣で言った。


「べには『くれない』が通称です。でも、俺にはべにって呼んで欲しいって言ったんです」

「えへへ、そうなの。直くんは、初めて会った時から、の運命の人だって思ったから、特別に頼んだの。だからね、高校の自己紹介でも、直くん以外の人が『べに』って呼んだらころ」


 直人はすかさず紅の口を塞いだ。

 むぐぐぐ、と紅が言うのを誤魔化して、直人は尋ねた。


「この絵だけ、藍さんではないんですね」


 それは、個展で見た唯一の非売品の絵だった。『天人花』というタイトルの、彼岸花の野に佇む少女像。


「この絵はね、僕の心の中のべになんだ。もし藍の望みが叶って、どこかで幸せな家庭を持って暮らしているなら、こんな子が産まれたんじゃないかと思って描いたんだよ」


 藍が青に因んだ名前だから、娘には対になるように赤に因んだ名前を付けたい。

 そう言っていた、藍の言葉を手がかりに。


「じゃあ、直くんが言ってた『べにっぽい』で当たりだったんだ!直くんってば、珍しく鈍くなかったんだね!」

「…………」


 俺はいつ鈍かったんだろうか、と直人は思った。


「……不思議だね」

 紅が、部屋に飾られた、数多くの天女像、そして日常の藍を描いた絵を見渡した。


「私、ずっとお母さんにそっくりなのが嬉しかった。生き写しとか瓜二つとか言われたけど……ここにいるお母さんは、全部お母さんなんだね。私と似ていて、でもひとつも私と同じじゃない、全部、世界にたったひとりの『藍』の絵なんだって、すぐにわかるよ」


 紅の頬を涙が伝った。そして紅は笑った。


「ありがとう。お父さん。いっぱいいっぱい、お母さんの心を残してくれて……ずっと、お母さんのこと、好きなままでいてくれて」


 幸せだった。紅も、心人も。

 見守る直人も。きっと、藍も。

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