第41話 髪切り事変(一)
いつか、出会う日が来ると思っていた。
当たり前だ。同じ学校の同じ学年なのだから、卒業まで会わずに済むわけがない。
体育の授業が終わって更衣室で制服に着替えた紅は、友人たちと賑やかに談笑しながら教室に戻る所だった。
そして、出会うべくして出会った相手は、やはり数名の女子生徒を連れてこちらに向かってきた。
「あ…」
友人の顔が強張り、ビクリと俯いた。
一瞬視界に入ったのは、《高天原の捌》高天原柳子だった。
柳子は、『高天原特権』を最大限に活用して東千華学園に君臨する、傍若無人な姫のような存在だ。
柳子に気に入らないと目を付けられた者は、執拗な虐めに遭うか退学・退職に追い込まれるか、徹底的に叩き潰されてきた。
柳子の高慢さも意地の悪さも有名だったが、柳子が華やかな美少女であることに異議のあるものはほぼいなかっただろう。
その不動と思われた柳子の地位と栄光を、突然現れたひとりの少女があっという間に覆した。
高天原紅。
高天原柳子と数ヶ月しか誕生日が違わない、異母妹。
格が違った。
天女のような、まるで地上の住人ではないような美しさを、柳子は持たない。
柳子がまだ面識も無い《妹》の噂話だけで不機嫌になり、苛ついているという事実は、校内にさざ波のように伝わっていた。
紅と友人たち、そして柳子とその取り巻きの距離が縮まる。
どうか、何事もなくすれ違えますようにと、きゅっと目を瞑った友人の祈りは、どん、と誰かが壁にぶつかった音に打ち壊された。
「何ぼさっとしてるのよ。私が通る時には道を空けなさい」
苛々とした声。混血の少女らしい白い肌。気の強さをそのまま表す鳶色の目。波打つ長い茶色の髪。
柳子に幼い頃から注がれた褒め言葉は、まるでお人形のように綺麗な子、というものだった。
睦が日本人形なら、柳子は西洋のビスクドールのように。
「道を空けるまでいかないけど、ちゃんと避けたよ?」
不思議そうな、ふわふわした声が答えた。
「なのに、どういうわけか、突き飛ばされちゃったんだよ」
少し乱れた長い黒髪を、さらりと手櫛で整えながら、《九番目》はにこりと笑った。
それだけで、人形は天女に敵わない。
「人混みでわざとでぶつかってきて、肩の関節外れた、治療費払えよってオラつくチンピラみたいだねえ」
「何ですって!?」
柳子は、声を荒げた。
まさか、始めからこんな生意気なことを言うとは思わなかった。
「やっぱり卑しい庶子は無礼ね!あんたなんか、本当はお父様の娘じゃないわよ。《偽物》の九番目!!」
「…ふふっ」
紅は、長い睫毛の目を細めた。
「はじめまして、柳子ちゃん。睦ちゃんみたいに、挨拶も忘れた無礼者になっちゃったよ。ごめんね」
「は?睦が何よ」
「どうもしないよ。睦ちゃんは、こんなに正々堂々と喧嘩売ってこないもの」
柳子は見た。天女のような顔で、あどけない表情で笑っていた《偽物》が、人が変わったように艶冶な笑みを浮かべたのを。
ゾクリとした。そして一瞬でも畏れを抱き、言葉に詰まった自分など有り得ないと打ち消した。
「偽物なんて、願ったりだよ。それなら、僕は直くんの妹じゃなくなるもの。ハッピーウエディング出来ちゃうよ」
「とんだ食わせ者ね。あんたにボディーガードなんて必要ないわよ。偽物でもお父様があんなに大きなパーティーでお披露目した体面があるのに、お兄さんに色目を使うなんてどうかしてるわ」
「色目、ねえ…」
魔性の天女が笑う。
「残念ながら、直くんには僕のお色気は通用しないんだよ。僕のこと、とっても可哀想な、とっても綺麗な生き物だと思って、とっても大事にしてくれるけどね」
とっても、と三度も繰り返す。
どれほど直人に守られているのか、とても幸福そうに。
「でも、柳子ちゃんは無理だね。柳子ちゃんって宗寿くんみたいに、直くんのこと偽物とか不義の子とか、いちいち罵ってるんでしょ?そういうの、直くんには《面倒臭い》んだよ」
――――お前、面倒くさい奴――――
柳子の脳裏に、今の直人よりも少し高い声が蘇った。
三年前、初めて出会った日。
怒声を浴びせた柳子を無表情に一瞥して、相手にする価値もないのだと、背を向けた少年の声。その言葉。
「柳子ちゃん、変化球なんて、投げられた方にとっては暴投でしかないんだよ?ただでさえ、自分の心なんて自分にしかわからないのに。正面から真っ直ぐに伝えなきゃ、どんな心も届く訳がないんだよ。だから、柳子ちゃんがどんなに綺麗でも、権力で人を従えることは出来ても、恋人も対等なお友達も、たったのひとりもいないんだよ」
突然に、突き付けられた孤独。
柳子の取り巻きは、友人ではないのだと。
権力と財力以外に、柳子は何も持っていないのだと。
「うるさい!!!」
柳子は、やっぱり持って来て良かったと思った。
その白い手に握られたのは、黒光りする鋏だった。
この少女は、邪魔だ。
こんな美しい化物がいるから、柳子の母は不安と怒りを持て余し、柳子は言い様もな苛立ちと、嫉妬だなんて決して認めたくない憎悪に駆られるのだ。
「邪魔よ!邪魔なのよ!!あんたがいなくなれば、全部元に戻るのよ!!!」
叫んだ柳子の手が振り上げられ、紅以外の少女たちの悲鳴が響き渡った。
直人は、屋上の給水塔にもたれて、忍から、そして一族の部下から送られてきた情報に目を通していた。
高天原家当主・高天原識、そして直人の師・高天原功の詳細な履歴。
今まで、無関心すぎた。
直人は強者ではあっても、他人への関心が希薄で、権力や財力についても同じだった。
玄冬の名を襲名しても、幹部たちに一族の管理を任せている部分が大きかった。
師の教えを淡々と身に着けた直人は、一族の禁忌を犯す機会など一切無く、高天原識が破門されたということは知っていても、何故《一族》から破門となったのか、興味も覚えなかった。
こんな身近な所に、高天原識と八坂蘭の繋がり、そして高天原永人の殺害に関する確実な証拠があったことに気付かなかったのは、自分の落ち度だと直人は思った。
そして、正妻・高天原淑子と、功の関わりは――――――――
自責する意味は無い。次の段階へ進まなければ。
そう思い立ち上がった時、直人はポケットの中に、紙が破れたような微かな音を聞いた。
小さな手縫いの袋に入っているのは、紅の形代だ。
袋の中身がどうなっているのかは、察しがつく。直人は、仕事用の携帯電話で高校の3Dマップを見た。
忍が言った通り、紅の居所を示す赤い点がふたつ存在する。
ひとつは今直人がいる屋上。もうひとつは校舎の1階。体育の際に使用する更衣室から、教室に戻る途中の廊下だ。
即座に最短ルートを把握する。
直人は、屋上を走ると柵を乗り越え、迷わずにコンクリートを蹴った。
投身自殺と思われたのか、誰かの悲鳴が聞こえたが、直人は数十年前に卒業生が植えた記念樹の緑に飛び込み、数本の枝を経てそのまま地面へと着地した。
校舎へと走り、開いていた窓から知らないクラスの教室に飛び入り、知らない生徒たちを避けて机の上を駆け、廊下に抜けた。ここまで17秒。
間に合え。
今行く、べに――――
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