第77話 夜明け

 割れた日本酒の瓶から酒が飛び散った畳の上で、高天原識は血走った目を見開いて、呻き掠れた叫びを上げながら、喉を掻きむしっていた。


「何を飲ませたんだ?」

「弥栄に――伊賦夜坂いふやさかに伝わる薬。薬草をいくつも混ぜ合わせて、呪いをかけた薬。作り方は僕も知らない。解毒方法は無いし、長く持っていると自分も呪われるから、三年以内に使うか、使い切れなければ燃やしなさいって、お母さんは言ってた……」


 作用は、幻覚。

 だが、死因は結果的に窒息死となる。


「幻覚って、何を見るんだ?」

「飲んで生き残った人はいないから、言い伝えでしかないけど……、最も見たくないもの、最も信じたくないものを見て絶望しながら、今まで自分が殺したり、陥れて人生を壊した人達の怨念の沼に、引き摺り込まれて溺れ死ぬ。……呪いの幻覚は、幻じゃないの。感じる本人にとっては現実だから、息が出来なくなって死ぬの」


 識が、首筋が傷だらけになるほど喉を掻きむしっているのは、呼吸が苦しくてもがいているのか。


 紅は、黙ってその様子を見下ろしていた。

 依頼は《人殺し》だ。その死を見届けなくてはならない。標的が目を見開いたまま、呼吸を失い、鼓動を失い、ピクリとも動かなくなるまで。

 

「……お母さん。べには、《依頼》を完了しました」


 朝、なかなか起きてこないと様子を見に行った側近が、遺体の第一発見者になるだろう。



 

 ふたりで、もう一度外に出た。

 夜が明けてゆく。


「……幻覚じゃ、ないかもしれない」

「どういう意味だ?」

「怨念は、人を殺せるから。高天原識には、たくさんの人に呪い殺される『資格』があったから」

「…………」


 紅は、静かに語り始めた。


「もう終わったから、やっと直くんに本当の事を言えるね。……お母さんの《依頼》はね、『必ず、生きて幸せになって。その道は、険しくて苦しい。必ず、誰かを殺さなければ生き残れない。ただし、べにが自分の手で殺していいのは、ひとりだけ。最もべにの幸せを妨げる、最もべにを不幸にする人間を、よく見極めて、決して間違えないように、そのたったひとりを、べにの手で殺して頂戴』……だったの」


 紅の母親の《依頼》には、険しく苦しい道の中で出会う、数多くの敵の中から、『ひとりだけを直接殺して』という条件があったのだ。


 高天原識が敵であることは、紅が高天原邸に連れ込まれて三日目の夜に、最悪の形で明らかになった。

 それでも、『最も紅の幸福を妨げる』、『最も紅を不幸にする』人間かどうかは、まだ判らなかった。


 紅が『ご縁』に導かれて着いた場所は、高天原家という伏魔殿だ。

 紅は、自ら隙を作り、見えざる敵を炙り出すという方法を取った。自分自身を危険に晒さなければ、敵は姿を現さないから。


 そして、炙り出された宗寿と伊織は、識を殺して自分が当主になり、紅を正妻という美しい所有物にしようと企んだ。

 柳子は紅を狙い、敵わないと知ると直人を殺そうとした。

 睦は、紅を陥れる為に、伊織と手を組んでいた。伊織が失敗し死んだので、睦自身が紅を殺そうとした。


 直人が思うよりずっと、紅の敵は多かった。


「どうして、『たったひとり』の標的に、識を選んだ?」

「ひとつは……の本当のお父さんが、同じ空の下に生きていてくれるかもしれないのに、絶対に捜して殺すそうとするから」


 紅は、自分を犯した相手だから識に復讐をしたのではないのだ。

 本当の父親を、母が心から愛した男を守ったのだ。


「もうひとつは……柳子ちゃんは負けることが判っていて直くんに挑んだけど、識は違うから。アイツは、本当に直くんを殺そうとしてた。識自身は戦えなくても、高天原家の頂点なら、どれだけ多くの手札を持っているのか、想像もつかない。を手に入れるためなら、お母さんを捜していた時みたいに、全ての手札を使って直くんを殺そうとするから」


 紅の声は、涙声だった。


「そんなの、イヤだよ。直くんは、に幸せを教えてくれたひとなのに……の幸せそのものなのに。死んじゃうなんて、イヤだよ。直くんを失わずに済むのなら、は《人殺し》になる。人殺しは罪だって言われても、構わない。直くんさえ、生きて傍にいてくれるなら、それだけでいい…!!」


 紅は、直人を守りたかった。紅にとって、直人が一番大切だから。

 直人も、その紅の心を理解したから、剣一本を貸すだけでそれ以上の手を出さないまま、最後だけ紅に守られることを選んだ。


「べに」


 直人は、紅をそっと抱き寄せた。


「俺は死なない。俺はべにと生きる。ずっと、べにの傍にいる」

「……うん」

「俺の、傍にいて欲しい」


 直人は、伝えた。


「べに。愛してる」

「…………」


 返事が無い。直人の胸に顔を埋めたまま、赤くなった耳だけが見える。

 また、誤作動されるのだろうか?

 そうなってしまったら、また機会を改めて伝えようと思っていると、紅がそっと顔を上げた。


 まだ涙が残る、でも頬がばら色に染まった愛らしい顔ははにかんで、紅は幸福そうに答えた。


「私も、直くんを愛してる。ずっと…直くんの傍にいたい」


 唇を重ねて、目を閉じても、朝の光を感じた。

 夜が明けて、地上に差し込んだ新しい光。


 呪いと悲劇は依頼と共に終わり、新しい未来が始まろうとしていた。

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