第9章 新世代

第78話 新当主(一)

 高天原本家の近親の者たちが、大広間にずらりと集められた。

 現在の《数持ち》、側室、三代前までの《数持ち》の分家の当主又は後継者、そして財閥の上層部。


 一段高い所には高天原識の正妻、高天原淑子が座していた。

 そして、淑子は口を開いた。


「高天原家当主、高天原識が急逝しました」


 誰も口を開かなかったが、ざわりと空気が揺れた気配がした。だが、誰も進んで発言する者はなく、淑子の次の言葉を待った。


「葬儀は、ここに集まった者のみで行います。ただし、財閥の総帥として、公的な場を設けない訳にはいきません。前当主を偲ぶ会を開き、そこで弔問を受け付けます」


 淑子は、高天原識を『前当主』と呼んだ。

 重苦しい空気が流れた。

 淑子は、死因については何も語らない。尋ねる者もいなかった。高天原家とは、そういう家だ。


「遺言無く当主が不在となった場合、慣例として先代の正妻がその代理を務めます。これから、次の当主が立つまでの間、私がその権限を行使します」


 何の表情も浮かべていない、人形のように白い面が、無機的に言った。


「早急に、次の当主を定めなければなりません。高天原識は、後継者を指名することなく逝去しました。よって、私が当主代理として、次の当主をこの場で指名します」


 あまりにもあっけなく、淑子は言った。


「高天原の漆、直人を高天原家当主と定めます。異論を唱えても無駄ですが、ある者はこの場で言いなさい」


 誰もが、口に出さないまでも、意外に思い驚いただろう。

 本人である直人と、元々想定していた忍以外は。


「じゃー、言うだけ言うよ、前御台様」

 直人は淑子を見据えた。


「お前、継人兄さんをを当主にしたくて、見苦しいほど多喜子と争っていたよな。どうして、今更俺なんだ?理由を言え」

「私に、その疑問に答える義務はありません。臨時であれ、私は当主と同じ権限を持ちます。命令に従いなさい」


 正妻とは、沈黙し続けていた女王であったのだ。

 頂点であった帝王が物言わぬ屍となった今、淑子に逆らえば高天原の名と諸権利を剥奪される。


「わかったよ。相も変わらずお前の辞書に、恥って言葉は載ってないって事は。ついでに、俺の返事はNoだ。俺には、高天原の名は必要ない。兄さんや忍の方が、どっちもやる気は無くても俺より当主に向いてるだろ」


 忍が、どこ吹く風の口調で答えた。


「そうだねえ。確かに俺は、直人に負けじとやる気は無いよ。『部下の子は部下であれ』っていう母の教えもあるしね」


 高天原識の四人の妻の中で唯一、識の秘書であり忠臣であった梓だけが、後継者争いとは無縁であり続けた。

 継人も発言した。


「僕も、母上が望んでいないのなら、当主になる理由はありません。善人を気取る気はありませんが、『当主としては人が好すぎる』という評価は僕の耳にも届いています。自分でも、高天原財閥の頂点に立つには、覚悟が甘い人間だとも思います。ですが、総帥の座については一旦置いて、了を当主に立てては?まだ幼いですが、了は年長の《数持ち》全員に可愛がられていますから、一番角が立たないでしょう」


 了を理不尽に虐げた《数持ち》は、全員脱落した。了の同母の兄と姉をも失う形で。

 虚ろに病の床に伏した沙也香の背後には、後ろ盾になる実家が無い。いずれにしろ、兄達が了を保護することになるのは同じだ。


 えー!?と、了が年相応に子供らしい声を上げた。

「その、まだ幼いところを少しは考慮してよ。十歳の子供に当主を押し付けるって、継人くんって優しい顔してあんまりだよ」

「静まりなさい」


 淑子が制した。

「それぞれの言い分はわかりました。直人、兄と弟の心を汲んで、お前が次の当主を務めなさい」

「俺の心は汲まないってのは一貫してるんだな。まあ、いいよ。お前の命令じゃない、意図を汲んでやる。俺が当主になれば、絶対に兄さんの命と名誉を守るように動く。その読みだけは正しいからな」


 継人は、はっとして直人と母を見た。

 母は、自身の長子である継人の身の安全だけを考えていたのだ。


 何故、母はそんなにも残酷になれる?

 何故、いつから、直人は母の意図を見抜いていた?

 何故、それでも継人を兄と呼び慕っていてくれた?


 何故――どうして、自分だけが母と弟とふたりに守られて、何も気付かないまま、今まで安穏と生きてこられたのだろう?


 母上――直人、そう呼ぼうとしたのに、継人は声が出なかった。


「満足か?淑子」

 直人は、面倒くさそうに言って、面倒くさそうに立ち上がり、淑子が坐す場所へと歩み寄った。


「退け」


 直人は、淑子を見下ろした。

「いつまでそこに偉そうに座ってる?俺が当主なら、高天原識の代理はお役御免だ」


 淑子もまた、無感動に答えた。

「やはり、お前にして正解だったわ。宗寿以上に、お前は高天原識によく似ているから」


「お前、歳いくつだ?無理矢理に識に嫁がされたって20年以上被害者面して、権力だけは八つ当たりで振り回すのかよ。俺が腹にいるうちに殺さなかった事を後悔しろ。……頭が高いな」

「………!」


 直人は、上品に結った淑子の髪を鷲掴みにして、そのまま頭部をガツンと畳に打ち付けた。

 這い蹲った淑子は息が詰まり悲鳴も上げられなかったが、美しい白い面は痛みに耐えて歪んだ。


 広間はしんとして、誰も、何も言えなかった。


 沈黙の女王は、沈黙の暴君でもあったのだ。

 直人は、女王の息子でありながら、その女王に最も虐げられた者だった。


 たったひとり、声を上げた者がいた。


「直くん、お母さんに乱暴しちゃダメだよ」

「何で?腐っても母親だから?女だから?俺よりも弱いから?」


「んー、どれもだけど、一番はお母さんだから」

「それ、俺以外には二度と言うなよ。日本中の親ガチャ失敗した奴が炎上すんぞ」


 紅は、澄んだ瞳で直人を見た。

「それでも、淑子さんがいなかったら、は直くんに会えなかったから。淑子さんが直くんにしたことも、しなかったことも、間違っていたことは知ってる。でも、は直くんを生んでくれた淑子さんに、感謝してるんだ」

「……そうかよ」


 直人は、淑子の頭から手を離した。


「誰でもいい、この女を下がらせろ」

「……淑子様、失礼致します」


 梓が淑子を助け起こし、静かに上座から前当主の妻達が在るべき場所へと導いた。

 そして、当主のみに許された上座に直人が座した。


「先の高天原の漆、高天原直人が当主の座を継承する。今俺は機嫌が悪い。異議のある者は命が惜しくない奴だけ申し出ろ」

「うわぁ、直兄、様になりすぎて恐いよ」


 と了が呟いただけで、もはや誰も異議など唱えなかった。

 当主であった識も、一番不満があったであろう宗寿も、若い野心を燃やしていた伊織も、もうこの世に居ない。


 柳子は昏迷状態となり、睦は俗世を離れ、三人いた側室は梓ひとりだけになり、識の妻の座を拒んだ天女も、忘れ形見を残して永遠に去った。


 無言の了承。それが、高天原識の時代の終焉だった。

 そして、次の時代の幕開けだった。

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