第81話 母親

 明日の朝、母が高天原邸を出る。そして、二度と戻らない。

 継人は、淑子の元を訪ねた。


「母上、申し訳ありません。付いて行くことも、これからお守りすることも出来なくて」

「高天原財閥総帥が、家を出る訳には行かないでしょう。もう、私の命を狙う酔狂な者もいないわ」


 淑子は、行く先を継人にさえ告げていなかった。

 母親を失う。それがいかに寂しく心細いものなのか、22歳にもなってやっと思い知る自分は、弟たちよりも未熟なのだろうと思った。


「僕の本当の父親は、誰なのですか?」


 突然の継人の問いに、淑子は微かに驚いた色を見せた。

 そして、静かに言った。


「……高天原永人。私の婚約者だった人よ」


 継人は、言葉を失った。

 面影があると、似ていると、何度も言われた。しかし、誰も継人を《不義の子》とは呼ばなかった。永人は、継人の出生よりも八年ほど前に亡くなっていたのだから。


「凍結精子で子供を産んで欲しいと、手引きした女がいたの。梅宮家も知らない秘密よ」

「…………」

「その女は、永人兄様の恋人だったと言っていたわ。でも、自分には兄様の子を宿す資格はないから、って。紅と同じ顔をした……怖いくらいに美しい女だった。私など何ひとつ敵わないと、打ちのめされるくらいに」


 思い出す。天女のような、死神。

 感情を失ったような、でもどこか悲しい目をしていたから、信じた。

 

「高天原家に入る時、私のお腹には貴方がいたの。出産は花園家の顔が利く病院で、識の子供にしては産まれるのが早かった事なんて、早産だったことにするのは容易いことだった。……あの男は、名ばかりの正妻が子供を産んだからって、わざわざ顔を見に来るような男ではないから」


 継人は、俯き加減で母の言葉を聞いていた。

 22年間、次期当主になれと言って継人を育てた母は、最後の最後で、識亡き後の混沌から継人を守る為に、直人を矢面に立たせた。


「父……前当主の実の息子だから、直人に辛く当たったのですか」

「そうよ。あの子は、高天原識が正妻に産ませた、識にとって唯一の純血種だから」

「それが、直人の罪だと言うのですか?直人を虐げた理由だと言うのですか!?」

「貴方が、私を責めるのは初めてね」

「…………」


 責めた訳ではない。やるせなく、悲しく、直人が痛ましいだけだ。


「私は、永人兄様を失って、もう貴方以外誰も愛せないと思っていたの。でも……時の流れに、私は負けてしまった。憎くても夫がいて、忘れ形見の息子もいるのに、二度目の恋をするなんて」


 淑子は、『殺人武闘団』に多額の金を払い、依頼した。継人の護衛として一流の者を雇いたいと。

 奇しくも、派遣されてきた男は、永人の《影》に内定していた、かつての《高天原の伍》高天原功だった。


「私は、功さんとも幼馴染だったのよ。私は永人兄様に憧れていたし、功さんは永人兄様に忠誠を誓っていたから、それ以上に意識したことはなかったけれど……」


 しかし、少年は大人になる。功は、大きく強く逞しい男に成長していた。

 誠実で、忠実で、隙などどこにもない男だった。


「手に触れることもない恋だったわ。功さんの優しさが、ただ功さんの人柄なのか、私に注がれたものなのか、……わからないまま」


 確かめようもない。功は死んだ。

 生きていたとしても、淑子との再会は継人の護衛という《依頼》に付随した事柄であり、功がそれ以上を肯定することはない。


「識は、私が貴方を産んだ後は一切私を顧みなかった。私は、花園家出身の正妻という肩書きのコレクションでしかないから。……でも、あの男は、見逃さなかった。コレクションが、他の男のものになるのは許せなかった」


 識は、何年かぶりに淑子の寝室に来て、功を恋慕っても無駄だと嘲った。


「悪夢のような一夜だけで、身篭もったのが直人よ。……悪魔の子だと思ったわ」


 淑子は、識の悪意を怖れ、功への依頼を終わらせた。

 理由は何も告げず、功もまた尋ねることはなく高天原邸を去り、継人の護衛は別の者が引き継いだ。


「何故……直人を産んだのですか?」

「悪魔の子でも、子供に罪は無いと思ったから」


 わかっていた。わかっていても。


「でも、愛することは出来なかった。あの子を愛することは、永人兄様を殺した、功さんまで奪ったあの男を、許すことと同じように思えて……」


 小さな赤ん坊を、一度も抱くこともなく、下級侍女を付けて離れに追いやった。

 

「直人という名は、あの男が付けたのよ。直系の『直』の字を使って。紅のことがなければ、本当に直人を後継者にしたかもしれないわね」

「……直人は、知っているのですか?」

「時期的に、功さんとの《不義の子》かもしれない可能性には、辿り付いたでしょうね。それでも、あの子なら迷いなく否定するわ。功さんは決してそんな過ちを犯す人ではない事を、あの子は誰よりもよく知っているから。高天原識の血がどんなに憎くても……遺伝子鑑定をするまでもないわ」


 直人は、不義の子だから疎まれたのではない。高天原識の正真正銘の息子だから、実の母親に忌まれたのだ。


 継人が幼い直人を見つけ出し可愛がり、そして直人が懐いたのは淑子の想定外でも、将来継人の《影》に使うには好都合だった。

 だから、功に預けた。功なら、直人が守りたい人間を使守る者に育てるだろう。その一方で、父親のように愛してくれるだろう。


 紅に屋敷の隠し通路の地図を渡したが、その程度の情報ならば、直人は既に把握済だっただろう。直人はそういう人間だ――――功のように。まるで、功の息子であるかのように。


 怒り脅え泣いて、淑子の元に逃げ込むしかなかった紅を保護した時、真っ先に直人を思い出した。

 高天原識に対抗しうる人間、戦って守れるかもしれない人間など、直人しか思い浮かばなかった。


 継人は、ひとりで頂点に立つには優しく、善人過ぎる。だが、直人という罪を罪ともしない漆黒が、必ず継人を守る。

 そう信じた――――信頼すらしていた。


「私は、何もかもが中途半場で、身勝手な、……母親にすらなれなかった女に過ぎないわ」


 寂しがったり、恋しがったり、そんな子供らしい表情を見たことがないままに、『あの子』は大人になった。

 まだ、16歳なのに、大人になってしまった。


 母親の愛も、父親の庇護も必要なく。

 たったひとり、愛し守る少女がいればいい。


「確かに、私はお役御免よ。……これでいいのよ」

 そう言ったきり、淑子は口を閉ざした。


「母上、お体を大事にして下さい」

 継人は、息子として、小さな思い遣りを残し、母の元を去った。

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