第42話 髪切り事変(二)

 ジャキン、と耳慣れぬ音が鳴った。


 紅は、何が起こったのか分からなかったのだろうか、きょとんとしていた。その足元に、長い黒髪がバラバラと散る。

 その光景に、凍り付いていた周囲が我に返ったようにざわめいた。


 柳子は、ただぶつかって難癖を付けて、いびるだけで済ます気など無かった。

 何もかも手に入れようとしている異母妹から、を奪ってやりたのだ。


 この方法で、柳子は睦の上品な愛らしさを奪った。

 真っ直ぐな絹糸のような黒髪なんて、大嫌いだった。柳子に甘い実母兄の伊織が「柳子の髪だって、紅茶みたいで綺麗な色だよ」と言ってくれても。


「鬱陶しい髪をヒラヒラしてんじゃないわよ!!邪魔なのよ、あんた!!!」


 鋏が目前に迫って、紅は顔を背けて両腕で庇った。鋏が、ザクリとブレザーの袖を裂く。


「出て行きなさいよ!!庶子のくせに、偽物のくせに、図々しく高天原を名乗ってんじゃないわよ!!」


 紅は、頭部を腕で庇ったまま廊下にがくんと膝を付き、うずくまった。それでも柳子は狂ったように紅の長い髪の毛を掴んでは切り、掴んでは切り続けた。


「出て行け!!あんたなんか、あんたなんか要らないのよ!!あんたなんか、…っ!?」


 柳子の手に、自分が強く握った鋏から、ガツリと嫌な感触が伝わった。

 髪の毛とは違う、『切ってはならないもの』を切ってしまったのだと、血の気が引くような感覚。


 だが、柳子の目に映った光景は《血》そのものだった。

 鋏は、これ以上紅の髪を切ることは出来なかった。鋏の片方の刃を、柳子よりもふたまわりほど大きな手が、ガシリと掴んでいたからだ。


 ――――の手…

 こんなに、大きくて、逞しかったかしら…?――――


 もう片方の刃が、刃を掴む手の肉に食い込んいた。鮮血が溢れて、リノリウムの床の上に、深紅の雨粒のようにポタポタと弾ける。


 柳子は、悪夢によろめくような思いで、自分の邪魔をした『コイツ』を見た。


 コイツ――――直人は、何も言わなかった。

 ただ、黒い瞳がが昏い光を宿し、刃よりも鋭く柳子を静かに見据えていた。


「…っ、きゃあああああ!!」

 目撃していた女生徒が悲鳴をあげ、鋏はかしゃんと廊下に転がった。


「べに!!」


 直人はもう、柳子を見てはいなかった。うずくまっている紅の両肩を掴もうとして、血だらけになった左手を引いた。


「べに!大丈夫か!?」

 直人は、言った瞬間から自分は馬鹿なことを訊いたと思った。


 紅の髪は、出鱈目にザクザクに切られて、さらりと揺れていたはずの長い髪は、無惨に廊下に打ち捨てられていた。


 女が髪を切られて平気な訳がない。そう知り尽くしているからこそ、柳子はこのような暴挙に出たのだ。

 この学園という箱庭の中なら、高天原の名ひとつでどんな悪行も罪に問われないことと同様に。


 そして、いつか聞いた、紅の思い出話は…


――――お母さんも、このくらい髪が長かったんだよ。

 僕は、お母さんが大好きだから、お揃いにするのが好きだったの――――


「べに、しっかりしろ」


 直人が右手で紅の細い肩に触れると、紅はのろのろと、身を起こした。

 俯いていた紅の白い面が、漸く少し見えた。


「…直くん……?」


 顔を上げた紅は、笑っていた。

 あどけないほど嬉しそうに、紅は笑って直人を見上げた。


「助けに来てくれたんだね。ありがと」

「…………」

「僕は大丈夫だよ。でも、直くんが大丈夫じゃないと思うんだよ?」


 紅は、ポケットからハンカチを出すと、直人の左手の傷を押さえた。

「ごめんね…一枚じゃ、足りないね」


 花が刺繍された白いハンカチは、みるみる血に染まってゆく。


「お前が謝ることじゃない」


 直人は、片手でネクタイを解くと、ぐるぐると左手に巻き付け、右手と口を使って縛った。

 そして、ブレザーを脱ぐとバサリと紅の頭に被せて隠してやった。

 こんな痛ましい姿を、これ以上衆目に晒したくない。そして、柳子に向かって言い放った。


「お前が出ていけ。この東千華学園から」


――――コイツは、こんなに背が高かった…?


 柳子は茫然として、だがヒステリックに言い返した。

「何言ってんの!?あんた、何様の…」

 つもり、と、言おうとして、言えなかった。


「五月蠅えよ。三番目の妾の八番目」


 生まれてから一度も聞いたことのない侮蔑の言葉に、柳子は顔を強張らせて立ち竦んだ。

 何事につけ無関心で面倒くさがりのはずの《兄》が、蔑みの視線で柳子を射抜いた。


「嫡子の俺が、紅を守るって決めてるんだ。俺に逆らうなら…紅に危害を加えるなら、ただで済むと思うな」


 直人は、紅の体をふわりと抱き上げると、軽く振り向きざまに低い声で言った。


「俺は《高天原の漆》だ。身の程を知れ、八番目」

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